プロローグ(篠原 楓)
「あたし、大きくなったらヒーローになる!」
空がオレンジに染まり大きな影を落とし始めた夕暮れ。
そんな夕暮れ時の坂道を、一人の青年と一人の少女が並んで歩いていました。
「それは……本気かい? 楓ちゃん」
「うん! 本気だよ!」
「……例えば、どんな? 楓ちゃんはどんなヒーローになりたいんだい?」
「師匠みたいなヒーロー! 世界一かっこよくて、世界一優しいヒーローになるの!」
当然のように、少女はそう言いました。
無邪気な笑顔で──、それがどれだけ大変なのかも知らず、けれど夢と希望に満ちた願いを。
「……そっか。うん。でも、そうなると僕は引退しなきゃだ」
「そんな、どうしてですか!」
「だって、楓ちゃんがヒーローになるなら僕の役目は無くなっちゃうからね」
どのみち、彼にはあまり時間が残されていませんでした。
だから、少女がヒーローになるのであれば、これほど喜ばしいことはありません。
でも少女は首を横に振って、
「……嫌です。師匠が引退だなんて嫌です! だって師匠は──
世界一のヒーローだから!
だから絶対に引退なんかしないでください!」
その言葉に彼は困ったような笑みを浮かべ、そして少女の頭を優しく撫でました。
「しっ師匠!?」
「ごめん楓ちゃん。そうだね、その通りだ」
あの日、少女を救ったときから彼は少女にとってのヒーローになりました。
けれどその代償として、彼はその寿命を大きく減らしました。
持ってあと数年。
でも、彼の心に後悔はありません。
この結末が予見できていたとしても、彼はきっと同じ選択をしていたのだと思います。
「約束するよ楓ちゃん。僕はキミがヒーローになるまで──、いや、キミがヒーローになっても『世界一のヒーロー』であり続けると」
「……ホント?」
「ああ。ホントだとも」
「……じゃあ、指切りして」
差し出された少女の小指に、青年は自身の小指を絡めます。
他愛のない口約束……それが決して守られるかどうかもわからないけれど。
(ごめんね楓ちゃん。僕は、うそつきだ)
それでもヒーローは、人々を笑顔にする存在だから。
偽りであろうとも、そこに込められた想いは何物にも負けない光だと信じて。
「──ゆーびきった! 約束ですよ、師匠!」
──それは遠い日の記憶。
少女がまだヒーローになる前の、幸せな日々の一ページ。
◇
「『ヒーロー10ヵ条 その一』」
あれから7年の月日が流れました。
篠原楓は高校生になり、充実した学生生活を送っています。
「『ヒーローは、常に笑顔でなければならない』」
口の端を両の人差し指でニッと吊り上げて、楓は少し強引に笑顔を作ります。
彼女の目の前には師匠──の遺影。
「おはようございます、師匠。今日もとってもいい天気です」
窓の外には、朝の澄んだ青空が見えます。
綺麗な水の色が視界いっぱいに広がって、眩しくて、吸い込まれそうで──、
それから改めて師匠と向き合いました。
「実は、今日は師匠に伝えることがあります」
そう言って、楓は側に置いていたスマートフォンの画面を師匠に向けます。
そこには『魔人闘宴劇、開演』の文字。
「わたし、これに出ることにしたんです」
少しだけ恥ずかしそうに、楓は告げました。
魔人闘宴劇。
それは、日本が誇る大企業『亜門グループ』のトップである亜門洸太郎が開催を宣言したトーナメント制のバトル大会。
優勝者には最強の称号と賞金50億円、そして、
「優勝した方には『願いをひとつ叶える権利』が与えられるんです」
遺影に写った師匠の顔を真っ直ぐ見据えます。
彼が亡くなってからずっと考えていました。どうすればヒーローになれるのか。
……きっと、このやり方は間違っているのかもしれません。
「でも。そうだとしても、決めたんです」
なにが正しくて、なにが間違っているのか。
それはきっと、誰にも出せない答えで。
だから、
「だから見ていてください師匠。わたしの闘いを」
少女は、自分の信じた道を歩んでいくことを決めたのです。
──それは小さな誓い。
少女がヒーローになるための、些細な日常の一ページ。