プロローグ(夕暮坂(ゆくれざか) ナギサ)

 ■三日前
流れる滝の飛沫が木々を揺らし、風がその間をかけてゆく。
鞍馬山の秘奥、苔むした古木の橋の上で、一組の師弟が相対していた。

「ナギサ。此れより、お主に鞍馬一星流の秘技を伝授する」

ナギサは滝を背に真っ直ぐ、師の玄水と向かい合う。
互いに構えた刀は、切っ先が触れ得ぬ一足一刀の間合い。

「ただの一振り、その目にしかと見届けよ」
「―――はいッ!」

剣気が張り詰め、互いに言葉は消える。

極限まで高まった剣気が水を揺らし、周囲の木の葉を切り裂いた。
それでも、二人は動かない。

(心を、研ぎ澄ませ)

ナギサが念じるは水面の如く。唯一振りの星の如く。

一切の油断を許さぬ張り詰めた空気は、一瞬にも、永遠にも感じられた。

額を伝う汗が、頬を流れ、顎から雫になって落ち、




―――地面を濡らしたその瞬間。
      玄水の刃は、振るわれた。





 ■十年前


赤、紅、赫。

視界を染める色はそれだけ。

(いたい)

赫い刃が、私の右腕を落とした。

(いたいよ)

目の前の男は、笑顔だった。

(どうして)

男は笑いながら、泣いていた。

(お父さん)

泣きながら、彼は私の腕を掴みあげた。

(やめて、痛いよ。怖いよ)

振り下ろされた刃が私の左腕を切り落とす。

(どう、して)

見上げた父の顔は、絶望に歪んでいた。握りこんだ拳から、血が滲んでいた。

(あの、刀の、せい)

最期に見上げた父は、すまない、と涙ながらに告げて、

(あの刀の)

赫月の妖刀で、自らの首を刎ねた。



 ■四日前

ベッドから跳ね起きて、ナギサは両の手で首を擦る。
ぐっしょりと濡れた嫌な感触が手のひらを伝い、せり上がる吐き気を必死に抑える。

明かり一つない部屋の中で、背を撫でる死の感触が遠のくのを、静かに待った。
真夜中の自室に、荒い息だけが五月蠅い。

嫌な夢。
十年前のあの日。随分と、思い出すこともなかったのに。

「………夢だ。あれは、夢」

自らに言い聞かせるようにつぶやいた言葉は、空気みたいに軽い。
鮮烈に焼き付いた脳裏の赫を振り払うように首を振って、立ち上がる。

汗で濡れた髪が肌に張り付いていて、包帯も肌着もぐしょぐしょ。喉も乾いた。このままでは眠れそうにない。
蛇口から直接水を飲んでから、洗面所に向かう。肌着と下着を脱いで、両腕の包帯を解いた。

シャワールームの明かりと、少しずつ温まってくるお湯にほっと息をついて、長い髪を手で梳いた。肌を伝う熱が、夢の中で感じた寒気を少しずつ拭い去ってくれる。

鏡に写る私は、大層ひどい有様をしていた。目の周りは紅く、肌は青白く、胸は平坦。両腕にはいくつもの裂傷と切断痕。

両腕の傷は、妖刀「赫月」を棄てようと試みた数だ。
二度と刃を握れぬよう、何度となくこの手を切り落とした。

それでも気づけば、この両腕は赫月を握っていた。

(………それももう、終わる)

自らを抱きしめる様に、両の腕を抱える。
大会に優勝すれば、願いが叶う。そうすれば、この忌々しい魔人能力を、捨てられる。

私は、


   ・・・・・・・・・
もう、人を殺したくはない。








 ■三日前


  刃は振り下ろされ、
    ナギサの背後の滝が、真っ二つに割れた。



一瞬の静寂の後、滝は瀑布となって飛沫を噴き上げ、周囲を濡らした。
滝と師の間にいた筈のナギサには、傷は一つもない。

「―――九曜。幽玄と無限の境目を通す、鞍馬一星流の秘技じゃ。真に心を研ぎ澄ましたお主ならば、振るえるであろう」

「……っ、はい」

極限状態の緊張が解けて、へたり落ちそうな足を叱咤して、ナギサは真っ直ぐに頷く。
その表情を見て、玄水は満足そうに頷き、

「っごほ、かっ、けほ、」
「師範?!」

咳き込んで崩れ落ちた。手は震え、刀を取りこぼした。
玄水に駆け寄ってその背を擦る。掌に荒い呼吸が伝わってくる。

「いや、なに、老体が無理をし過ぎたようじゃ」
「それは、」
「弟子への餞じゃ。少し、年甲斐もなく張り切ってしまったわい」
「……師範」

玄水の背は、ナギサでも折れそうなほどに枯れ細っている。それでも彼の刃が滝を断ったのは、彼の心が、それほど研ぎ澄まされていたからだ。

「ナギサ、心を研ぎ澄ませ。さすれば、お主に斬れぬものはない」
「…………はい、師範」

それからナギサは玄水を背負って山道を下り、道場へと戻った。



九曜。鞍馬一星流の秘技。
それが扱えるならば。

真に心を研ぎ澄ませられたなら、魔人闘宴劇の名立たる覇者を打ち倒し、妖刀を捨て去ることが出来るのだろうか



だが、九曜の一閃。師の放ったひと振りは、
ナギサには、まるで見えはしなかった。






 ■昨日

京都駅から新幹線で四時間、そこから電車とバスを乗り継いで一時間半。魔人闘宴劇の選考会場は、多くの人で賑わっていた。

人の波をかき分けて会場にたどり着き、受付を済ませて、ナギサは今、控室にいる。

願いを叶える権利、50億円、最強の称号。どれも決して安いものでは無い。当然に、強者は集う。


控室の椅子で、ナギサは心を研ぎ澄ます。
静かに、無心に、雑念を取り払い、ただ刃を正しく振うために。
心の中を水面に例えて、それが波紋一つない鏡になるように。

揺れる心が鎮まって行き、周囲の雑踏も遠のいていく。
(そうだ、心を研ぎ澄ませ)
そうすれば、きっと―――



     ( 無理だね )



ざわりと、心が揺れる。水面が赤く染まっていく。

(お前じゃ勝てないよ。体も心も弱すぎる)

それは、赫月の声。彼は、酷く甘く囁いた。


(俺に貸せよ、その体。全員殺してやる)



心が波打って、感情をかき乱す。

「……」
(おいおいつれないじゃねェか。十年来の親友だろ?)
「……黙って」

ナギサの言葉を無視して、赫月は歌うように囁く。

(九曜だっけ? ハハ、あんな技も見切れねェ雑魚が優勝だなんて、夢見ているもんだよな)
「……うるさい」
(いいじゃねェか。本当は気付いているんだろう? 手前は)

「何を……」



(自分勝手な手前は、本当は人を殺したいんだ。
    他の誰を殺してでも、手前が救われたいんだろう?)


「っ、」 「黙れェッ !!」

立ち上がって、叫んだ。周囲の視線が突き刺さる。
ケタケタと笑う声が、心の奥で私を嘲笑った。

(いつでも呼べよ。手前が殺したいなら、手を貸してやる)

その言葉を最後に、赫月の気配は消えた。

「誰が……お前なんかの……!」



呟く言葉は、途中で途切れた。
心の波は、鎮まりそうにない。



 





最終更新:2018年06月30日 22:42