十二時台、マウント深山、ある魔術師。


 太陽はまさに頂点に達し夏の暑さは直角に降る熱線に煽られ勢いを増す。それは新都に比べれば緑の多い深山町にある商店街、マウント深山においても同様で、日向日陰に関わらず外を出歩く者はまばらだった。

「待たせましたネ、ハリー。」

 ドアを勢いよく開け入ってきた少女は、しかし律儀にゆっくりと閉めると、光の加減で緑にも見える髪を半円を描くほどの早さで振り向きながらそう言った。額に浮かぶ珠のような汗が外の暑さを黙示する。窓から見えるシュラスコ屋の屋台をちらりと見ると、「停電で昼食に買っていく人が結構多くて」と言いながらテーブル上のピッチャーから水を注ぎ一息にあおった。

「ミツルは?」
「彼にはアンケートを纏めてもらっている。話を終えるまでには来るだろう。」

 汗をタオルでぬぐいながら問う少女に、老齢の男は地図を見ながら答える。空調の止まった室内は温度こそ高くはないが人から発せられる湿度に蒸され、暑さ対策で閉めきられた窓がそれに追い討ちをかけていた。
 携帯ラジオから流れる音だけが空間を占めること数分。唐突に、明かりがついた。同時にエアコンが涼やかな風をもたらす。「早かったな」と男は一つこぼすとその一人言よりも小さな声で異国の言葉を紡いだ。

「それで、話というのは?そのアンケートと関係が?」
「理解が早くて助かる。まあ、まずはこれを見てほしい。」

 人避けの魔術。場に生じた魔力からそれを察して本題を切りだした少女に、男は一台のノートパソコンを持ってくると彼女に向けて開く。

「ようやくパソコン買ったんですか」
「嘗めるな。ケータイだって持ってる。二十一世紀なんだ。魔術師だってインターネットぐらい使えなきゃなあ。」

 購入したばかりなのだろう、なにやら色々と広告のシールも貼られたままのそれを少女は見る。
 画面には画像の表示されたウインドウが幾つかあった。橋、川、ビル、病院、ファミレス、商店街。一見何の関連性のないものだが、少女にはすぐにその共通点がわかった。

「この写真冬木ですか?」

 自分の住んでいる街だ。一度か二度しか行ったことはなくともそれが地元の光景であることに気づくのは魔術師でなくとも容易い。こんなものを見せるためにわざわざ呼んだわけではないだろうと、画像を次々に見ていく。

 その顔が険しいものになるまでに一分とかからなかった。

「ここに写ってるのは……これじゃまるで。」
「ああ。こんな大っぴらに魔術を使うなんて、しかもこれだけのことができるとなるとアレしかいない。」

 後ろからした声に反射的に振り向く。認識阻害の魔術が使われているここに立ち入れるのは、魔術師をおいて他にいない。
 ――もっとも、『いなくなっていない』からこそ問題なのだが。

「魔術協会から連絡があった。ロンドンいるはずの遠坂の当主が今日の朝辺りから行方不明らしい。ついては、現地の魔術師である我々が事後処理に当たれとのことだ。」
「サーヴァントだ。そうだろう、アシヤ?」
「わかってるなら軽々しく言うな。高町が『出張』中の今は、名目上はアンタがリーダーだからな。」

 扉から入ってきた少年が鞄から紙の束を男に渡し、男はディスプレイに表示された画像に映る、フライングヒューマノイドを指差しながら受け取る。
 二人の間で進む話に焦れて「いったい何が起きてるんです?」と問うた少女に、少年は極めて簡潔に答えた。


「第六次聖杯戦争だ。」


「そんな……聖杯は十年前に破壊されたはずじゃ?」
「そうだ。2005年に行われた第五次聖杯戦争で破壊された。少なくとも俺たちはそう聞かされていたはずだ。」

 信じられない、と顔に書いてあるかのような顔を見せる少女に少年は首肯しながら答えた。
 少女は冬木に来てそれほど長いわけではなかったが、それでもあの聖杯戦争の顛末については魔術師仲間から伝え聞いていた。あれだけの大規模な儀式だ、半ば羨望を込めて冬木の魔術師達はそれぞれに探りを入れたり事後処理を手伝ったりと各々情報収集という名のおこぼれを狙っていた。そのためある程度は聖杯戦争の内情を皆が知るところとなっていたのだが、聖杯戦争はもう行われないという遠坂側からの説明もあり、その説明と矛盾する今回の聖杯戦争らしき現象はどういうことなのか……

