第四回戦SS・自宅その2

久喜依織は、無音の空間にいた。
音だけではない、光りも、上下左右の感覚もない無の空間。戸惑いはない。
無から手元に、小麦と量りが現れた。淀みない動作で計量するうちに、砂糖、牛乳、バター……馴染みきった次々と現れる。
今日は何を作ろうか。思考と行動はほぼ直結だ。流れるような速度で計り、練り上げ、型抜き――そして現れたオーブンへ。時間は一瞬であり、同時に十数分。
かぐわしい芳香。そう、今回のクッキーは――。

ナインオーガは、閉じていた眼を開けた。
魔人能力クッキー・クリッカー。己ですら視覚的には認識しえないその亜空間内で、クッキーを仕上げる自分自身、そのイメージトレーニング。一日も欠かしたことのない鍛錬だ。
C2バトル、最後の戦いは近い。仕上がりは完璧。
勝つに越したことはない。だがこのイメージと現実の差を限りなくゼロにすることが己の使命であり、積んできた功夫(クッキー)だ。しかし。
一つの確信があった。これでは足りない。
外法も、奥義も、躯伎に伝わる業は片っ端から覚えた。だがそれでも、自分の望みを叶えるためには、一つ決定的に足りない。
見つけなければならない。その足りない、究極にして至高のクッキーレシピを。だが如何にして? 具体的には?
……わからない。ナインオーガな七坂七美との戦いの後、手近に発見し乗り込んだ貨物船の隅で、幾度目か判らない自問を繰り返した。

ナインオーガにとっての『最高(クッキー)』とは?
答えは、未だ出ていない。
しかし、答えは出なくとも、もうすぐ陸だ。密航……間借りさせてもらっていた船だが、そろそろ去らなければならない。オーガは再び海に飛び込むべく立ち上がった。
その時であった。

「わーはははぅあーーーはははははぬひょーーーーーー!!」

陸を駆け、海上を駆ける寄声が、オーガの視界に切り込んで来た。

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ピーンポーン。

「はぁーいはいはいちょっと待ったってやー。……もう何やの朝っぱらから。こっちはプリキュア終わって題名のない音楽会タイムやっちゅうに……」

芹臼ぬん子が、ぼやきながら玄関へ向かう。場所は東京、とあるアパートの一室。希望崎学園に通うに当たって、親元を離れ借りている部屋であった。

「ぬあひゃひゃー」
「……へ?」

メロスであった。全身ずぶ濡れ、打ち身や擦り傷に塗れているが、それは間違いなく彼女の盟友、夕張メロスであった。

「ちょ、あんたどうしたんやこんな時に!? いやあんたのせいでウチはな……や、ええとそうやなくて……いやボロボロやんかメロス! とにかく入り……」
「……んん」

ぬん子に促されメロスが続く。ちょっとだけバツの悪そうな顔で、頭を掻いて。
――ん? ぬん子が違和感。

――なんやこいつ、ちょっとすまなそうな顔してからに。一までこんな表情見せたことあったか? いや無くはないけど……ここで? そんな悪いと思ってん……。

ぬっ。

その時、メロスに続いて入室する影あり。
マウンテンパーカーにワークキャップ。月面のクレーターを思わせる意匠の仮面にからは角が覗いている。余りにも自然なエントリー。
ナインオーガであった。

「……きゃ、きゃあああああーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」

不審者の登場に、芹臼ぬん子の悲鳴が炸裂した。冷蔵庫にマグネットで止めてあるC2カードが、密かに反応の点滅を示していた。

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「え、ええとそれで……あんさんはこのアホをしばき、いや保護してくれたと。そ、そりゃおおきに……」
「あひゃひゃー」
「このヒト無口やしあんたから話聞くしかないけどな、別にメロスは全然褒めとらんで」

 芹臼ぬん子の自室。ぬん子の対面に、ナインオーガが正座していた。
 数時間前、船から去ろうとしたオーガの前に偶然現れたのが、この夕張メロスであった。都市伝説の仮面を被るオーガとしては条件に当て嵌まる相手なら詰問も吝かではなかったが、メロスは当然、そのような輩ではない。
 しかし何が楽しかったのか、メロスは突然、オーガが去らんとする船に向けてその疾走の舵を切ったのだ!
 ……結局のところ、場の流れによってオーガがクッキーの全力を持ってメロスを止め、テンション爆上がり状態の彼女の歩みに任せるまま、家元の近くまで連れていかんと現れた運びなのである。
元来、ナインオーガとしても、仮面の下の人物――久喜依織――としても、そこまでする義理はない。だが、最後までしてしまった。途中で、カードの反応にも気づいたからというのもある。だがこのC2バトルにおける戦いで、ナインオーガの仮面を被る久喜依織自体の人間性も、少しづつ露わになっている。それも確かであった。

