「はぁッ……はぁッ……!」

 範馬刃牙は明るみが差してきた空を見詰めていた。
 人外なるものを追って疾走を続けていたが、その姿は数分と経たずに空の果てへ消えてしまった。
 鍛え抜かれた双脚をもって、まるで追随のできぬ相手。
 刃牙の胸中に浮かぶのは、ただひたすらの驚嘆であった。

(すげぇ……ッ)

 異常なる力の存在は知っていたが、まさかこれ程とは思わなかった。
 全力で追いすがり、それでも尚離れていく背中。
 相手が乗り物というのなら話は別だ。
 だが、生身の人間を相手に追い付けなかったという事は、今の刃牙にとって久しくない経験であった。
 能力の差をまざまざと見せつけられたようであった。
 鍛錬に鍛錬を積んだこの身体が頼りなく感じてしまう程だ。

「井の中の蛙ってか……」

 笑みを浮かべ、人外が駆けていった空と自身の拳とを見比べる。
 昂揚が止まらない。
 心臓はどこまで鼓動を強め、感情はどこまでも競り上がる。

「……たまんねえッ」

 欠伸の止まらなかった日々が、既に遠い過去のように感じた。
 今まさに彼は絶頂の中にいるのだ。
 凄まじいものたちとの戦いの最中に、彼はいる。

「たまんねえよッ……!」

 感情を迸らせ、彼は歩みを再開した。
 森林の中も大分明るさを増してきている。
 よくよく見れば視界の先で森林が途切れているのが分かる。
 ビル街だろうか、唐突に都会な街並みが広がっていた。
 刃牙は、歩く。まだ見ぬ人外なるものとの邂逅を望み、進んでいく。







「あっ……」

 宛もなく市街地を歩き続けてどれくらいの時間が経過したか。
 双海真美は視界の先で一人の男を発見する。
 まだ少年と言える、若い男であった。
 こんな殺し合いの場だというのに怯える事もなく堂々と歩いている。
 真美は男の存在に気付くや否や物陰へと潜んだ。
 拳銃は持っているものの、その扱いの殆どは見様見真似。
 遠距離からの銃撃などできないし、かといって近距離であれば容易に組み伏せられてしまうだろう。
 劉鳳の時は信頼関係を築いた後だったから、簡単に隙をつくことができた。
 なら、今回は?
 真美の選択は、不意打ちであった。
 足音をたてぬよう慎重に裏路地を進み、男の進行方向へと先回りをする。
 拳銃を構え、息を潜めてその場で待つ。
 男が通り過ぎ、無防備な背中を真美へと向けた。
 その瞬間、真美は裏路地から飛び出し、拳銃を構える。
 劉鳳を殺害した時のように、その後頭部へと。
 そして、引き金を引き絞る。

「え……?」

 銃声は、鳴り響かなかった。
 代わりとして拳銃を握る両手に衝撃があった。
 銃は、空を舞っていた。
 両手に走った衝撃に、銃を離してしまったのだ。

「あぶねぇな……」

 男は、片足をあげた状態でこちらに身体を向けていた。
 振り向きざまのミドルキック。
 凄まじいコントロールと速度で放たれたそれは、真美の両手を的確に打ち据え、拳銃を吹き飛ばしたのだ。
 宙を舞う拳銃を男が掴む。
 溜め息を大きく吐き、真美を見据えた。
 男の視線が真美を貫いた。

「一応聞いておくけどさ。何でこんなマネしたの?」

 呆れたように聞いてくる少年に対して、真美は急速に思考を回していた。
 不意打ちは完全に失敗し、殺意も見抜かれてしまった。
 男の身のこなしは凄まじく、万が一にも素手で殺せるような相手ではない。

(ど、どうしよう……?)

 諦める、という選択肢だけはなかった。
 皆を生還させるためにも、亜美の敵を討つためにも、ここで諦める訳にはいかない。
 何とか、何とかしないと……。

「あ、あれ……?」

 思考する真美の前で、男は唐突に表情を変えた。
 何かに気付き、驚きが顔を染める。

「ア、アンタ……いや、君……まさか……アイドルの……ふ、双海真美ッ……!?」

 真美は、男の感情の移り変わりを敏感に感じ取った。
 生のアイドルを見たという驚愕に、警戒が薄まる。
 その瞬間を、双海真美は見逃さなかった。
 一歩前に踏み出し、男の痩躯に抱き着く。