「第五次聖杯戦争は2004年の――?」

 そこで一つ、頭の中でガチリと、歯車の噛み合わない音がした。

「どうしたのかね?」

 怪訝げな声で問いかける男の顔を見る。なぜだか、その顔は無感情なものに見えた。

「第五次聖杯戦争は、2006年では……?」
「なるほどエレナ。君は2006年か。ミツル、2006年に一票だ。」

 わけがわからない。「どういうことです?」と唖然としたまま聞いた彼女に、「これを見ろ」と少年は一枚の紙をテーブルに滑らせる。正の字と正の字の出来損ないが並ぶそれは、一目見て混乱に拍車をかけた。

「第五次聖杯戦争はいつ起きたか。冬木の魔術師に聞けるだけ聞いた。一番多いのが2004年。二位以降は2002年、2005年、2006年、2000年だ。」

 困惑、そして混乱。
 こんなことはありえない。聖杯戦争が起こるよりずっと。
 なぜならそれは、自分たちのことだから。あくまでも部外者であった聖杯戦争についてではなく、それぞれの記憶であるのだから。

「――記憶が操作されている?」
「可能性はある。皆が皆、聖杯戦争は2004年に起こったことを知っているし、事実起こったのは2004年のはずだ。だが……」
「冬木にいる魔術師の大多数が2004年以外に第五次聖杯戦争が行われた記憶も同時に持っている。」
「こんなことができるのは、それこそサーヴァントぐらいのものだ。」

 思わず天を仰いだ。どうやら自分はとんでもないことに巻き込まれてしまったらしい。頭がひどく痛んだ。

(なんか……もっと大事なことを忘れている気がしますネ……)

 はあ、とため息をつく。これから大変なことになりそうだ。



 十三時台、冬木市立病院、ある外科医。


 「縫合お願い」と言うと足早に扉を潜り手袋やマスクを外していく。幸い新都は停電していなかったのだが、疲労からかぐっしょりと汗ばんだインナーは体にまとわりついて気持ち悪い。「お疲れ様です!」との手術室からの合唱も背中で聞くだけに留め、向かうは貧乏臭いロッカールーム。

「――ようやくつながったか。」

 けたましく鳴るPHSをロッカーから取り出し通話ボタンを押した途端にスピーカーから響いた、男の苦々しげな声に、女医もつられるのか眉間に皺を寄せて「なんだ、こっちは急患で忙しい」と苛立ちを込めて答える。窓の外で鳴いていた蝉が飛びたっていくのが見えた。

「ならわかっているはずだ。今何が起こっているか。」
「連絡員が死んだことか?それともサーヴァントのこと?」
「把握しているならなぜ報告を怠った。」
「いっただろ、急患で忙しいとな。」

 にべもない、とはこの事か。
 女の返答を聞いて遠くローマで男がため息をしたのも耳ざとくスピーカーは拾い、地球を半周して女のもとへと届ける。男の呆れと苛立ちも冬木まで運んでくるかのようだ。
 手早く着替える。汗をぬぐう間もない。男が沈黙をやめたのはその僅かな暇だった。

「我々は現地で聖杯戦争が行われていると判断した。君は神秘の秘匿と人間一人のどちらが重要なのかもわからないのかね?」

 冷徹な威厳。
 込められているのは単に女への怒りだけではない。義務感、道徳観、正義感、そういったもの以外にも多分に感情的な部分と非感情的な部分がありありと。

 しかしそれに対して、やはり女の返答は冷淡。

「わかってるさ。だから切るぞ。」

 それだけ。
 喚く男をよそに着替えを終える。

「警察署前のスーパーマーケット。そこで奇跡的に一命をとりとめた急患がいる。私の腕なら明日中に話を聞ける状態にできる。」

 男の声に被せるように言い終話ボタンを押すとロッカーを叩きつけるように閉めた。

「結城先生!」

 荒々しく扉を開けて一人の看護婦が入ってきたのは、ちょうどそのすぐ後だ。

「今行く。」

 一声、返事をしてロッカールームを出る。女の戦場は待ってくれない。



 十四時台、冬木警察署、ある警官。


 「銃器対策部隊の田島です」とまだ若い警官が少し大きめの第一声を発したのは緊張のためというよりもそれだけ部屋の外からの声が大きいからというのが主な理由であった。
 異常なまでに空調の効いた署長室はまるで真冬のようだ。設定温度が下限にされたエアコンは台風よろしく轟音を立てている。その音すらも最初は気づかなかったほど、防音の施されているはずのこの部屋に響いてくる大音声は、敬礼して返事をかかしめいて待っている男の耳を打っていた。