「さて、まあ……こんな空気になって若干やりにくいっちゅうのもあるけどな」
「……」
「うひゃばあー」

オーガは黙っている。出された茶菓子に手も付けない。メロスがテレビのリモコンを叩いた。ルフィが画面に現れる。ワンピースだ。

「うちもな、ワケあってどうにも戦わなきゃあかんねん。それでまあ……うん、あんさん動画と前情報なんか大分印象違うから調子狂うねんけど」
「ばばばー」

メロスがゲラゲラと笑う。オーガも画面を見る。

「まあ、どっちが勝っても恨みっこなしっちゅうこって……。あ、ウチちょっとエステの紛いモンみたいなことしとるんやけどな、もしバトルが終っても……」
『いけませんサンジ様、王族が床に落ちた食べ物など!』

メロスが菓子をバリバリと喰う。今にも走り出しそうだ。

「なあちょっと……」
『ヴィンスモークの恥さらしが……』

オーガは無言。メロスは屈伸をしている。

「えと、あのな……」
「ばひゃひゃひゃー」
『クソお世話になりました!!!!!』

ぶちん。

「聞、け、やあああああああああっ!!!!!」

激昂! ぬん子が湯のたっぷり入った電子ポットを掴んでオーガに投げつける。
カロリー☆メイク!
脂肪がオーガの仮面を覆う、流れる様にキック!
だがその瞬間、摩擦音、火花。

ゴウ!炎!

「うおっとと!!」

とっさに炎を脂肪に変え難を逃れるぬん子。そう、ナインオーガは自らのクッキーを素早く擦り合せ、脂肪を逆に炎として返したのだ。
とっさに転がり体勢を立て直すぬん子だが……卓袱台にもうナインオーガはいない。
見るとベランダの外……既に隣家の屋根に移動しているではないか!
クイックイッ。加えてこちらを手招きする挑発つきだ。そしてすぐさま跳び消える。

「あんのボケ……! やったろうやないかい!」

ぬん子は怒り心頭だ。飛び出したところにさらに電話!

「はいこちら芹臼!」
『おうぬん子か。喜べ、次のシノギ……相手が決まったぞ』
「はいわかっとります! うちも今相手しとる所です!」
『おうそうだナインオーガ! いやいきなり来るからセッティングに手間取ったぜ。お前の部屋の様子もこっちはバッチリだ! メロス確保ついでに頑張ってくれ』
「あんたも何やっとんじゃあああああ!!」

ぬん子が吼えた。部屋には一人、メロスが残された。



――周囲は、クッキーの残骸で満ちていた。

「……ふう、どうや。全部消したったで!」

東京都心都庁前。ここに至るまでの道は、クッキー武器に、脂肪塊、溶けた脂でべたべたに汚されている。その有様だけでも、彼女たちの死闘を雄弁に物語っていた。
元より、躯伎の技も、自分の魔人能力も、ぬん子のカロリー☆メイクとは最悪の相性に近い。
チョコチップクッキーの型も、ドロップクッキーの型も、アイスボックスクッキーの型も、ラングドシャの型も、全て決定打には至らず退けられてきた。

「なあ、もう降参しとき。ウチも別に命が欲しいわけちゃうで。なあ?」

ぬん子が歩み寄った。だが……オーガの仮面の奥の瞳は、まだ死んでいない!
オーガが大きく、地面に手を突いた。
オベリスククッキー!
過去最大のクッキーが、地面よりそそり立つ!

「うわあっ! くっそ、とことんやるっちゅうワケかい!」

すんでで躱すぬん子。だがそこにオーガはいない。オーガ……上空だ!
オベリスククッキーを足場に、オーガは跳んでいた。

――オーガは沈思する。
絶対絶名だ、自分の望みの、夢の、最大の障壁。この事態を打破するカギは?
答えは一つだった。
そうだ、出来るはずだ。自分にしか出来ないクッキー。今、私の望みを叶えるには、それが不可欠。では、そのクッキーとは何だ? 躯伎奥義のことごとくを網羅した自分にかけているクッキー?
――いや、構想はある。今までずっとクッキーと共にあった。そんな私なら――出来る!

都庁上からの落下の中、ナインオーガは手をかざした。クッ気ーの高まりが満ちる。

長鳴ありすさん。
――あらためて、ごちそうさま。最高のクッキーだったよ。またいつか食べたいものだ。
感謝を、ありがとう。
ゴブリーさん。
――人に無理やり押し付けられた尻体験で誇りまで売り渡しちゃあ……『武尻』のゴブが、ゴブである甲斐がないのゴブ~!!
誇りの心を、ありがとう。
七坂七美さん。
――だからその前に、あなたの望みともう一度向き合いなさい。
自分と向き合わせてくれて、ありがとう。
みんな、みんな。大切なことを教えてくれて、ありがとう。

オーガの体から、クッ気―が……いや、極小のクッキーそのものが吹きだす!

