『いつでも拳は握り締め』

 幼少期、安藤は両親が好きだったアメコミやその映画を繰り返し見ていた。特に好きだったのは、胸にSの字を刻んだ超人の話だった。その超人はどこまでも完璧で、ひたすらに強かった。ある日超人は恋人を失うが、超人は地球を逆回転させることで時間を巻き戻して事なきを得た。

 安藤は脳髄をぶん殴られるような衝撃を受けた。これほどの強さがあれば世界も大切な人も救えるのだ。…逆に言えば、それほどの強さがなければ世界は救えない。安藤は普段している鍛錬をより深めていくようになった。

 安藤の能力、仁義理拳は客観的に見ても強力な能力だ。ありとあらゆるものを殴り飛ばすことができる。仮に隕石が地球に迫ろうが、原因不明のウイルスが蔓延しようが、殴り飛ばせる可能性を秘めている。ただし殴り飛ばすだけの実力を備えていなければ話にならない。もし、もしその時が来たのに、実力不足で破滅を招いてしまったら。

 そう考えるだけで安藤は震えが止まらなかった。世界を救いたいというわけではない。出来るかもしれないのに出来ないという事態を責められることを恐れた。

 その恐怖から安藤は鍛錬を積み重ねた。拳を最も酷使するボクシングに傾倒し、限界まで自分を痛めつけた。それでも、世界を救えると確信するほどの力は得られなかった。肝心な時に自分の拳は役に立たないのではないか。

 その不安は的中してしまった。最愛の妹が難病に倒れたのだ。だが安藤は病を殴り飛ばすことができなかった。
 減量をしているからいけないのか。環境がぬるいのか。妹を救うため、用心棒稼業というより厳しい環境に身を置き、能力を高めることに決めた。妹には時間がない。周囲の反対を振り切り、より苛酷に肉体を痛めつける命がけの世界に身を置き、安藤は鍛錬を繰り返す。

■ ■ ■ ■

 「あれ、安藤さんどこ行ったんすか?」

 「ああ、用心棒先生なら日課のランニングだとさ。」

 「うげ、あんだけの立ち回りの後にまだ鍛えるんすか…」

 安藤を雇った男たちは、異常ともいえる安藤の生活に眉をひそめる。

 「だってこないだ脇腹えぐられたばっかじゃないすか。ゆっくり養生したって罰は当たらないはずすヨ。」

 「俺に言ったってしょうがねえだろ。先生が修行マニアだろうが、うちにとって頼りになる先生ってことに間違いはねえんだ。ちょいとやりすぎな気もするがな。」


 川沿い。雇い主が自分のことを話しているなど知らず、安藤は走る。時折シャドウボクシングを織り交ぜ、ひたすらに体を痛めつける。風の涼しさに意識をとらわれることもなく、ただただ強くなることを目指して鍛錬を積む。意識が飛ぶ一歩手前まで絞り上げる。

 太ももが乳酸でいっぱいだ。疲れという電気信号が、脳にもう休んでしまおうと働きかける。

   ドン 

 安藤は自身の太ももを叩いた。疲れを軽く殴り飛ばした。

 こんな鍛錬を繰り返して、果たして本当に強くなれるのだろうか。世界は広く、自分はあまりに小さい。自分の努力なんぞ鼻で笑われてしまうのではないか。実際まだ妹の病を殴り飛ばすには至っていない。

     ドン

 今度は胸を強く叩く。不安と疑いを殴り飛ばした。

 常に鍛錬を続け、常に戦い続け、常人には到底できない血の滲むような毎日を過ごしてもなお、安藤は自分が至らぬちっぽけな存在だと本気で思っていた。

 自分の疲れなど、あまりに大したことがない。自分の痛みなど取るに足らない。自分の不安などお話にならない。妹の置かれた境遇に比べたら。妹の辛さに比べたら。妹の精いっぱいの笑顔に比べたら。

 自分にとっての困難なんて、どうしようもなく軽すぎる。

 だからこそ、そんなちっぽけなものは拳一つで吹き飛ばせるのだ。

■ ■ ■ ■


 汗を拭き、身なりを整えてから病室の扉を開く。

 「おにいちゃん!きてくれたの!?」

 最愛の妹、望が笑顔で迎え入れてくれる。笑顔を作るだけで、体を起こすだけで刺すような痛みが全身に走るであろうに、そんな様子はみじんも見せずにこちらに笑いかける。
 体につながれたチューブがないかのようにふるまって見せるが、ぎこちなさは隠しきれていない。

 「当然さ。約束しただろ?ほら、キラキラの折り紙も買ってきたぞ?」

 自分はうまく笑えているだろうか。ひきつってはいないだろうか。体を蝕む病魔に向きあい、気丈に笑うその気高さ、周囲を心配させまいとする優しさ。どこまでもかけがえのない素晴らしさに満ちている。誰にも妹の努力を軽んじさせたりはしない。笑わせはしない。

 妹は世界と天秤にかけてもよい存在。

 安藤は薄々気が付いていた。妹を大切に思えば思うほど、その存在は重くなっていくことに。大切な妹が懸命にあらがう病魔を、軽い存在になんて落とし込めないことに。彼の認識の中では世界と同等に重いことに。世界を救うほどの力を身につけなくてはいけないことに。

 あの日憧れた超人に並んだと、自分自身が認識できなくては、妹の病魔を殴り飛ばすなんてできない。
 魔人闘宴劇。世界の強者が集まる場。そこで優勝すれば、自分は世界一だと胸を張ることができるだろう。さらに願いでブーストをかければ、世界を救うに足る力を手に入れられるだろう。願いで妹の病魔を治すだけでは、同じようなことが起きた時どうしようもないのだ。

 必ず優勝し、妹の病魔を殴り飛ばしてみせる。

 妹の笑顔を前に、安藤は強く拳を握り誓った。




最終更新:2018年06月30日 22:37