「署長の須藤です。」

 一目見て、警官は署長が疲労困憊という有り様であると見てとった。これだけ寒い部屋であるにも関わらず、しきりに汗をぬぐっているその姿はどう見てもまともとは言えない。
 そんなことを考えていると、「資料は読まれましたか?」と問いかけられた。ずいぶん言葉は丁寧だが、視線はデスクの上の書類へと落ちていてちぐはぐだ。言葉遣いのほうは普段のクセなのだろうかなどと思いつつも頭に叩き込んできた情報を要約しつつ返答する。

「では……どう思います?」

 やはり視線は下に。しかし今度の問いは曖昧である。まあ、内容を考えればそうなのだろうが。
 返答に困るものだが答えぬわけにはいかない。俺はこういう面倒なの嫌だから警察に入ったんだがなあ、などと心中でぼやきつつも意を決して警官は口を開いた。

「あー……個人的な考えで良いですか?」
「一言で言うと、冗談かと。」
「冬木大橋の倒壊はテロで納得できますし、この深山町のクレーターも隕石の落下ってことは分かるんですけど。」
「公園とビルとスーパーがUFOに襲われたっていうのは――」

 「ドローンです」署長と目があった。

「……ドローンがレーザーで焼き払ったというのは、その、この資料を纏めた人間は正気なのかと。」

 なんとか失礼にならないように気を配りながらも素が出てしまう。それでも言うべきことは過不足なく警官は言った。つまり、「お前ら頭おかしいんじゃねーの?」と。
 この署長室に来るまでの間に半ばパニックになっている警官に何人会ったことか。だいたいUFOってなんだよ宇宙人ってなんだよトランスフォーマーか?今朝家出る前に前売り券買っちゃったぞこの野郎封切りまで一週間あるからそれまでになんとかせにゃならん。
 こんな内容で許されるのは小学生の夏休みの自由研究までだ。もっと言ってしまえばそれ以下だ。こないだ手伝わされた知り合いの子供の『冬木市七不思議』という宿題のほうがましなできだ。

(って、めっっっっっっっっちゃ言いてえ。なんだよこれドッキリか?)

 表情を変えないように努めながらも心の声は止まらない。しかし当然その声は署長に届くことはなく、再び目があうと喋り初めた。

「十年前のことです。」
「当時の冬木市では集団ガス中毒が頻発していました。」
「規模の大きいものでは穂群原という高校のほぼ全校生徒が被害に会っています。」
「このガス中毒は集団幻覚を引き起こしたようで、市民からはこの事件に前後して空へと昇る光の柱を見たとの通報が相次ぎました。」

 警官のなかで正直なところ「この警察署の連中はクラックでもキメてんのか?」という疑念が広がる。集団幻覚のなってるのはお前らだろ、と。

「二十年前のことです。」
「この時も集団ガス中毒が起こり同じような光の柱を見たとの通報がありました。」
「それどころか黄金の鎧に身を包んだ天使や怪獣が現れたという通報まで。」
「そしてそれと前後して、ハーメルン事件と冬木ハイアットホテルの爆破テロがあり、極めつけはあの大火災です。」

 本当に子供の自由研究のようなことを言い出した、と呆れ返る。というか先から言われていることはまんまそれだ。つい先日夏休みの宿題を手伝うために調べた情報とほぼ同じである。
 しかし、一つ警官には気になる情報があった。それは同じ県で起きた事件だったためによく覚えている。当時は新興宗教にでもさらわれたと子供の間で噂になった。あのカルト教団のテーマソングはよくリコーダーで吹いたものだ。

「ハーメルン事件……児童連続失踪事件ですか。」
「ええ。今の冬木市が呪われた地などと呼ばれるきっかけになった、と二十年経った今でも都市伝説に語られているあの事件です。」

 馬鹿馬鹿しい、とは今度は思えなかった。
 自分はいわゆる刑事ではないが、警察官になってからあの事件を少し調べたことがある。それはほんの好奇心からだったが警察内部から知ることのできる情報は多いはずだった。

 だがそれは異常だった。

 捜査資料と呼べるものは存在しなかった。誤解を招かない言い方をすれば、捜査資料に書かれた情報のうち被疑者に繋がるものは何一つなかった。当時の混乱を考えても十分な人手と手間隙を用いていたはずなのに、何もわからないということしかわからなかったのだ。最初にそれを見たときは上層部からの圧力でもあったのかと半ば真剣に考えてしまったほど、異常なまでに手がかりがない。そのことが爆破テロや集団幻覚といったことより、そんな大きな陰謀の匂いがするものより強く印象に残った。

