アブ・ラーデル18世プロローグ ~ユデンの落日~
歴史とは、数多の人間という糸が織りなす一枚のタペストリーである。
今、悠久の栄華を誇るユデン王国の歴史に、新たなるひとつの紋様が描かれようとしていた。
「王! 我が王よ! お逃げください!」
息せききってひざまづく騎士の目前にて、うら若き女王は荘厳な玉座に腰かけていた。
「申し上げます。革命の一団はいまや城門を突破しつつあります。この王宮もじきに陥落するでしょう。どうか……」
「……貴様」
重装の鎧をまとう偉丈夫は、息を呑みこんだ。
わずか14歳の少女から放たれる威光が、彼の心臓を凍り付かせたのだ。
幼き暴君は尊大に立ちあがり、吼えた。
「この我に、敵を前にして逃げよなどとのたまうか! 我を誰だと思うておる! 我は王……我こそは『石油王』! アブ・ラーデル18世なるぞ!」
「は。しかし……」
「口答えするな! 我のみならず我が王家の血をも愚弄するか!」
小さな体に渦巻く爆発寸前のエネルギーが、長い黒髪を逆立たせた。
「剣を持て。我は戦うぞ。不遜なる者どもを討ち滅ぼしてくれる。たとえ手足をもがれ、この命奪われようとも……」
だが、それを止める者がいた。
「い……いけません!」
叫んだのは、ディライトという名の侍女であった。
学も武力も持たない一介の使用人は、震える涙声で暴君を制した。
「わ、わたしは、王を……シエル様を、石油王に即位される以前の幼き頃より存じ上げております。シエル様は優しい方です。人の上に立つべきお方です。ですから、お願いです。死ぬだなんて、言わないで……」
「ディライト……」
騎士が言葉を続けた。
「その通りです、我が王よ。ここは耐え忍ぶべきとき。いずれ訪れる機会までの辛抱です」
石油王はしばし目を閉じたのち、顔を上げた。
「……騎士団長クロマックよ。この場は汝に預ける。我が凱旋の準備を整えておくがいい」
「は。不肖ながら、このオレガ・クロマックが必ず。帰還の刻まで、王国をしかとお守りいたします」
王国の盾、忠実なる騎士団長は、拳を組んで王に誓った。
王は振り返り、侍女へ向かって告げた。
「ディライト。そなたは我と共に来い」
「は……はい! 喜んで! でも、一体どこへ……」
「……日本だ。日本国へと亡命する。アモンといったか。あの者が我の助けとなるであろう。だがその前に」
革命を告げる鬨の声が遠方より響く。
残された時間は少ない。
「手に入れるべきものがある。行くぞ」
山の頂にそびえ立つ、威風堂々たるユデン城。
だが美麗な外観は実のところ、そのほんの一部に過ぎない。
「お城の地下に、こんな空間があったなんて……」
ランプの灯が、暗い通路を歩く王と侍女の影を頼りなくゆらめかせる。
「逆だ。我が始祖アブ・ラーデル1世がこの地にユデン城を建造したのは、この秘密を守るためだ。ユデンの歴史はここより始まったのだ」
不気味な彫像が見守る石扉の前で、二人は足を止めた。
「金色の杯……台座になにか書いてありますね。んん、何だろう」
「ふむ、古の言語だな。扉を開く鍵を求めておるのだ。すなわち」
そう言うと王は、懐から小ぶりの刃を取り出した。
「王の血を捧げよ、と」
そして杯に手をかざすと、一息のもとに己の手のひらをざっくりと切り裂いた。
傷口から血液がとめどなく溢れ出し、杯へと滴り落ちた。
「ああ……なんてことを! す、すぐに手当てを!」
だが小さき王は、苦痛に顔を歪ませたまま彼女を制した。
「良い……そなたには特別に見せてやろう。王の証を」
侍女は、はたと気が付いた。
手のひらから滝のように流れ出すその血液。
常たる真紅のそれからはかけ離れた色に。
漆黒。
地下の闇よりもなお暗い、夜空から星々をすべて消し去ったかのような漆黒の液体が、王の体内から湧き出していた。
「《火の水》。始祖より受け継ぎし黒き血脈……これが『石油王』だ」
金の聖杯が漆黒の血で満たされると、ひとりでに炎が灯り、二人の顔を朱に照らした。
それと同時に、堅く閉ざされていた巨大な扉が音を立てて左右へ滑り開いた。
「……あったぞ!」
「あ、あれはまさか……伝説の!」
「そうだ。あれこそが王家の秘宝」
扉の奥に隠されていたもの。
それは抜き身のまま大地に突き立てられた、白く輝く一振りの長剣であった。
「原油採掘剣ドヴァット・デマクール!」
少女王は興奮さめやらぬ様子で右手を伸ばした。
だが、その柄を掴んだ瞬間。
剣の鍔から突如として鉤爪状の針が飛び出し、彼女の手首に突き刺さった!
「ぐ、あ……」
膝をつく王の血液を、古のアーティファクトは嬉々として吸い上げる。
白い刀身に幾何学格子の紋様が走り、黒き血で染め上げていく。
「ぬうっ……これが、原油採掘剣……」
「ひっ、血が……危険です! シエル様、お手を離して!」
「ぐ……心配なぞ要らぬ! 我を誰だと思うか! 我は石油王ぞ!」
王に駆け寄らんと足を一歩踏み出した侍女に、さらなる災厄が襲い掛かる。
部屋の隅に佇んでいた石像の目に火が灯ると、命あるかのように動き出したのだ!
「きゃああっ!? 何!? 何ですかあれぇ!」
「火力ゴーレム……王ならざる者を排除する番人か!」
迫り来る石の拳を前に、侍女は蒼白した。
「そんな。私のせいで……」
「下がっておれ! 我が力を、その目に焼き付けるがいい!」
王は、気合一閃と共に漆黒に染まった剣を大地より抜き放った。
凛と構えた美しき刀身に、紅蓮の火が灯る。
「ひざまづけ! こうべを垂れよ! 汝の前に立つは、石油王アブ・ラーデル18世なり!」
……一撃であった。
あかあかと燃ゆる炎の剣が、真紅の軌跡とともに巨石像を一振りで両断せしめたのだ。
「……すごい。すごいです」
「ふん、当然だ。我を誰だと……」
急激に血を失ってふらつく王の体を、侍女は抱きとめた。
その威厳には似つかわしくない、年齢相応の小さな肩であった。
王は言葉を絞り出すように呟く。
「ディライトよ……日本へ行くぞ。そして必ずや戻ってくる。我は王。石油王だぞ……」
幼き王に降りかかる過酷な運命を前に、侍女は言葉を詰まらせるしかできなかった。
亡国の王はやがて、静かに眠りに落ちた。