銀義羅銀研究所において試験管で作られた、人工生命。暗殺者。名前はなく、「エミネンス」というコードネームのみ。愛称はエミちゃん。裏社会では大変名が売れており、知らないものはモグリとすら言われている。
約二歳だが、体は既に十代後半程度に育っている。筋肉質で、胸は大きく、スレンダー。これは、多分に制作者の趣味が入っている。
牙のような八重歯に、色黒の肌。だぼだぼのパーカーを常に羽織っており、顔の上半分はよく見えないが、丸い目だけがギラギラと光っている。パーカーの下はビキニ。
日本語会話能力がないが、ヒアリングはできるので、こちらの言っていることはわかる。発語は、「キャリキャリキャリキャリキャリ」という独特の笑い声しか出来ない。性格は、無邪気かつ残虐で、暴力のままに人を殺すのが大好き。ただし、羞恥心は普通にあるらしい。
コンクリート打放しのビルが立ち並ぶ、閑散とした裏路地。二階程度の高さに取り付けられた、夜への誘いが描かれた看板。
灰色に塗れた、簡素かつ貧相なビル街の中に、目を引くビルが一つ。一階をぶち抜いて作った駐車場に置かれた黒塗りのAクラスベンツは、白紙に一滴落ちた墨汁のように浮き出ていた。
ベンツが置かれたビルの階段を上がると、鉄の片開きドアに「夜魔口組」の文字。ドアを開けると、安いソファーとテーブルが置かれた事務所の応接間が見える。いかにもゴロツキといった風の組員が、睨み付けながらも事務所の奥へと案内する。
奥の豪奢な扉を開けると、赤い壁紙に赤いカーペット、黒いテーブルに黒いソファー。如何にも品のない色で固められた部屋が、眼前に広がった。
その正面に、夜魔口組火雷一家若頭、火雷仁義(ひらい じんぎ)が、ソファーに腰深く座り、ふてぶてしく笑っていた。
血の色が目立たなそうな部屋だと、銀義羅銀敏敏丸博士は思った。
博士は、そのしつこいほどに白い歯を見せ、ニカッと笑いながら握手を差し出した。
「やあやあやあ、火雷さん! 本日はどうも。私の娘を雇っていただきまして、大変感謝しておりますよ!」
私の娘。博士は、エミネンスをこう呼ぶ。人工授精に自分の精子が使われているから、あながち間違いというわけではない。
「感謝なんぞいらん。きっちり仕事してもらえば、ワシはそれでいいんじゃ」
博士の握手に、火雷は応じる。その後、ハグも求めてきたが、これについては火雷は一切応答することはなかった。銀義羅銀博士は、ビキニパンツに白衣のみという、これでもかというくらいの変態スタイルだったからだ。
博士は、「おやおや」とでも言いたげに、含み笑う。その間も、胸肉は常にブルンブルン動いている。博士は、常に胸筋をブルンブルンに震わすことを忘れない。しかも左右交互にだ。夏の太陽のような笑顔を振りまきながら、胸筋を揺らし続ける60代のおっさん。完全に気が狂っている。
火雷は、顔をしかめた。この界隈では、異常者は珍しくない。道路に落ちているガムよりも目にしやすい存在だが、それでもここまでの人間はそういない。相手が名高い銀義羅銀博士でなければ、今すぐにでも懐から拳銃を取りだし、そのスキンヘッドを吹き飛ばしていただろう。
火雷は気を取り直し、博士を睨み付けるように机に肘を着く。
「で、あんたの手駒は、本当に大丈夫なんじゃろうなあ。高い金払っとるんじゃ。失敗したら、どうなるかわかってるな?」
「はっはっは! 無用な心配ですな。私の娘は、強い。単純な身体能力ならば、誰であろうと勝てませんよ。なんでしたら、ここでゆっくり観戦といきませんか?」
博士は、懐からハンディテレビを取り出した。一体、ビキニパンツと白衣しか来ていないのに、どこから取り出したのか。火雷は目を疑ったが、とりあえずそこには触れないことにした。
「私の目的はあくまでも研究でしてね。娘の周りには、常に目にカメラを内蔵したバイオモスキートが飛んでいるのです。ですから、ここで高みの見物ができるわけですよ!」