「我々は今回の一連の事件をある種の見立て殺人のようなものとして捜査しています。」

 署長は警官の目をじいと見て言った。警官も署長の目をじいと見た。

「十年周期で行われる大規模かつ不可思議な事件。爆破予告と爆発。それらは全て関連している可能性があります。」
「そしてその重要参考人が、三度の爆弾騒ぎの現場にいた――」

 ぺらり、と署長は紙を手渡す。赤毛の少女の写真が資料を占拠していた。

「日野茜です。」



 十五時台、ある議員会館、ある議員秘書。


 地下鉄には照りつける太陽の暑さも届かない。無機質な丸ノ内線の一番出口は石の持つ暖かみというものを感じさせない涼しさに満たされている。
 国会議事堂を元にしているというそのデザインには目もくれず早足で歩く。すれ違う人もまばらな通路は足音を鋭く反響させ、普段より早く出口の光が見えた。

「わざわざ悪いな。」

 議員会館のゲートを通り監視カメラで面通しすると中庭を一瞥もせずエレベーターに乗り込む。しばしの浮遊感と重圧の後に、扉が開いて見えた懐かしい顔の第一声はそんなつまらないものだった。

「悪いと思ってるなら呼び出さないでくれ。こっちは会見の準備でてんてこ舞いだったんだ。」
「準備ならもう終わったと思ってな。」

 半歩下がる形で並んで部屋まで歩く。互いの顔は覗き込まねば見ることはできない。今日に限って部屋までの廊下はやたらに長く感じる。
 開いた扉を手で押さえて部屋に入った。二台しかないテレビには一つはNHKに、一つは民放にチャンネルを合わせているようだ。それぞれがヘリを飛ばしよく見た町にできた真新しいクレーターを空撮していた。
 しばらくぼうっと二人で見ていると、ほぼ同時に、画面が切り替わる。男達は反射的に時計を見た。記者会見の時間だった。

「官房長官が冬木の聖杯戦争について記者会見する日がくるとは思わなかった。」

 三分ほどだった。記者会見を見ていた男のうち、エレベーターまで出迎えに来た方が、話始めるまでにかかった時間は。

「情報化社会ってのは恐ろしいもんだな。サーヴァントの戦闘が全世界に生中継される。」
「あそこには結構な数の魔術師がいたはずなんだが、それでも封じ込められなかったか。」
「聖堂協会は去年引き上げた。間桐は途絶えたし顔役の遠坂もロンドンで行方不明だとよ。」

 そういって男がデスクの上にあったファイルを手渡す。資料を読むのも気にかけず「隕石の落下か。言い訳としては悪くない。さすがにあれをガス会社や不発弾のせいにするのは無理がある」などと他人事のように言うのが悲しかった。

「連絡はできたのか。」

 だから、思わず聞いてしまった。
 向こうから話すまで聞かないと決めていたのに。
 渡された資料に描かれた赤い円も見ないようにしていたのに。

「電話は通じなかった。」
「使い魔は。」
「永田町から冬木まで何百キロあると思ってる。」

 「コーヒーを入れよう。砂糖は2つだったな」と席を立つその背にかける言葉は思いつかなかった。
 画面ではよく見る町並みがワイプで抜かれていた。冬木大橋もそうだが、クレーターというのは小さい画面でも絵になるからか、その丸い惨状はずっとそこにあり続ける。子供の頃から知っているあの古風な洋館も、秘匿されていた魔術工房も、使い魔用の小池のようないけすも、全て塗りつぶされていた。

 魔術師としての一族の終わりがそこにあった。

 歴代の魔導の成果も、それを継ぐべき人間も、全てが失われていた。

 ポケットに入れた航空機のチケットをスーツの上から押さえる。1キロ。1キロずれていれば、あの惨状は自分達に降りかかってきていたのだ。


 トン、と軽い音が前方から立って顔を上げた。目の前には濃淡が渦巻く黒いコーヒーが置かれていた。そして向かいのソファに、テレビから背を向けるように、男は座っていた。

「とりあえずこれが現時点での冬木の状況だ。魔術協会も聖堂協会も介入するのは決定事項だろうが、時間がかかる。」
「完全に後手に回ったな。」
「そもそも起こるはずのない聖杯戦争だ。初動は仕方ない。だが問題はこれからだ。」

 向かいでコーヒーをすするのを見て、口をつける。同時に、まだ目を通していない資料にも目を通していく。
 A4で数枚の資料。短くもそこには、現地の被害の状況と魔術師達の情報が細かに纏められていることに驚いた。これをこうして形にする過程で、自分の家族が死んだことも重々受け止めることになったのだろう、などと一般人らしい考えをしたのは職業病だろうか。
 向かいの目を見る。その目は、こちらに向けらていた。
 その目はあの頃の目でありながらあの頃の目ではなかった。

