プロローグ(出海九相)

──人間に備わる大腸の長さは凡そ1.5メートル。
その文字列を見つけた時、男は己の死ぬべきを見つけた。

「ウンコ ブリリ ブリリ ソワカ!」
「オン ボロン ウンコ ハッタ!」

清浄・満願・放出を意味する真言を唱え、魔刀匠・出海九相(でかい くそう)は決死の儀に挑んでいた。
一族の歴史でも最高峰の刀匠と謳われ、剣士としての腕も比類なき男…出海九相は、己を苛む激痛に苦しむのではなく
微笑みすら浮かべ、死に装束である白に身を包み、今、厠にいる。

武人にとって、剣とは肉体の一部である。
この世に名を遺す、遍く偉大なる武人曰く、「剣を我が肉体の一部として扱う事ができた」と言う。

なれば。
技・才において限界を超えたものがたどり着く先は、剣の道そのものに我が心の限界の先を見せる事。
己が肉体より剣を生み出す事により、道そのものに我が心見せしめ、最強の一振りをもって応える事こそ剣士の本懐。

そのために魔刀匠・出海九相は、あらゆる文献に手を伸ばした。

骨。不適なり。両手両足、五体揃ってこそ真の技。
肉。不適なり。極めるべきは無手でなく、剣。
あらゆる可能性を吟味した結果、男は医学書に記されたある一文に目を奪われた。

人間に備わる大腸の長さは凡そ1.5m───即ち、大刀の長さに比類。
おお、神よ。これこそ、剣となるべく生み出された人間の神秘に違いない。

そう確信した出海九相は、その日より365日の禁便を敢行。
───己が大腸を埋め尽くす、長さ1.5mに及ぶウンコをため込む事に成功した。

そして、ついにその封を破る日が来たのだ。

「ウンコ ブリリ ブリリ ソワカ!」

己に力を与える真言を唱え、その機が来た事を悟った出海九相は
ただ一度、全てを受け入れるように目を伏せ──己が蓄積してきた、その全てを解き放った。



*




「…それが、兄貴の答えなのか。」

「そうだ。俺は剣の道に挑み──しかし、あと一歩届かず…すべてを失った。否、見誤ったのか。」

冬。雪の積もった石段を、杖をつきながら歩く男に少年が寄り添う。
渡り鳥の逃げ出す冷たい青空を仰いで、男は己の敗北を受け入れた、末期の笑みを浮かべた。

「俺の身体は…1年もの間、排便を我慢するようにはできていなかった。…俺の臓器は、もうボロボロだ。」

尊敬する兄の独白に、少年は、ぎり、と歯を軋ませた。
悔しさと悲しさの入り混じった、情けない少年の表情を…兄である出海九相は悲しげな微笑みを浮かべ、それが解けるまで見守った。

「だから、最強で最高の剣士になる、っていう夢も叶えられずに…ここで、死ぬっていうのかよ!」

「…これが俺の天命だったんだ。だが、本音を言えば…お前には見せてやりたかった。」

石段を登り切った先には、古臭い木造の小屋がある。
出海九相が一世一代の儀に挑んだ、厠にして工房。

出海九相は、弟にその工房を背に向き直る。

「だが、俺は叶えられそうにない。
 だから、不肖の兄として、恥を忍んでお前に頼む。」

「お前が、俺の名を継いでくれ、出海雲光──お前にしかできないことだ。お前が…出海九相になれ。」

──少年、出海雲光(でかい うんこう)は、兄…出海阿光(でかい あこう)のその言葉を受け…顔をぐしゃりと歪ませて、震えたあと…

強く、一度だけ頷いた。
泣きそうになるのを、紙一重で踏ん張った。

「…わかったよ、兄貴。……これからは、俺が…出海…出海、九相だ。」

…唇をかみしめた少年の胸に、力強く、拳がたたきつけられた。
その命の奥底までをも蝕まれた半死人の力とは思えないほど、強く。

「受け取ってくれ、我が一族の当主…出海九相。」

「これは。」

その拳に握りこんだ、一振りの刀。

「俺の全てを注ぎ込んで作った、絶大絶後、渾身の一振り…いいや、一ブリ。
 その銘を──大刀『雲(うん)』」

「『雲』…」

「お前の今までの名より、一文字。俺の過去の名前と…本当は、対にするはずだったんだがな。
 …それも、”己が身の一部”らしいか。…そうだな。俺より──お前のほうが、相応しい。」

力なく、しかし、全ての重荷を下ろしたような…突き抜けるような笑みを浮かべている兄に、弟…新たな出海九相は、思わず、笑い返した。

「九相。
 …この現世の全てを現す…”九”に”相”。向き合う、と言う意味。
 全てに向き合う。己を曝け出す…逃げない。…この名を、お前に託す。」

「──任せてくれ。」

返事は短く、一言。
その言葉を聞き届けられたのか、そうでないのか…出海九相にはわからない。
ただ、満足げな表情を浮かべて永遠の眠りにつく兄に…恥じぬ男であろう、と、ただ、決意した。




*




二刀を携えた、黒衣の剣士が山道を行く。
獣が通る荒れた道を、息一つ切らす様子なく、確とその視線、揺れる事なく。

目的は一つ。
己こそが最強であると示すこと。

願いはない。
叶えて貰うような、大袈裟なものじゃない。最強にしてくれ、それも違う。
己は既に最強だ。それを確かめに行く。もしも、自分より強い奴がいたなら…
それも一興。それを超えれば、少なくとも自分歴史上…その時の自分が最も強い。
それが最高・最強の剣士…出海九相のあり方。

老婆らしき、しゃがれた悲鳴が響き渡る。
人気のない山道、拝礼に向かう老人と、狼藉を働く賊がいてもおかしくはない。
出海九相は、早速その声の出所を探すために視線を揺らした。

出海雲光は、恥じない。
恥じないということは…真正面から向き合うということ。
目の前の困難に、誰かの苦難に。それが九相の定め。

前方には古ぼけた布包みを抱えて走る若者と、それを追おうとして転げた老婆。

「話を聞かせてもらおうか。」

キン、と言う鍔鳴り音。
一閃が若者の走る足場に傷をつけて体勢を崩させ──続く弧月が、枯木を微塵にし
老婆と若者を受け止めるクッションを作った。

「なっ…なんだぁ、こりゃ!」
「あっ…ああ…貴方様は!」
若者は動揺し、老婆は何事かと目を点にした後、その男の顔を見て…目を見開く。

死んだ兄、阿光の遺した大刀『雲』…そして小刀『血』。
ものにするまで、数年。今では生まれる前からの己が身の一部のように馴染んでいた。
その技の冴えから、男は近隣で、こう呼ばれた。

「仁王剣(におうけん)の──九相様!」

「ああ。
 ──出海九相、ここにあり。」





最終更新:2018年06月30日 22:06