――その日。
たった一人の少女の言葉が、世界に激震を与えた。
『皆さま。本日は私の我が儘のためにこのような場を用意していただき恐悦至極にございます』
背後に肖像画の掛けられた、瀟洒な一室。
色素の薄い髪を肩口に垂らした、年端も行かぬ少女が微笑んでいる。
フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロン。
遥か上空に悠々と生きる、天空の民。
エプシロン王国の、第一王女である。
『私事ではありますが、次の満月の折に我が国での成人を迎えます。そして同時に、私も王族の一員として、他国を見て回る任を授かりました』
遠い地の電波をやっとのことで拾い上げるモニターは、時折喘ぎのように細かな砂嵐を走らせる。
小さな唇から紡がれる言葉に、映像を固唾をのんで見守る世界各国の要人が腰を浮かせた。
エプシロン王国――不可侵のその国が発見されたのは、十数年前になる。
長年秘匿され続けていた特異点が白日の下に晒された瞬間でもあった。
街並みこそ、中世ヨーロッパの如き前時代。
だが、浮遊する大地につけ、あらゆる人体的損傷をたちどころに治す至高の霊薬につけ。
かの国が誇る超自然の技術が、たちまちに全世界の羨望の的になった。
以来、エプシロンの王族の一挙一動に、世界は細心の注意を払うようになった。
もし彼らが自国を訪れるようなことがあれば。そこで、彼らに気に入られることができれば。
彼らの持つ奇跡の一端を、自国の物にできるかもしれないと――!
『私、フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロン――最初の仕事です。国外視察……お邪魔させていただきたくお願い申し上げる国は』
一度、言葉を切って。
世界全体を焦らすかのような一瞬は、しかし彼女にとっても、胸の内に募った万感の思いを口にするために必要な時間だった。
『……日本です』
「……お疲れさまでした、フェム様」
「ええ。ありがとう、ピャーチ」
会見を終え、自室に戻ったフェムに侍女・ピャーチが水を渡した。
くっと飲み干せば、ピンと張り詰めていた緊張の糸が次第に緩んでいくのを感じる。
「ふふ。しっかり、良い子に見えていたかしら?」
「御立派でしたよ」
「断られてしまってはいけないもの。お父様たちのため……なんて、そういうのはもういいよね。ふふっ、私のため……」
会見で見せていたのとは、また別種の微笑。
柔らかく慈愛に満ちた天使の笑みとは、ある意味で真逆。悪戯を内に秘めた、小悪魔の微笑だ。
「ちゃんと汲んでくれるかしら? 私の想いを」
「ええ、きっと。日本の方々は忖度に長けていらっしゃいます」
「楽しみね。ふふ、楽しみ……」
ぼすん、とベッドに倒れ込む。
ドレスの裾が捲れ上がったことも気にせず、そのままクスクスと笑っている。
侍女のピャーチも慣れたものか、咎める視線すら送らず二重底の引き出しに手をかける。
「それで、今日は如何しましょう? 世界大会の決勝ですか? それとも裏社会の賭けトーナメント?」
「ううん。もう少し……そうね、しんみりしたものがいいわ」
「では、こちらにしましょう。中国の秘境にて行われた、脚光当たらぬひとつの決闘を」
取り出した鏡の縁を数度、侍女の指がなぞる。
期待に満ちた瞳の少女を映していた鏡は、チャンネルが合ったかのように、鏡面にありえぬ映像を映した。
これもまた、エプシロン王国が誇る超常の秘宝のひとつである。
「おお……」
シーツをきゅっと掴み、瞳を爛々と輝かせ、自然と身を乗り出して。
フェムが食い入るように見つめる鏡の中では、二人の武人が睨み合っていた。
髭を蓄えた老兵が槍を構え、対する辮髪の拳法家は静かに呼吸を練り上げる。
踏み込む。突き出される槍。肌を浅く切られながらも躱し、すれ違いざまに掌打。
それは槍の柄で受け止め、互いの位置がそのまま入れ替わる。両者、同時に薄く笑む。
「はあ……っ」
盗み見る少女もまた、蕩けるような笑みを浮かべていた。
吐息は熱っぽく、せり上がる感情を押し留めるかのように身体を掻き抱いて。
目の前の命の取り合いに心酔しているようだった。
勉学に勤しむ時も。
習い事を嗜む時も。
王女として人前で相応しく振舞う時も。
フェムはどれも真剣に、そして同じくらい、楽しんでいた。
お仕着せの役目ではない。自ら、望んで王女たらんとしている。
両親を。国を。民を。フェムは、心から愛している。
(――でも。愛よりも強い感情を向ける先が、フェム様にはある)
ピャーチの瞳から、感情は読み取れない。
およそ王女らしからぬ、尋常なる殺し合いの空気に耽溺する姿を、ただ見つめている。
そう――フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロンは、戦いの虜だ。
生まれ持った能力と能力。
築き上げてきた技能と技能。
それぞれが背負った思いと思い。
ぶつかりあい、火花を散らせ、やがて儚く消える。
その一部始終がこの上なく彼女を魅了していた。
『――魔人。魔人能力は、その性質から嫌われることも多いと聞きます。危険だと、虐げられることもあると。ですが、私はそうは思いません』
ピャーチが思い出していたのは、先刻の会見の続き。
フェムが最初の国外視察の先として日本を選んだことの、理由を語っていたところだ。
『世界の常識を塗り替えるほどに、何かを強く想うことができる。それはこの上なく素敵なことだと、私は思います。全ての魔人を。どこよりも多くの魔人を生む、日本という国を。私は、心からお慕いしております』
ともすれば、危険思想と判断されかねないその発言も。
一点の曇りもない双眸で、迷いなく言い切る少女の姿に、多くの者が胸を打たれた。
『自分が他の誰でもなく、誇るべき自分自身であると断言するように――自分の能力を、全力で揮える。そんな光景を、いつかこの目で見ることができれば、私の中を流れる日本人の血も、きっと歓喜に震えてしまうのでしょうね』
やや冗談めかして語った言葉は、まぎれもなく本心であり、同時に誘い水でもある。
事実、王女のこの発言を受け、日本では緊急の会議が開かれた。
――結果、あらゆる問題に優先して大規模な能力バトル大会を開催することが決定されたのは、丁度、拳法家の全霊の貫き手が槍兵の心臓を穿ったのと同時だった。
「……ああ。素晴らしかったわ。なんて尊い一瞬……」
ふるりと肩を震わせながらフェムは己の心臓に手のひらを当てる。
「私まで死んでしまいそう」
「いけませんよ。日本に行けなくなってしまいます」
「じゃあ、生きるわ」
クスクスと笑って、再びベッドに倒れ込む。
ピャーチが部屋の灯りを落とし、部屋は静謐な闇に包まれた。
「……ふふ。楽しみだわ」
微睡の中のような、滲むような声音で呟く。
勿論、会見で語った言葉は全て本心である。
けれど、あのような美辞麗句以上に切実な想いが、彼女には合った。
まだ見ぬ強者に。彼らが紡ぎだす死闘に。やがて行き着く結末に。
そのすべてに――フェム=五十鈴=ヴェッシュ=エプシロンは、恋をしている。
「楽しみ……」
愛よりもなお焦がれる思いが、閉じた瞼の端より雫となって零れ落ちた。