 コーヒーを煽る。苦い。熱い。

「これからどうする?」
「――冬木で生物兵器によるテロが行われたとの情報を流して街への出入りを押さえてくれ。それができ次第、情報インフラも断絶させる。島ごとでもいい、市の内と外を行き来するあらゆる流通を潰すんだ。」

 コーヒーに目を落としたまま発した問いかけに、旧友の答えは理路整然としたものだった。魔術師ならばそうであるべきなのだから。

「ここでしくじれば今までの神秘の秘匿は全て無意味になる。」

 目を合わせることは出来ない。

「そうなったら――」

 ソファの下、足元の丸めた紙の柄が目についた。数字と矢印、関空、ポケットが重くなる。

「最悪の場合を考える必要がある。」

 男はそれをひょいとゴミ箱に捨てると顔を覗き込んでそう言った。



 十六時台、ある病院、あるジャーナリスト。


 ズーマーの太い車輪は多少の荒い運転でもしっかりとした安定感を運転者にもたらしてくれるが、今日に限ってはふらつく気がする。そんなことを何とはなしに思いながら走らせていると目的地である病院の駐車場を見つけて速度を緩めた。二輪のスペースに滑り込むとあわただしくエンジンを切る。自分が走ったわけでもないのに荒い息をしながら受付で名前を書き面会証を受けとると、廊下をダッシュしようとして看護婦から注意され、結果早足で病室へと向かった。

「あ、城戸さん!」

 名前を見つけると勢いよく飛び込んだ彼に、一人病室にいた女性は読んでいた雑誌から顔を上げて笑みを浮かべた。包帯を巻いた頭の傷が痛むのか少し顔をしかめたかと思えば、次の瞬間にははにかんだ表情を見せる彼女に、城戸と呼ばれた男は目に見るほどほっとしていた。

「良かった~!あっ……意識戻ったんだ。」

 思わず大声を出し、はっとして小声になる男を見て、女はまた破顔する。それにつられて男も笑顔になる。端から見ればカップルがイチャついているようにしか見えないが、実はこの二人が出会ったのはつい半日ほど前のことであった。
 男は記者だった。といっても、地域のミニコミ誌の、見習いライターだ。大学を出たはいいものの職に就けず、見かねたOBに拾ってもらい今のバイトをしている。それ以外にも喫茶店でウェイターをしたりもしているが、そちらの店主がバカンスに行ってしまい一月ほど暇を出されてからは、生活費を工面するために書く記事を倍にすべく冬木中をかけずり回っていた。
 女を見つけたのは、そんな風に記事のネタを求めて新都をバイクで流していたときのことだ。夜中に編集長から叩き起こされて冬木大橋の倒壊現場に向かったはいいが、既に規制線が引かれて大手のマスコミも集まってきていた。こうなると、せっかくの地元の大事件でもミニコミ誌には手が出せない。そこで代わりとなるものはないかとあてもなくズーマーを走らせていたが、当然そうそう事件など起こるはずもなく、休憩の為に人気のないファミレスに立ち寄ったところで、その事件を目撃したのだ。
 向かったファミレスで起きた爆発音と、霞のように消えていく青い巨大なこけし。何かの破片でズタズタにされた塀とひしゃげた自動販売機。そしてファミレスの制服に身を包んで頭から血を流して横たわる女。それが男が初めて当事者となった、この聖杯戦争のイベントだった。

「その……」

 ベッドの横の椅子に座る男とひとしきり談笑したところで、女は改まった顔をする。それにつられて、男も少し真面目な顔になる。この男、乗せられやすいようだ。

「改めて、ありがとうございます。」
「あのときあそこに通り掛かって通報してもらわなかったら、私、死んでたかもしれません。」
「本当に、ありがとうございます」

 深々と頭を下げる彼女に、「あ、えっと、いえいえこちらこそ」などととんちんかんな受け答えをしながら、男も頭を下げる。彼としては別に彼女を助けたことに深い意味も目的もない。ただ単に、助けたいと思ったから助けただけで、それでこうもかしこまって感謝されるとどうにもむず痒かった。
 そのまま互いに頭を下げることたっぷり十秒。どちらともなく吹き出すと、二人はまた笑った。と、同時に切り忘れていた男の携帯電話が鳴った。


「真司、今話せるか。」

 病室からロビーへと戻り耳に当てて開口一番に聞こえた声は、ひどく焦っているようだった。「編集長?」と思わず聞き返すも「周りに変な奴とかいないか?なんか、杖とか持ってるような」などと会話にならない。