カメラ内蔵のバイオモスキート。火雷は、思わず身震いした。近年ようやくドローンなどが普及してきたころだというのに、既にこの男ははるか先を進んでいる。
この技術力を手に入れられれば、他の部屋を出し抜き、権力を手に入れることができるかもしれない。火雷は、博士に悟られぬよう、生唾を飲んだ。
「それじゃあ、お手並み拝見といこうかい。うちの組に弓引いた奴がどんな末路を辿るか、きっちり思い知らせてくれや」
火雷の満足げな言葉に、博士はやはり、太陽のような笑顔で答えた。
* * *
有川健二は、落ち着かなかった。
それはもちろん、つい一昨日、夜魔口組火雷一家の幹部を殺したからだ。ナイフで刺して、すぐ逃げた。あっけないものだった。刺した男が死んだのは、翌日のテレビで知った。
有川が所属する墨夜死会は、夜魔口組と血で血を洗う抗争を、既に1年以上続けている。膠着状態を打破するために墨夜死会が選んだ手段は、夜魔口組幹部をハジくことだった。
有川に白羽の矢がたったのは、大した理由ではない。たまたま先月、闇金業務の回収率が一番低かったという、それだけの話だ。ドンケツになることなど、めったにない。
たまたまその時そうだったという理不尽な理由で、有川は殺人者となった。
(ポリ公どもに捕まらねえでうちの事務所まで帰ってこれたら、ちゃんと面倒見てやるからよ。頑張れや)
若頭の言葉が頭に浮かぶ。はっきり言って、信用はしていない。だが、どうせ一人で逃げ切ることなど不可能だ。若頭を頼る以外に、有川の選択肢などなかった。県を越え、車を三回ほど盗んで替え、運よくまだ捕まってはいない。無事に帰ってくれば、流石に殺されることはないだろう。そう考えるところに、まだ有川の楽観があった。
大通りを右に折れ、裏路地を走る。事務所までは、あとわずか。走れば数分と言ったところだ。有川の緊張が、一瞬ほぐれた。
キャリキャリキャリキャリキャリキャリ
異音が響いた。虫のような、爬虫類のような。甲高い、声。
キャリキャリキャリキャリキャリキャリ
有川の全身に緊張が走る。これは、笑い声だ。誰かが、笑いながら自分に近づいて来る。
キャリキャリキャリキャリキャリキャリ
異音は、もう間近。有川は、きょろきょろと辺りを見回した。だが、異音の主は見えない。つけられていたのか。一体いつからだ。どこだ。どこにいる。
「だ、誰だ! ざけてんじゃねえぞ! ぶっころすぞ!」
有川の虚勢が、空しく響く。その時、有川に不自然な影が落ちた。空は晴天。雲一つない。
有川が、空を仰いだ。
“何か”が、落ちて来た。有川には、白く丸い二つの光と、切り裂いたかのように大きく開く口が見えた。
エミネンスは、笑った。
「キャリキャリキャリキャリキャリキャリ!!!!!」
「う、うおわあ!」
有川が反射的に飛びのいた。有川が先ほどまで立っていた地面が、轟音と共に砕ける。どれほどの高さから落ちて来たのだろうか。しかし、エミネンスは痛みに顔をしかめるでもなく、ゆらりと立ち上がって、足首を少し回した。これこそが、身体能力を極限まで強化する魔人能力、『ディール・ウィズ・ザ・デビル』の力である。
エミネンスが体を動かすたびに、ビキニに追われた豊満な胸が揺れる。腰はくびれ、腹筋がわずかに浮き出るその体が、抜群のスタイルと言っていい。海で見かけたならば、十人中十人の男性が劣情を抱くだろう。
しかし、女好きかつ本能に忠実な有川の心中は、恐怖に支配されていた。エミネンスの表情を、見てしまったから。
その顔は、ネズミを見つけた猫のような、これから獲物を思う存分弄ろうという、野生的な愉悦に満ちていた。
人間ではない。有川は、そう感じた。
「キャリィ……」
「ま、待て! やめろ! 助けて……!」
エミネンスが、地を蹴った。有川の言葉に、聞く耳など持たない。有川が抵抗する暇もなく、その頭をエミネンスの右手で鷲掴みにされ、そのままコンクリートのビル壁に叩きつけられる。壁面にぴしぴしとひびが入り、有川の目と鼻から勢いよく出血した。
