プロローグ(志那々々理央)
創英角出版社7階、オフィスフロア。
簡易なセパレータで隔てられた応接スペースに、二人の男女の影があった。
一人は、目つきの鋭い女性。
薄手のシャツから伸びる腕は細身だが、鍛えられた鉄のように筋張っている。
短髪と長身も相俟って、会う人にはスポーツマン然とした印象を与えるだろう。
もっと言えば戦士に近く、実態を言えば物書きであり、報道用語を使うなら無職である。
名を、志那々々理央という。
もう片方は新品のグレースーツを纏った中年男性。
中年というのは外見の話であって、本人はつい去年まで学生だった身である。
半年前に訪問した時、当時アルバイトとして紹介された男の名前を、志那々々は記憶していた。
「どうだ、前紙」
今どき物理媒体で持ち込まれた原稿用紙650枚を束ねて抱えながら、面を上げた前紙一郎は苦々しい表情を浮かべていた。
「……うわぁ」
何か感想を言おうとして、自然と口を突いた一句だった。
「何だその……”憧れの人と初めてデートに行ったら鼻くそほじってて幻滅した”みたいな反応は」
「はは、うまいこと言いますね」
志那々々は怒気を発しているが、前紙は笑みを浮かべて受け流す。
「いやぁ……まさか”あの”志那々々さんが、こんなどうしようもない原稿を持ってくるなんて。話には聞いていましたが、流石に驚きましたよ」
「言ってくれるではないか、新人」
睨みを受けながら、前紙は淡々と、その小説の至らなさを列挙した。
ヒロインが登場と同時に吐瀉するのは、か弱さのアピールとして間違っているということ。
その描写にねっとり30行もかけるのは、控えめに言って正気ではないということ。
人外物が流行だからといって、登場人物がみな二枚貝綱翼形亜綱フネガイ目では、読む気が失せるということ。
志那々々は、それらの指摘を憮然として聞いている。
彼女にとって、物語を書くという行為は、掛け値なく生きるためのものだ。
書かなければ死ぬ。
呼吸を生き甲斐とする人間がいないように、読者の評価が彼女の心を潤した事は一度としてなかった。
ただ、それはそれとして。
こうして批判されるのはなんかむかつくのであった。
「その言葉、宣戦布告と受け取った。撤回するなら3秒待ってやる」
「撤回はしませんよ」
「なら」
「いいでしょう。貴方がその気なら、”打ち合わせ”を始めましょうか」
“打ち合わせ”。
創英角社において、その言葉が意味する所は尋常と異なる。
創業者にして現会長、小僧忍は言った。
何が面白いのかという尺度は結局、いち個人の主観でしかない。
大衆が求める面白さに追従していては、新たなエンターテイメントは生まれないだろう。
したがって、その”面白さ”に関して意見が対立した時、真に測るべきは一つ。
覚悟だ。この提案のためなら死んでもいいという、ヒトの覚悟を測ればよい。
(早く死なないかな、あの会長)
前紙は内心で毒づきながら、バッグの中からリングノートを手に取り、立ち上がる。
「実績しかないアンタは、もう邪魔者でしかない。これは編集部の総意なんだよ」
「……なるほどな」
志那々々は、セパレータの向こう側から完全に人の気配が消えている事に気づいた。
今日のミーティングは、初めから彼女を処分するために用意されていたのだ。
彼女は過去に三度、創英角社の”打ち合わせ”に勝利している。
文字通り力づくで出版された三冊の書籍にまつわる損益は、円8桁に登っていた。
「ふん、とんだブラック出版社だ」
「そこは同意しますがね!」
叫び、前紙は机を蹴り上げながら、リングノートを振りかぶった。
次の瞬間、彼の視界は爆炎に包まれる。
「……こんなものか」
都内某所、アパートの一室。
創英角社から出版された4冊目、「蝋色竜宮蛍刺客伝XX(ダブルエックス)」の印税が記された通帳を確認して、志那々々は呟いた。
その全身には真新しい包帯が巻かれている。
あの時、前紙は持ち込まれた全ての原稿を読み終えた後だった。
以前の”打ち合わせ”の内容から、彼は志那々々の能力について知っていたのだろう。嫌嫌ながら律儀に全てのページに目を通したのは、”不読の呪い”への対策である。
また、入館時には機密保持の名目で電子端末やUSBメモリを取り上げられ、電子データへの対策も入念であった。加えて、あの場所はスプリンクラーの真下だ。
そこまで手を封じて、前紙は勝てると踏んでいた。
実際、その見込みは正しかったかもしれない。
今回に限って入口で端末を回収された事を不審がった志那々々が、オフィスですれ違った社員の一人からスマートフォンを盗み取る事をしていなければ。
前紙が原稿を読んでいる間に、隙を見てクラウドに保存していた自身の新作原稿のデータをダウンロードするのは、容易い事であった。
もっとも、能力不明の敵に間合を詰められてからのカウンターだ。
あのノートに触れられていたら、志那々々はどうなっていたか分からない。
撃たれる前に撃つ。
その判断自体は慎重にして適切と言えたが、自身を爆風に巻き込む事は避けられなかったのだ。
そうして、”打ち合わせ”を制した彼女は、四度目の出版権を勝ち取ったのだが。
その口座に振り込まれた金額は、自身の怪我の治療費を差し引いて、半額以下になっていた。
「割に合わんな、これでは」
今回の勝利をもってなお一層、創英角社は彼女に対する警戒を強めるだろう。相手が恥を知らなければ、出禁という処理もあり得る。
また当然だが、他の出版社を訪問して社員を爆破したところで、出版を許可される事などあるはずもない。
「……やはり、同じやり方を続けるばかりでは、限界があるな。自費出版でもしてみるか?暗殺業も悪くないが、請け方が分からないな……」
正当に評価される話を書けば良いのだが、今の志那々々にはそれができない。
するつもりもない。
彼女にとって創作とは、どこまでも手段に尽きる。
原稿で誰かを爆殺する事が金になるのなら、迷いなくそうする。
さもなくば、自分が死ぬのだから。
治りかけている腕の包帯を解きながら、怪人はひとり思索に耽る。
その自宅ポストに「魔人闘宴劇」の案内状が届けられる、1時間前の光景であった。