「えーっと、松葉杖とかついてる人はいますけど。」
「今どこにいるんだ?」
「あー、病院です。洲本の。」
「洲本!?隣町か!いや、その方がいいか。」

 全く要領を得ない。男の顔は怪訝なものになった。編集長は暑くなる質だがこうまで会話が成り立たないことなど今まで一度もなかったからだ。「大丈夫ですか?」とふだん言えばぶっ飛ばされそうな気づかいをしてみても何度か荒い息が聞こえてくるだけだった。
 大久保さん、と男は名字で呼び掛けてみる。それから少しして、「一度で頭に叩き込めよ」と前置きした上で電話の向こうから一息に用件を告げられた。

「たまたまハイアットホテルから会社に電話かけてる時に聞こえたんだがな。」
「お前の書いたファミレスでの爆発事件の記事のことで話を聞きたいって奴が来たみたいたんだよ。」
「俺も電話越しに聞いただけだからよくわからないんだが、そいつらが何か変な呪文みたいなのを唱えたら、俺との電話を無視してあいつらペラペラ記事について喋っちまったんだ。被害にあったクライオスタットだっけ?あの子のことや青いコケシのことや記事にせず伏せたところまで全部だ。」

 はっ、と大きく息を吸う音が聞こえて、それから数度深呼吸する音が続く。男も、固唾を飲んでいた。あの女性の名前は警察との協定もあり、男と編集長、それに先輩の三人だけの秘密とすることにしていて同じ会社内でも名前を言わずまた聞かぬようにしていたのだ。そうでなくとも、ペラペラと話していいことではない。それは男よりジャーナリストとしての経験が深い先輩達ならわかりきっているはずだ。


「真司、気をつけろ。なんか妙だ。」

 電話越しに聞こえる編集長の声がべたりと耳にこびりついた気がして、男は気づけば病室の方へ向かっていた。



 十七時台、ある駐屯地、ある自衛隊員。


「災害派遣ですか?」

 すっとんきょうな声を、しかし男は小さく上げた。扉から出てきた上官から書類を受け取り目を通しながら三歩下がって歩く。

「冬木市に鳥インフルエンザが発生したとのことでうちの連隊が『出張』することになった。」

 なるほど、書類にもそう書かれている。それならば自分たちにとってはそういうことだ。
 きっちりと身に付けられた制服の後ろを着いていきながら「これはやっかいなことになったぞ」と一人言を言おうとして飲み込む。沈黙は金だ。

「不服かね?」
「まさか。」

 しかし、上官にはお見通しだったようだ。ピカピカ廊下を等速直線運動しつつ背中を向けて言われた言葉を口では即座に否定した。といっても、それが建前であることはわかりきっているだろうが。

「後方の部隊なら仕事はないなんて震災の時に諦めてますから。」
「良い心がけだ。それに国内ならまだ良いだろう。南スーダンに行かされるよりはマシだよ。」
「だいぶ焼けましたね。」
「おかげでだいぶ英語が上達したよ。それとアラビア語も。」

 男の所属する連隊の一部の部隊は今年南スーダンから帰ってきたばかりだ。さんざん土いじりをさせられたと聞いたが、もしやそれで自分たちが選ばれたのだろうか。などと考える。素直に考えれば同じ県内だから、というもっともらしい理由もあるのだが……

「しかし、よりによって鳥インフルエンザですか。去年の地震じゃ鶏が死んだって聞きましたけど、それにしたって普通に隕石の落下を口実にしても良かったんじゃ。」
「それじゃ困るんだろう。ただ治安出動というわけにもいかないんだろうな。選挙も近いらしい。」
「政治ですか。東京の方の考えることはわからない。」
「君も自分のボスが誰になるかぐらい考えておきなさい。」
「自分のボスは早乙女一尉です。」

 ざっ、と音をたて追い抜き、敬礼する。
 男にとって重要なのは怪しい命令でも胡散臭い政治でもない。上官への点数稼ぎだった。

「君は恥ずかしげもなく世辞を言うな。」

 あきれたと言わんばかりの顔をされるがそんなことは知ったこっちゃない。軍隊では良い上官に可愛がられること以上の幸福はない、それが男の持論であった。

「では……お義父さん。」
「君にお義父さんと呼ばれる筋合いはない。」

 そしてこれからパパになる人には多少あざとくも点数稼ぎをしておく必要がある。同じ職場に家族ができるんだ、円満に行こう。

「結婚認めてくれたじゃないですか!式だって三ヶ月後に迫ってるわけですし。」
「まだ結婚していない。」
「でも婚約はしています。」
「だいたい私は自衛官とだけは結婚すべきではないと君を見て確信したよ。」
「自分が奥さんに離婚されたからってそれはないですよ!」

