プロローグ(片羽 美刀)

 吹雪の中、銀の光が閃いた。
 ほどなくして大きな質量が雪原へ落ちる。ぼすり、ぼすり。

「……」
 剣の主は、己の斬果の元へと歩み寄った。
 死んでいたのはフロストワイバーン。北海道では一般的な飛行爬虫類である。
「……違う」
 そう、違う。彼の目的はこんな一般爬虫類ではない。

「ならば、」
 彼はさして姿勢を変えぬまま、腕をわずかに持ち上げる。
「お前か」
 遥かに離れた地点で、再び銀の剣閃が走った。


 手応え、あり。
(受けたな)
 確かにそこに、斬るべき相手がいたという手応え。
 そして彼の遠隔強襲を凌ぐだけの技量を持つ相手だという、手応え。
「……面白い!」
 その瞬間、一帯が足元から爆ぜた。



 荒れる吹雪。もうもうと舞う雪煙。
 少女――片羽美刀は止まることなく駆け続ける。

 制限された視界の中、刃の閃きが襲い来る。右から、左から、正面から。
「ふ、は!」
 手にした剣でそれに応じる。右からの斬撃を躱し、左からの斬撃を受け流し、正面からの斬撃を打ち返す。
 襲い来る斬撃は止まらない。右、正面、正面、右、左、右――それら全てを当然のように美刀はいなし続ける。

「――夏祭アリオ!」
 名を呼ばれ、彼は唇端を吊り上げた。
「来たか、単腕単装決闘剣術(シングルブレイド);!」
「来ましたとも、全腕全装決戦剣術(オールブレイド);!」


 雪煙が晴れる。
 どちらも、外流剣術として歴史から抹殺された流派の剣士である。
 片や、厚いダッフルコートに身を包んだ少女。
 片や、薄いロングコートを肩に引っ掛けた青年。
 その差異は――腕の数。

「二本腕に興味はなかったんだがな」
 青年、夏祭アリオは、計12本の長大な異形腕の剣を振り上げた。
「キサマ、うちの若い衆を斬ったろう」
「村で不埒を働くから!」
「ああ、それはいいんだ。しかし――」
 伸びる異形腕が、じりじりと美刀を包囲する。
「アレも凄腕の全腕全装だった。それを単腕で破る剣士がいると聞いちゃあ、斬らずにはいられねえ」
「それが理由ですか」

 言葉に代えて刃が走る。
 異形腕は精緻にして強靭。二振りが美刀を殺し、二振りが側面を、二振りが前後を塞ぐ。
「ふ――ッ!」
 美刀は捌く。打ち払い、切り抜け、剣を足場に飛び上がる。
 浮いた身体を、二本の剣が挟み込む。美刀は剣を片方にぶつけ、それを支点に上空へ飛揚。

 単腕単装の肝は、空いた片手だ。
 長い尾を持つサルが、樹上を思うまま駆けるように
 単腕単装の剣士は、空いた片手を尾のように扱い、驚くべき軽業を見せる。

 宙から落ちていく最中も、降り注ぐ白刃を弾く。払う。足場にし、潜り抜ける。
「ハハ……!」
 だが夏祭アリオは笑っていた。自棄ではない。勝利を確信しての笑いだ。
(どうした……このままでは届かんぞ!)
 単腕単装も万能ではない。一本の剣と一本の腕では、限度がある。
 このままその攻撃を全て凌いで前進しても、美刀は数歩の間合いが足らず、敗ける。

 だが。
「――『拝借』!」
 その瞬間が訪れる数秒前のことだ。
「あがッ!?」
 突如として、異形腕の一本が斬られた。今まさに決着を確定しようとしていた腕。
 男のすべての腕がにわかに乱れる。追い詰められつつあった美刀は、剣の包囲網を抜ける。
「なっ」
「『お返しします』!」
 直後、美刀はつい先ほど斬られた腕のあった地点に剣を振るった。
「……呪剣リブラ!」
「いかにも!」
 もはや至近に迫った彼女に、全ての剣が迫る。
 だが遅い。
「ごほ、ふ」
 アリオの身体を深々貫いた剣から、鮮血が滴った。


「……フフ……さす、が」
 彼はやはり、笑っていた。自棄ではない。称賛の笑みだ。

 全て、読んでいた。
 この少女は、アリオの斬撃を、計算を、全て読んだ上で、致命的瞬間に呪剣リブラの契約斬撃を放った。

「遺言があれば聞きましょう」
 美刀は剣を抜かぬまま問う。
「あなたが殺しに来たから、私も殺した。恨みはありません。今際の望みは叶えたい」
「……別に、ねェよ。俺は、確かめに来ただけだからな」
「そうですか。ならばせめて、あなたの名だけは私の胸に刻んでおきます」
「身に余る…………こ、ふ」
 美刀が剣を引き抜くと、白雪の原に血が舞った。


    *


「全腕全装の夏祭アリオ。討ち取って参りました」
「そうか」

 美刀の師たる祖父、逸刀の返事は重く短い。

「これでもう、みんなの生活を脅かす者は存在しません」
「ああ」
「思い残すことは、何もありません」

「気は変わらぬか」
 逸刀は片眉を上げて問う。
 止められるものなら止めたかった。
「はい。彼の存在だけが心残りだったので」
 だが、それで止まる孫でもなかった。
 彼女は常に、恐れなく、迷いない。
「思い残すことは、もう何もないのです」
「もう発つか」
「はい」


「ではもう行け。片羽美刀。貴様を今日ここで破門する」

 最初から分かっていた結論だった。
 戦なき現代、世の垣間に潜むべき、外流剣術。
 それが世に出ることは、あってはならない。

 もしもその脈流を継ぐものが、脚光を浴びるのであれば。
 その者は、外流剣術の使い手であると、認められてはならない。



 美刀は用意していた荷物を担ぎ、生家を後に、二度と戻れぬ旅路に出ようとしていた。

「待て」
 だがその背を呼び止める声があった。美刀は師匠であり祖父である男を振り返る。
 手に握られていたのは、刀ではない。弁当だ。

「え……?」
 祖母が死んでこちら、料理はいつも美刀の役割だった。この祖父が料理するところなぞ、見たことがない。
「町までは遠い。ほら」
 常と変わらぬ重い口調で、弁当箱を突き出す手。
 その手は、真新しい絆創膏ばかりで。


「……祖父様は剣士なのに、包丁の扱いは下手なんですね」
「要らんのか」
「ありがたく」


 美刀は担いでいたカバンに弁当を押し込め、それから祖父を強く抱きしめた。

 幼き日には堅固な大樹のように思えた、強い祖父。
 今抱きしめるその体は、枯れ木のように心許ない。

「美刀」
 けれど、抱き返してくれたその腕は、優しく名前を呼んでくれたその声は。
「祖父様……」
 昔と変わらぬ強さを帯びていて――



 分厚い灰色の曇の下。
 片羽美刀は戻れぬ道を歩き出す。
 すべては、あの日――

『やあ。こんな所にも子供はいるんだ。ねえ、何か面白い話、知ってる?』
『もし僕を面白がらせてくれたら――』

 ――今の自分へと至る道を与えてくれたその人に、もう一度会うために。




最終更新:2018年06月30日 22:08