無天(アトモスフィア)クッキー!」

そのクッキーは、存在自体が矛盾していた。小麦粉の直径より小さい(・・・・・・・・・・)、クッキーの空気による空気。
大気に満ちるクッキーの中、ナインオーガの最後の拳が迫る。
この場を起点に、空間が、世界がクッキーに染まる!
それこそがオーガが辿りついたクッキーの極致! クッキーに抱かれ、己自身をクッキーとなす、オーガがクッキーだ! クッキーがオーガだ!

「まっず……!」

クッキー即ち熱量である。本来ならこのクッキーの塵とて即座に脂肪にかえられる。だが……あまりに広範過ぎる! それに脂肪とて、クッキーの材料と言えなくもない。脂肪を変えた傍から取り込んで、アトモスフィアクッキーに変えられてしまうのだ。
 そしてぬん子の瞳に飛び込んでくるのは、その絶望の終着点――!

「……うそやん」

視界いっぱいのクッキー。さながら隕石のような、巨大な月のようなクッキー。幻覚か、本物か、はたまたナインオーガのクッ気ーの行きつく果てか。真っ直ぐ自分に向かって落ちて来るそれであった。

「くっそ……」

こんなもの、どうすればよいのか……。

「くっそ……」

そもそもなぜこんなことになってしまったのか。自分が一体何をしたというのか。苦しい、全部あのメロスと、ヤクザな先輩のせいではないか。

「アホ……」

ぬん子は叫んだ。オーガにも、メロスにも、世界の全てに叫んだ。そうでなければやってられるか!

「あいつらの、アホーーーーーーーーーーーー!!!!!」

巨大クッキーが、地面に激突し砕けた。
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アトモスフィアクッキー満ちる空の下、ナインオーガが立ち上がった。
勝利。勝ったのだ。どこから伝えられたわけではないが、実感として分かる。
ぴしり。
 縦に入った亀裂から、オーガの仮面が真っ二つに割れた。落ちる面を両手で受け止める。
月面のクレーターを思わせる、否、クッキーそのものとしての意匠。
鬼とは転じて神である。即ち己にクッキーを降ろし、己自身をクッキーとなす、(クッキー)懸かるための面。
 いや、それも少し違う。これはつらい時に被るたび、力が湧いて来た仮面。涙があふれる顔を隠すたび、心を落ち着かせてくれた仮面。幼き頃部屋の隅でみつけて以来、ずっと自分を守ってくれていた仮面。
 表面に大きくついた傷も、久喜との決別のため自ら刻んだもの――オーガーさんは『顔を剥ぐ』のだ――だが、その悲しいいきさつの記憶も、今はもう(おぼろ)だ。少し寂しいが、喜ばしいことだとも思う。

 どざららららららら!
 見上げた空から、アトモスフィアクッキーが結集したクッキーが滝のように降り注ぐ。辺りの騒ぎはかなり大きい。老若男女様々な出で立ちの人々が、目を白黒させている。

「……ぷっ。くす、あははははは!」

能面のようだった顔が大きく吹きだした。大量のクッキーだが、いずれやむだろう。しかし、あんなにたくさんの人が口を開けて驚いてる。おかしいそれが妙におかしかった。

……なりたいな、クッキーやさん。うん、ひらこう、クッキーやさん。
もらったお金で足りるかな。家は好きじゃないけれど、最後に少しだけ助けてあげよう。会社が大変みたいだし、大叔父さまの会社は好きで、無くなってほしくないけど、でも久喜の人には、私が助けてあげたんだぞって大笑いしよう。
 うまく行くかな? 小さい子みたいな夢かな? ううん、いいや。今迄お世話になった人、この戦いで出会った人、みんな呼ぼう。皆に自分のクッキーを食べてもらおう。おいしいレシピにメニュー、わたしまだまだいっぱいあるの。
――でも、最初のお客は伊月ちゃんがいい。仲が良いだけじゃなかったけど、それでも自分にとって一番近くにいて、一番色々な顔を見せてくれたあの子がいい――。
稚気にあふれた願いだった。困難に満ちた、まともに叶うとも知れない夢想だった。
しかし、この数週間のバトルで依織が胸に抱き続け形になった、確かな宝物だった。

さよならオーガーさん。待ってるから、いつかまた遊びにきてね。



C2カードが、打ち滅ぼされた体を再生していく。
アスファルトの上、大の字に寝転がったまま、芹臼ぬん子は、クッキー満ちる空を見上げていた。

「……あー、負けてもうたか」
「うひゃあーーあびゃああー!!」

周囲には、まだメロスと思われる声と騒音。

「まあ、ええか」

ぬん子は笑った。こいつと一緒なら、また何とかなるだろう。

最終更新:2016年09月25日 00:10