「キャリキャリキャリィィィィィィィ!」
「あがっ、あがががあぁっ!」
じたばたともがく有川は、エミネンスの腕をつかみ振りほどこうとするが、びくともしない。エミネンスは、興奮した表情のまま、有川の頭を少しずつコンクリートに埋もれさせていく。
次の瞬間、もう飽きたと言わんばかりに、エミネンスは有川の体を、顔面を掴んだまま思い切り後方に振り、投げ飛ばした。
有川の体が数メートル飛んだあと、アスファルトに打ち付けられてバウンドし、2回転ほどして仰向けに寝転がった。有川の意識は、既に朦朧である。
エミネンスは、ワキワキと右手を動かした。いよいよ、フィニッシュだ。人の頭をこの手で握りつぶす瞬間が、エミネンスは大好きだ。苦悶の表情が、飛び散る血しぶきが、溢れ出る脳漿が、エミネンスは大好きなのだ。
今にも絶頂を迎えんばかりの恍惚とした表情で、エミネンスは有川の頭を潰すべく、空高く跳躍した。
「キャリキャリキャリキャリキャリキャリィィィィィィイィ!!!!!」
その瞬間、『ディール・ウィズ・ザ・デビル』が発動した。
空高く飛んだエミネンスのビキニが、上下ともに風圧で剥がれた。
「キャ、キャリィ!?」
慌てて前を隠すエミネンス。しかし、慌てすぎたせいで隠したのは両手で下半身のみ。上半身は、生まれたままの姿を露わにした。
一方そのころ有川は、朦朧とした意識の中、防御しようとしたのかなんなのか、両手を前に上げた。当然、開いた状態で。あおむけの状態で。
また、エミネンスは、慌てていたせいで着地に失敗し、尻もちをついた。有川に攻撃を加えようとしていたので、当然有川の上に着地した状態である。
結果。
「……んあ?」
「キャリ……!」
端的に言って、騎乗位である。
エミネンスは、全裸の状態で有川の下腹部付近に尻から着地することになった。その上、有川の無作為に突き出した両手は、吸い込まれるかのようにエミネンスのたわわな居乳へと導かれていた。
もう一度言う。騎乗位である。
「お……、うおお……!!!!」
有川は、もともとエロである。色黒スレンダー巨乳美少女が、自分の上に跨っている上、そのたわわは我が手中にあるのだ。エレクトしないはずがない。
そして、そのエレクトは、当然跨っている色黒スレンダー巨乳美少女の股間にその感覚を伝える。
完全に、エミネンスの処理能力の限界を超えた!
「きゃ……! きゃりいいいいいいいいい!!!!!」
跳び上がるエミネンス! 右手で胸を、左手で股間を隠しながら、さながら三角跳びの如く、ビルの壁面をずたずたにしながら駆けあがっていく。顔を真っ赤にし、涙目で逃げていくその姿に、先ほどまでの威圧感など、もはやない。
そして、エミネンスは、有川の前から姿を消した。
「……なんだあ、ありゃ」
茫然としていた有川であったが、何はともあれ繋いだ命を、若頭に預けるべく、墨夜死組の事務所へと向かった。
* * *
「……おい、博士」
「ん? なんだね?」
すこぶる満足げな博士に、火雷は拳銃を突きつけた。
「あいつは何なんじゃい! な、なんであんなところで全裸になるんじゃい!」
「はっはっは! あれは、エミちゃんの魔人能力ですよ! 超人的な身体能力を手に入れる代わりに、ラッキースケベが起きるという、凄く面白い能力なんですねえ! はっはっは!」
「なんで、そんな能力にしたんじゃあ! お前バカかぁ!」
「だって、楽しくなければ仕事じゃないもん!」
博士が、マッスルポーズを決めて、火雷にアピールする。火雷は、一瞬気圧されるが、さらに銃を突き出す。
「ひゃ、百歩譲ってそれはええ! だが、なんじゃいきなり逃げ出しおって! しかも、なんでお前は満足げなんじゃあ!」
「はっはっは! 逃げ出したのは恥ずかしいからですよ! だって、全裸なんですよ! 恥ずかしいに決まっているじゃないですか!」