 あ、やべ。

「君も南スーダンに連れていくべきだったよ。」



 十八時台、ある避難所、ある犬。


 犬は激怒した。
 必ずや彼の飼い主を涙させた者を一咬みせねばならると決心した。

 犬に人間のことはわからぬ。犬は飼い主の少女と遊んで暮らしてきた。だがゆえに、犬は飼い主のことに関して犬一倍敏感であった。

 今日の朝のことだ。犬はここのところ遅くまで寝ている飼い主を起こして見回りに出掛けた。いつものように肉を焼いている少女に挨拶し、その隣の肉を並べている翁にも挨拶し、少し行った反対側で魚を並べている男にも挨拶した。概ね、ふだん通りの見回りであった。唯一違ったのは、色々なものが置かれているところの女に、飼い主が冷たくて甘い食べ物を貰ったことだった。犬も相伴預かった。旨かった。

 食べ終わると、飼い主と共に巣へと帰ることになった。暑いのが嫌なのだろうか、早足であった。確かにどんどん暑くなってきていた。だから犬も早足だった。しかし、犬はなぜか帰りたくなかった。別に、仔犬のようにわがままを言いたいわけではない。むしろそんな明るいものとは別の危険な臭いがしていたからだ。
 そしてその嗅覚が生死を別けた。

 初めは、空に何かが立ち上ったのが見えた。犬は目が良くないのでそれが何なのかはわからなかった。
 次に、音が襲ってきた。犬はあまりの音に体がもみくちゃになったような感覚を覚えた。
 最後に、猛烈な土と砂の臭いがした。犬は鼻が良かったので直ぐに逃げねばならぬと決断した。

 犬は、飼い主をリードを引っ張ることで促した。やはりというべきか、飼い主は尻尾を丸めていた。人間という生き物は鼻は利かない癖に目はやたらに良いらしく、おおかたあの立ち上った何かの大きさに怯えたのだろう、体を丸め震えていた。こうなったら自分がボスになるしかない、動こうとしない飼い主を吠えたてて正気に戻すと、一目散にもときた道を走り初めた。


 今、犬は飼い主に抱かれていた。背中に埋められた顔からは涙が今も流れ犬の背中を濡らしていた。
 あれから犬達は人がたくさんいる洞窟に連れてこられていた。しかし、犬がいると同じ洞窟には入れないようで、洞窟の横にある台に飼い主は座っていた。膝の上に犬を載せ、泣きに泣いていた。


 犬は激怒した。
 犬も飼い主も理解していた。
 自分たちの巣が何者かに荒らされたことを。何者かに縄張りを踏みにじられたことを。自分たちと同じ洞窟で暮らしていた人間達は何者かに狩られたことを。

 犬は決心した。犬と飼い主の群を脅かした何者かは狩らねばならぬと。
 犬は鼻が良かった。だから気づくとができた。普段と町の臭いが違うと。

 犬は低く唸る。
 あの塀の上を行く猫も、あの木の上に止まるカラスも、あの地面を這うハトもスズメも、何か嫌な臭いがする。何か恐ろしいものを感じさせる人間と同じ、犬ならざる臭いだ。

