プロローグ(頭陀淵 末黒)
市民体育館に、金属の衝突音が鳴り渡る。
チェーンソーの駆動音が響もす。
荒い呼吸を整えもせず、男は少女へと排気量100ccの凶器を振り下ろした。
殺人的構造が脳天に直撃しようとしたその時、少女は瞬時に身を屈め、男の脚を強く蹴り飛ばした。
男が蹌踉めき、チェーンソーを握りしめた腕の力が緩む。
少女は相手が瞬時に武器を振り回せないことを見て取ると、追撃の後ろ蹴りを顔面に叩き込んだ。
体育館の隅に腰を下ろし、黒眼鏡の男、頭陀淵末黒が後輩である少女へと炭酸飲料のペットボトルを差し出した。
「ありがとうございまス」
「付き合ってもらってるのは俺の方だから……」
「じゃあ、遠慮なく。頂きまス」
ガスの吹き出す音を立てて栓を開けると、少女は一息にペットボトルの半分以上を空にした。
彼女は栓を再び固く閉めると、ボトルを端に置いて立ち上がった。
「少し休憩したら再開しまシょうか」
「もう良いのか」
「私の魔人能力を舐めてもらっては困りまス。魔人闘宴劇の治療スタッフの一人にも選ばれている能力でスよ?」
「そうか、すまない」
頭陀淵も立ち上がり、体育館の中央へと肩を回しながら戻っていく。
「さて、次は何で攻めてきまスか?」
「では今回は包丁で」
「良いのでスか? そんなに薄っぺらい金属でこの私に傷一つでも付けられるとでも?」
「それなら二刀流で」
「ドンと来いでス」
実身袋から二本の万能包丁を取り出し、頭陀淵は後輩へと近づいていく。
その一方で後輩は膝を曲げて腰を落とし、手の平で空を撫ぜる拳法じみた構えを取る。
常人の目に追えぬ速度で、二者は衝突した。
頭陀淵末黒は軽度のメランコリックに陥っていた。
自分のしたいこと、するべきことの展望を見失っていた。
少し前までは、ボランティアに参加したり、嬉々として講演を聞きにも行っていたのだが、今は何もできる気がしなかった。
或いは、それらの活動に満足できなかったことが原因かもしれない。
既存のプロジェクトでは現状の維持こそはできても、世界中の不幸が消し去られることはない。
飢餓、戦争、病気、格差、苦痛に嘆く人々の声は、聞こえるより早く踏み潰されている。
仕方のないことで済ませたくは無い。幸いにも世界には魔人が存在し、ルールは何度でも覆される。
そう考えた頭陀淵は魔人が結集できるよう呼びかけた。
一つでも自分達で、何かを解決できはしないかと模索した。
後輩の少女もその中に集まった一人だった。
虫も殺さないような少女の持つ超回復能力は、彼に希望を抱かせた。
しかし、何もすることはできなかった。
未だに地域、世代、コミュニティによっては残っている魔人差別を、武力で解決しようとする者達が現れた。
彼らはただすることも無く集まったような人々や、他人の思想に呑まれやすい人々を巻き込んで力を付けていた。
頭陀淵が気が付いた時にはもう遅く、強制捜査により集まった魔人達は解散させられた。
彼も取り調べを受け、誇張した報道すらされた。
この騒動は、魔人差別の新たな火種になっただろう。
家に帰ってからは、ただひたすらに無気力だった。ただ項垂れていた。
そのような中で、後輩の少女から連絡があった。
彼女もスタッフとして参加する魔人戦闘大会に出場してみないか、という内容だった。
魔人頭陀淵末黒に戦闘経験はない。
彼は最初は断った。予選すら通ることができないことは分かりきっていた。
しかし、後輩の少女は彼を熱心に説得して大会出場を促した。
なんでも、彼女は幼少時に魔人となって以来、過激派魔人差別者からの暴力を恐れた両親から『正当防衛道場』へと通わされていたと言う。
『正当防衛道場』は全国に看板を掲げる有名な魔人武術者養成所であるが、後輩少女は今では師範代級の免許皆伝を受けているらしい。
その後輩が、直直に頭陀淵を鍛え上げてくれると話した。
幸い、頭陀淵の身体能力は魔人としても破格のもので、能力も応用が利く。
試合が始まるまでの間に徹底して鍛えあげれば、優勝の可能性は十分にある。
最初は半信半疑だった彼も、試しに後輩との組手を行なっている内に、自らの戦闘力の上達が分かるようになる。
希望が僅かながらも見えてきた。
先刻の攻防でも、後輩から偶然の一本を取った。
彼自身の恐怖を具現化したチェーンソーを取り落としかけた所で、チェーンソーがサイズを増して相手の虚を突いたのだ。
かつて調理中に頭陀淵の指を大きく切り裂いた実家の包丁を具現したものが、後輩少女の頬を掠める。
一瞬間の内に傷は塞がり、刃を恐れる様子もない後輩は頭陀淵の肘を固め、関節を外しに来る。
強い痛みに右手の包丁を取り落としつつ、頭陀淵は左手の包丁でもって相手に襲いかかる。
後輩は頭陀淵の肘を固めたまま、体重を移動して頭陀淵を、宙に投げた。
床に叩きつけられた頭陀淵に手を伸ばし、後輩少女は彼を助け起こした。
「やはり全く勝てる気がしないな」
「何を言ってまス。先輩は私に遠慮をしているのでス。それさえなければもう少し勝っていまスよ」
「そうかね」
「そうでス」
少女は二人の傷や疲労を素早く回復すると、背を預けて座れる体育館の端まで彼を誘った。
「出場するように勧めた私が言うのもなんでスが、大会には必死に幸せを掴むために参加する人達が沢山いるはずでス」
「そうだろうなあ……」
「気兼ねはありませンか?」
「無いとは言えない」
「それでも戦ってくれまスか?」
「俺だってみんなのために戦うつもり。お互い様だよ」
「それならば良いでス」
後輩は頭陀淵の隙を突き、彼のサングラスを掠め取った。
「何するの」
「いやあ、こんな不審者ルックが世界平和のために戦うから勝ちを譲れとか言いだしたら対戦相手さんも絶対警戒するでシょうから」
後輩少女が小さな声で笑い、つられて頭陀淵も笑った。
「勝てばいい」
「その通りでス」
「もう少し練習したら映画でも見ようか」
「ホラーでスか?」
「あたり」
「チェーンソーは映画を見て出したんでスか?」
「あたり」
「それならば他にも出して見て欲しい物がありまスので、後でツタヤに行きまシょう」
「行こう」
「行きまス」
明滅する水銀燈の下で二人はまた、体育館中央へと歩き出した。