ビキニパンツ一丁の男のセリフではない。博士は、火雷の突き付ける拳銃に物怖じする気配もなく、明朗に言葉を続ける。
「私が満足げな理由はもちろん、エミちゃんが恥ずかしがったからですよ! だって、大事な一人娘ですから。人工授精ですけど。まあ、私の精子使ってるんですから、娘みたいなもんですよね! はっは! その娘の貞操が守られた! ヤクザなんて人類史に残るゴキブリ以下のカスに蹂躙されることなく、きちんと逃げ出したんです! こんなにも嬉しいことなんてないじゃないですか! ハッハッハッハッハ!」
大爆笑する博士。火雷は、完全に頭に血が上り、顔を真っ赤にしている。さりげなくゴキブリ以下のカス呼ばわりされているのだから、無理はない。火雷は、今にも撃たんと拳銃の引き金に指をかけた。
「あいつぶっ殺さねえで逃げて、どうしてくれんじゃコラア! 全裸だろうが何だろうが、やることやらんかいボケェ!」
その瞬間、博士が吼えた。
「ああああああああああああ!!!!!!」
銀義羅銀博士の雄叫びは、火雷の鼓膜を破り、三半規管をマヒさせた。その隙に、博士チョップが火雷の右手首を拳銃ごと切り落とす。
「娘を愛する父親に、なんてひどいことを言うんだああああああ!」
銀義羅銀博士の博士ナックルが、火雷の顔面を陥没させた。博士キックが胴体を両断し、博士ローリングが全身をばらばらにし、博士ロードローラーが火雷の体をカーペットに埋め込んだ。
真っ赤なカーペットに、凹凸ができた。むせ返るような血液の臭いが、部屋中に立ち込めた。
博士は、血まみれの白衣を脱ぎ捨て、ビキニパンツ一丁でマッスルポーズを取りながら、サムズアップをして、白い歯をのぞかせた。
「血の色が目立たない部屋で、よかったネ!」
目立つ。すごく目立つ。その上、誰に向かって言っているのかさっぱりわからない。しかし、博士は何も気にせず、ハンディテレビをビキニパンツにしまい、意気揚々と部屋を後にした。
「て、てめえ! なんじゃその姿は! 若頭をどうしたあ!」
「ウギャアアアアア! う、撃て! こいつを撃ち殺せえ!」
「あ、当たらん! 早すぎ……ウギャアアアアア!」
この日、夜魔口組火雷一家は、壊滅した。
* * *
河川敷の高架下、夕日に映える川面に照らされながら、エミネンスはパーカーを伸ばしに伸ばしてどうにか体を隠しながら、体育座りでぐすんぐすんと泣いていた。
なにせ、キャリキャリとしか発語ができないのだ。替えの服を買うこともできないし、盗みでもすれば能力の都合上またラッキースケベが起きる。エミネンスにできることは、もはや誰にも会わないように隠れる以外なかったのだ。
このまま、一生全裸なのだろうか。ぶるぶると頭を振って、恐ろしい妄想を打ち消す。そんなはずはない。こんな時は、必ず、
そう。必ず、博士が助けに来てくれた。
ふわりと、エミネンスにビキニの上下が被せられた。驚くエミネンスが顔を上げると、そこにはいつもどおり、褐色の肌にキレたカットの銀義羅銀敏敏丸博士が、白い歯を見せて、サムズアップをしていた。
「エミちゃん、帰るよ」
エミネンスの頬に、熱いものが流れた。
「キャッ……キャリィィィ!」
「はっはっは! エミちゃんは泣き虫だなあ!」
博士の電柱のような胴体に抱き着きながら、新しいビキニを着て、エミネンスは帰路へとついた。
* * *
エミネンスは、暗殺者である。
しかし、この能力が災いして、未だに暗殺の成功率は0パーセント。それどころが、博士の所為で大体の場合依頼者がひどい目に合うという、悪名高き暗殺者だ。知らない者は、モグリとすら言われるほどの。
それでも、エミネンスは諦めない。いつか暗殺が成功する日を夢見て、今日も愛用の日焼けマシーンに抱かれて眠る。
頑張れエミちゃん! 負けるなエミちゃん! 明日も、ラッキースケベを僕らに見せてくれ!