プロローグ(田中 翼)
私のクラスの田中君には翼が生えている。漫画やアニメに出てくる天使のような翼だ。とてもきれいだけれど、田中君には正直言って似合っていない。その上、翼をいくら動かしても飛ぶことができない。
言ってしまえばただの飾りだ。それでも田中君にとっては生まれた時からある体の一部で、お母さんのお腹の中から出てきた時には既に小さな翼が生えそろっていたらしい。彼のご両親は驚いた。当然だろう、お父さんにもお母さんにも、二人の親戚の内の誰にも翼なんて生えていなかったから。
二人は驚きのあまり田中君に「翼」なんていうあんまりにも安直な名前を与えてしまった。二人は田中君の翼について色々と悩んだが、最終的に「悩んでもしょうがないか、生えちゃってるし」との結論に達し、開き直った両親の手によって田中君はのびのびと育った。その甲斐あってか、田中君は羽が生えているだけの、普通の男子高校生になっている。
田中君はあまり人と関わる方ではないけれど、穏やかな性格をして皆からは好かれている。
男子からはからかい混じりに「痩せろよー。」と言われながら胸を揉まれるし、女子からは本人のいるところでも「田中っていい奴だけど、彼氏にするにはちょっとねー。」みたいな勝手なことを言われたりしている。田中君の温厚さに甘えすぎじゃないか、と私なんかは思うけど、何を言われても田中君はにこにこしていて「コイツ何も聞いてないだけなんじゃねえか」とたまに思う。
でもそんなことはないようで、「もっと痩せたら飛べんじゃねーの?」と馬鹿な男子がほざいた時なんかは、「いくら痩せたって、こんな羽じゃ人間の体重を支えられないよ。重力は人間が飛ぶには重すぎる。だから僕はこれでいーの。」と大きなお弁当を食べながら反論していた。いつも通りニコニコするものかと思っていたその馬鹿は一瞬、虚を突かれた表情をしたが、直ぐに腹を抱えて笑い出し、教室の隅で話を聞いていた私も笑いをこらえていた。
★
私が田中君のことを意識しだしたのは高校に入ってしばらくした後の休日の時のことだ。
その日私は近所の公園で犬の散歩をしていて、愛犬のホークが上を向いて急に吠えだしたのでそちらの方を向いてみると、パラシュートを身に付けた何者かが地面に着地していた。
その時はただ、人生で初めて人間が落下している場面に遭遇したことで呆然とした。そんな私の横でホークは依然吠え続け、私が呆けている隙をついて落ちてきた人物に飛びかかっていった。私が慌ててそれを追うと、落ちて来た人に声を掛けられた。
「この犬、志島さんの?」
そこでようやく落ちてきた人物が田中君であることに気づく。気づくのに遅れたのは彼の背中に見慣れた翼がなかったからで、翼の代わりに大きな腕が生えていてそれがホークを掴んでいた。
「…う、うん。」
あまりのことに感情が追い付かず、そう返事するので精一杯だ。
「リード、放すと危ないよ。」
そう言うと、背中から生えた腕を動かしてホークを私の近くに優しく置いた。ホークを手放して自由になった腕はうにょうにょと動きを見せ、翼へと姿を変える。大きく、美しいいつもの田中君の翼だ。
捕まれたことと、今の奇妙な光景への警戒心からかホークは素早く私の後ろに回り込み、小さく唸る。
「えっと、田中君?」
「何?」
「その翼、何なの?それホントに翼?」
「翼だけど?何か変?」
「だってさっき、腕みたいに…」
「ああ、アレ?変形できるの。言ってなかったっけ?」
そう言うと田中君は先ほどのようにうにょうにょと翼を変形させる。
「知らない…。多分クラスの皆も知らないと思う。」
そうかなあ、と言って田中君は考え込む。
「…あー。確かに高校のみんなには言ってなかったか。」
「…もしかして、ホントは飛べたりするの?」
翼を変形できるんだったら、どうにかして飛べてもおかしくはない気がする。そしたら今の着地にも理屈がつく。
「…だから、飛べないって。何回も言ってるけど。」
そう言うと翼を変形させて左右に三本ずつの細長い棒を作り出す。それは半分に折り曲り、田中君を宙に浮かす形で地面についた。
「この足でジャンプしただけ。翼を動かし続けるのは、まだ無理。着地も難しいからパラシュートで代用してる。」
「飛ぶの?」
「それなりに」
「空、飛びたいの?」
「…まあね」
「…ふうん」
田中君が空を飛びたがっている、というのが少し意外に思えた。そのことでみんなにからかわれても、冗談でかわしていたから。
「いつも、ここで飛ぶ練習してるんだ?」
「…悪い?」
「んーん。別にいいんじゃない?飛びたいんでしょ?いい夢じゃない。」
「…ありがと」
そう言うと、田中君は私から目を逸らす。
「…たまに見に来て良い?」
「志島さんなら、いいよ。…でも、他の人には秘密にしてくれると、嬉しい。恥ずかしいから。」
★
その日からホークの散歩コースに寄る場所が一つ加わった。
田中君は毎日のようにこの公園で飛ぶ練習をしている。手を変え品を変え色々試しているけれど彼の望むような成果はまだ出ていない。
それでも彼は空に挑み続けている。いつか空へはばたくために。
田中君がいつか空へ羽ばたけるといいな、と思う。その日が来ることを期待して、私は今日も公園を訪れる。