プロローグ(裸繰埜家魅首 連鎖)
月は隠れ、森の色は濃い。暗闇が人と人を隔ててくれた。
今は、ふたりきり。僕たちは逃げ出そうと駆けだしている。
早く! 速く! 何かに追われるように。
高鳴り過ぎて割れてしまいそうな心臓と、握り過ぎ折れてしまいそうな小さな掌。
地面が土くれからようやく切り替わろうとする、アスファルトに仕返しをされてしまいそうなほど、強く強く蹴った。
夜の踏切が足を止めてくれた。病的に明るい背後から目を背けると、警報機の無機質な光がかえって目に優しいとさえ思えたんだ。
追われるのは僕たちだけど、追いかけるのは何よりも僕自身なんだとようやく気付けた。
ゼイと息吐く僕は、さぞ恐ろしい顔をしているのだろう。ようやく最愛の妹を見ることができた。
「お兄様……」
首の下から僕を見上げる、濁った虹彩。そこには恐怖があった。
色素の薄い肌の色合いを透かし見るには 暴力の跡。腫れあがった、痛々しい黝。やったのは、父だ。
気付いた時には、もう走り出していた。滴り落ちて、足下を汚した血だまりを見たのだから。
人里離れた屋敷に生まれ、時代遅れな掟と家風に雁字搦めに縛られていた。学校という単語を知らなかった。
何よりもおそろしいと思ったのは、それがおかしいということさえ気が付けなかったことだ。教えてくれた君と今、僕は手のひらをつないでいた。
「好きでした。夫婦となってくださいませ」
淀んだ瞳が愛おしかった。本当に腹立たしかったのは、彼女が僕のものではなかったその事実に尽きるのだけど。頷くまでもなく、目と目だけでわかってもらえたと思う。その結果が言葉となって表れたことに安堵する。
だけど、次の瞬間に僕は足を払われていた。刹那遅れて、がぁんという音が二重にした。
「よくぞ、愛してくださいました」
僕の最愛の妹、連鎖の肋骨が何本かまくれあがっているのが見えた。
続いて、肉の上に薄く張られた皮が持ち上がっていく。僕と同じように横たわっている連鎖がごぽりと血を吐いたのが見えた。
それは蝶が羽化する瞬間に似て、ひどく美しかった。
蛹に値するものが年端も行かない僕の妹であることに目をつぶれば、だったが。ゆっくりと、蝶が翅を開く。
ほっそりとした輪郭は、一糸たりとも身に纏わせず、血化粧だけを鮮やかに生まれたての、白く輝く肌に許していた。
紛れもなく連鎖の面影を宿した娘。ただし、それより幾分も成長している。女らしい丸みと曲線を帯びて、いつでも子を為せるだろう、完成された女性だった。
「わたくしはあなたの娘、血を受けた娘。無論それだけでなく」
ぬめりを帯びた掌が、僕の頬を撫ぜる。未だ、連鎖の中から這い出していない。どこに埋まっているのか、腰から上は臓腑を踏みつけにしているのだろうか。
せめて、これ以上痛みを与えないでおくれ。欺瞞であることはわかっている、だけど、せめてと、言葉にならない声で懇願する。
すると、娘はくるりと腰を折り曲げ、やわらかな手のひらを妹の首筋に当てた。丁度、僕の位置からは歪な半円を描く形になる。
「ありがとうございました、わたくし。楽しかったですね」
僕自身、一度たりとも見たことのない笑顔だった。僕をよそに、大きい連鎖は小さい連鎖を確かに折った。かくり、図形は崩れた。
とうとう、口の中に鉄の味を留めることが出来ず、血を吐く。そうだ、僕自身、長くは生きられないからだ。致命傷を受けていることは、冷たくなる手指からわかる。
そのままの姿勢で、懸命に問いただす。
「一体いつからだ、いつからなのだ。連鎖、お前がいたのは」
女が誰なのか聞くまでもない。女は最愛の妹と全き同じ存在であることはわかってしまった。
紛れもない、それは、年端も行かない頃からの記憶。
僕は思い出していた。女のいう生き物は十も届かないうちに、もう子を為せる。子としか言えない姿のままで子を作り、次いで子と子の間に子を作り……。
「そう、わたくしは貴方に血を与え、肉を分けた母、無論それだけでなく」
そして、気づく。夭折した祖母、そして母。
たった今死んだ妹まで全く同じ顔をしていることに。
だから、言えてしまう。おのれの最愛の名を委ねてしまう。
「臍の緒で結ばれたころは、母と子は一体。人なるものの定義に分け入らなかった不明を恥じてください、殿方。
あなたの妹と私は限りなく一体であり、おなじ心を持つものだったのですわ。今一度の家族ごっこをお楽しみになりますか、旦那様?」
胎の中にいた娘は、僕という父と結ばれる妻となるため、相応しい年齢に育ったのだろう。
どんな理屈かはわからなかったけれど、今はどうでもよかった。母の似姿を求めるどころか、その人そのものに殺されるなら、本望だった。
「それでも、もし。人なるものとわたくしたちを分け隔ててお呼びになりたいのなら、お教えしましょう。号して『裸』を『繰』り遊ぶ埜、『裸繰埜』と」
血と臓物を浴びながら、微塵もその美しさを減じることなく連鎖は立ち上がった。
深紅の血と、背景のより凶暴な光に照らされ、柔らかな乳房が、形のよい腰骨が地に足を付けることでより一層踊る様だった。
「貴方のお家はもう、終わりです。いいえ、まだ独り、いらっしゃいましたか?」
僕の罪が、美しい人の姿を照らし出す。暗くなっていく視界を少しでも留めるために、屋敷に火を放ってよかったと心の底から思った。
「ありがとう、君の手で殺してくれて」
まぶたを閉じて、最期を待った。もう、その力さえなかったから。
遠のく意識の中で僕は願った。今、身を重ねるのは連鎖の指先だけでよかったから。
それでも、悲しみと喜びをないまぜにした顔だけは、地獄まで持っていけるのだろうか?
いいや、今一度の痛み。転がされているのがわかる、何か温かいものが振りかけられているのがわかる。
「貴方の恋路、わたくしのお邪魔するところではありませんわ。車に轢かれて死んでしまいなさい」
轟音に掻き消され届くはずのない声がもたらされた。呆れと憐れみが混じっていることに気づいて、何かを考えようとした時、僕という者は、何もかもなくなっていた。
跡に、血と肉と骨がぐちゃぐちゃに混ぜたものをふたり分だけ置き去りにして。