「た、助けて……」

 涙を滲ませ、声を震わせ。
 一瞬で真美はもう一人の己を造り出す。
 アイドル活動の中で培われた演技力。
 それを全力で発揮した。

「助けて、お願い!」

 突如抱き締められた男は、どうすればいいのかも分からず困惑の中で真美の温もりを感じていた。





 数分後、範馬刃牙と双海真美はビルの一つに身を寄せていた。
 啜り泣く真美を宥めながら、刃牙は何とか話を聞き出そうとしていた。
 助けを求めてきた理由。
 真美が何で泣き、何故自分を狙ったのかという理由を、聞きだす。

「ルパン一味が、亜美ちゃんをッ……」
「う、うぅ……」

 止めどなく涙を流しながら、それでも真美は語ってくれた。
 殺し合いの場で、妹である双海亜美と早々に合流できたこと。
 二人で行動していたら近付いてきた三人組がいたこと。
 その三人組がテレビでも有名な大怪盗の一味・ルパン一味だということ。
 最初は友好的に接してきた三人だったが、突如として豹変し襲い掛かってきたこと。
 双海亜美が、己を犠牲にして何とか真美だけを逃したこと。
 怖くて怖くて仕方がなくて、そして思わず自分を狙ってしまったこと。
 それらを涙と共にに一つ一つ零しながら、全てを語った。

「ありがとな、話してくれて……辛かったろ……」
「う、ううん……真美は、真美は平気だから……」

 真美の言葉が虚勢だということは、刃牙にも見て取れた。
 こんな殺し合いに巻き込まれ、騙され、裏切られ、肉親を失って……。
 肉親を失う辛さは刃牙も知っていた。だからこそ、真美の心情が理解できる。
 その辛さを理解できる。

(……ふざけんじゃ……)

 握り噛まれた手のひらから、血が滴り落ちていた。
 己の内側にマグマのように熱い何かが湧き上がるのを感じた。

(……ふざけんじゃねえぞッ、糞野郎ッッッ……!!)

 怒りが、堪えようもなく渦巻いていた。
 765プロ所属のアイドルとして有名な双海姉妹。
 その名前、その姿は刃牙ですら知っていた。
 詳しく見る事はないが、それでも時折テレビで流れる二人を見ると、とても明るく無邪気な様子であった。
 天真爛漫、という言葉がとても似あう姉妹だった。
 その姉妹に暴力を振るい、引き裂き、涙を流させた者達。
 ルパン一味。あらゆる宝を盗み出す怪盗集団。
 殺人を犯さないという触れ込みだったが、どうやらこの殺し合いの場で化けの皮が剥がれたのだろう。

「真美ちゃん……心配しなくていい、俺が君を守護(まも)る」

 真美の話に、真美の涙に、刃牙の心は固まっていた。
 この少女を守護(まも)ること。
 そして、ルパン一味を完膚なきまでに粉砕すること。
 範馬刃牙は、決意する。

「刃牙にいちゃん……ありがとう」

 双海真美は再び抱き着きながら、堪え切れず嗚咽を零していた。
 触れれば壊れてしまいそうな程、細く、か弱い身体。
 絶対にこの少女は守護(まも)ってみせる。
 範馬刃牙はそう想いながら、拳を強く握った。






(良かった……上手くいったね)

 刃牙に抱き着きながら、真美は冷徹に思考する。
 範馬刃牙の警戒を解こうと並べた嘘八百。
 刃牙は容易く信じてくれた。
 もちろん亜美を殺した相手がルパン一味かどうかなど分からない。
 ただ、ルパン一味が犯罪者である事は有名であるし、ならばこそ殺人を犯したという嘘も信じ易い筈であった。
 結果、刃牙はころりと騙されてくれた。
 自分の言葉に、自分の演技に、疑うこともなく。
 抱き着いただけで分かる刃牙の鍛え抜かれた身体。
 不意打ちを察知し、容易く退けた身のこなし。
 それらが味方となり、脅威から自分を守る騎士となってくれたのだ。
 あとは劉鳳と同じだ。
 いつかお役ごめんとなった時、その信頼しきった無防備な背中を撃ち抜けばいい。

「よろしくね、刃牙にいちゃん」

 少女は笑みを浮かべながら、刃牙の耳元で囁く。
 彼女には似つかわしくない、とても冷たい微笑みがその口元に浮かんでいた。

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最終更新:2018年01月26日 22:47