 よって犬は、それら邪知暴虐の獣どもを喰らうべく高らかに宣戦布告する。


「アン!」


 一匹のポメラニアンの聖杯戦争はこうして幕を開けた。



 十九時台、■■■■■、上級AI。

「再現のためには衞宮士郎と間桐桜が不可欠か。」「可能な限り外堀は用意した。」「今からでもNPCとして追加すべきか。」「我々の目的は聖杯戦争の再現だ。それを忘れるな。」「再現ができないのならこのまま聖杯戦争を続ける意味はない。」「加えて、ムーンセルの脆弱性をつきえる者もいる。致命的な事態を引き起こされる前に消去すべきだ。」「ルーラーの存在は再現に寄与しないのではないか?」「ルーラーは抑止力足りえない。」「ルーラー・ビーストは適当なところで自害させる。」「奴は繋ぎだ。他のルーラーが生き残っていれば、知名度の補正が切れたアイツを本選のルーラーにする必要はなかったからな。」「そもそもルーラーはいらなかった。」「いや、ルーラーは必要だ。誰かが矢面に立たなければならない。」「今のルーラーを見てみろ、マスターの一人と教会でお茶を飲んでいる。」「余計なことを考えない時点で及第点だ。」「しかしビーストで呼ぶことはなかった。」「バーサーカーで呼ぶよりはましだろう。」「ビーストのクラスで呼べるルーラーのなかでは最適だったからな。」「だが今回で問題点が明らかになった。ルーラーを七騎までしか召喚できないようにしたのは失敗だったな。」「次回はルーラーに上限をもうけなくしてはどうだ。」「それではルーラーだらけになりか寝ない。本来は一騎いるかどうかのクラスだ。」「ルーラーにしか討伐令を出す権限がないのも問題だ。」「上級AIにも令呪を用意しておくべきだった。」「ルーラーの問題は今はいい。一番の問題は、NPCに流用したマスター達が記憶を取り戻しかねないことだ。」「そのような兆候はあったか?」「リソースを節約しようとしたのが仇になったか。」「魂喰いの効率がよくなったこと以外に大した影響はないだろう。」「それは重要な問題だ。」「マスターになる資格はないが、万が一ということもある。」「杞憂だ。」「どちらにせよ、悠長に構えている時間はないのは確かだ。」「明日一日でこの聖杯戦争を終わらせる。」「優勝者が決まればそれでよし。決まらなければ全てのサーヴァントを令呪でマスター共々心中させればそれでよし。」「それはあまりに乱暴だ。NPCの設定を変えたのだから放っておけば良い。」「そもそもNPCに手を加えること事態聖杯戦争の再現を妨げかねない。」「だがNPCの挙動が不自然だった。」「もっと非人間的でも良かったはずだ。」「再現の為にはNPCにもそれなりの自主性が求められる。」「神秘の秘匿を無視して聖杯戦争を行うとどうなるのかわかったのは収穫ではないだろうか。」「それは違う、神秘の秘匿は当事者だけで可能ではないとわかったことは大きい。」「いずれにしても次の聖杯戦争次第だ。それよりも今回の再現をどう次回に引き継ぐかが重要だ。」「それは議論の余地はない。ルーラー・ランサーを使う。」「観測できた時間と聖杯への執着のなさを考えればアレが最も適任だ。」「アレの宝具は情報の記録に有用だ。」「コードキャストで奴の体に刻み込むか。」「これまで温存してきたが使い所がきたな。」「もしもの時のためにセキュリティとして用意していたが、今まで出番がなかったことは良いことだ。」「しかしセキュリティにリソースを回しすぎたのではないか。」「あれでも危うい場面はあった。」「時空管理局がいまだアクセスを試みていることを軽視すべきでない。」「いずれにせよ今は滞りなく聖杯戦争を終結させることを第一に考えるべきだ。いつ終わらせてもいいように記録を進めろ。」「上級AIに賛成だ。」「お前は先から上級AIの肩ばかり持つ。それでは我々がこれだけいる意味がない。」「再現したマスターは皆同じなのだ、意見が似か寄るのも当然だ。」「それは意見が違う我々は劣化が激しいということになる。」「飛躍した話だ。」「どうでもいいが同じ顔をした人間がこんなにいるとちょっと面白いな。」「お前は劣化が激しすぎる、元の面影がないではないか。」「それを言えば上級AIが上級AIとして選ばれたことに疑問がある。」「黙れ下級AI。」「お前も下級AIだろ!」



【全体備考】


○この聖杯戦争の冬木市は現実でいう兵庫県淡路島五色町に位置します。洲本市との合併は行われなかったようです。

●『上級AI』は『第一回ムーンセル聖杯戦争』において、『今回の聖杯戦争での成果は得た』との方針を決定しました。
○NPCが聖杯戦争への能動的な行動をしても放任します。
○NPCの設定が上級AIによって消極的から普通に変更されました。以後NPCは何かのイベントに対して通常の度合いで反応します。

●『魔術協会』は『第六次聖杯戦争』において、『神秘の秘匿は至上命題だ』との方針を決定しました。
○冬木市に存在する魔術師のNPCに対し、魔術協会への協力が要請されます。

●『聖堂教会』は『第六次聖杯戦争』において、『神秘は管理されなければならない』との方針を決定しました。
○冬木市に代行者のNPCが八月三日(日)までに出現します。

●『県警』は『第六次聖杯戦争』において、『警察の威信にかけて捜査せよ』との方針を決定しました。
○八月一日(金)2000までに冬木市に警戒線が引かれました。

●『政府』は『第六次聖杯戦争』において、『テロに屈してはならない』との方針を決定しました。
○冬木市に自衛隊が派遣されます。
○冬木市に避難所が開設されます
○八月三日(日)0000までに冬木市に鳥インフルエンザが発生したとの政府発表がされます。
○八月一日(金)2000に冬木市を含む淡路島全域に避難勧告が発令されました。
○八月三日(日)0000に冬木市に避難指示が発令されます。
最終更新:2017年01月18日 22:42