プロローグ(金宮 刀)

 俺がいつものように大学をサボって、アパートのベランダでもう何日も取り込まれていない洗濯物と一緒にタバコを吸っていると、通りの向こうに目立たない男が立っていることに気づいた。目立たないはずの遠くの人影に気付くというのも何だか難しい話のようにも思うが、その男は目立たなすぎて逆に目立っていたのだ。
 金宮刀だ。俺のアパートに何の用だろう。
 金宮は信号が青になったことに約3秒遅れで気づくと、ゆっくりと道をこちら側へ渡ってくる。
 俺の家は大学にほど近いが、かといって金宮の家から大学に行くまでにこの道を通るわけでもない。そもそもあの金宮が昼間っから大学なんかに行くはずがない。というか、もとよりあの男は道場以外にいることが異常なのだ。
 そういえば、と思い出す。昨日酔っている時に金宮から連絡があって、今日の訪問を伝えられた。気がする……
 慌てて携帯の着信履歴を調べるとやはり彼からの連絡は夢の類ではないらしい。
 俺はタバコを灰皿に押し付けて、虫の多い部屋に戻り来客を迎える準備を始めた。

 まもなくしてチャイムが鳴った。それまでに俺が出来たことと言えばアダルトグッズを押し入れに隠すことくらいだ。これは非常にマズい。
 しかし待たせるのはもっとマズいので俺はしょうがなく玄関ドアを開けた。
「久しぶり。お招きいただきありがとう。これ、つまらないものだけど」
 そう言ってカバンと刀の入った袋を持っている金宮は菓子折りを渡してくる。
「金宮、何度も言うようだけど、友達が一人暮らししている家に来る時にわざわざ菓子折りなんか持ってこなくていいから」
「そうかなあ、僕はそうは思わないけれど」
 金宮と議論するのは無駄だと分かっているので俺は一つため息をついて彼を部屋に上げた。



 金宮は部屋をしげしげと見渡している。
 彼が考えていることは大体分かる。つまり俺が部屋を客を迎えるのにふさわしい綺麗さにしておかなかった無礼に怒っているのだ。部屋の中を蚊が何匹か飛んでいる。減点一。
 仏の顔は3度まであるが金宮は仏ほど寛容ではないことを俺は知っていた。
 金宮に上座に座るように勧めて断られる。予定調和だ。結局俺が上座に座った。お茶を出すのも忘れない。
「それで、今日はどんな用で来たんだ?」
「いや、言い難いんだけどね、お金を貸してもらえないかと思って」
 俺は思わず飲んでいたお茶を噴き出しそうになった。
「これはまたどうして」
「魔人闘宴劇に出ようかと思って」
 今度は本当にお茶を噴き出してしまった。金宮の服にかかってしまう。必死に謝ったがこれは減点二だろうか?



 こぼしたものを拭いて、会話が仕切りなおされる。
「それでアレ、魔人闘演劇に出るって? それってあれだろ? 五十億の……どうしてまた?」
「いや、ちょっと借金を返したくて。それと、特殊能力を消したくて」
「能力ってあれだろ? 剣が伸びるやつ、いいじゃんかカッコよくて」
「あれさ、たまに制御しきれなくて道場の床を傷つけるんだよ。困るんだよね。それに普通に居合道やる分には必要ないし」
「ふーん、そんなもんか。でも、あれって確か負債に応じて伸びしろが決まるんだよな? じゃあ借金背負わなければ良くないか?」
「人生そう簡単じゃないよ。将来的に家とか買いたいし……」
 魔人闘演劇で勝てるほど人生簡単じゃないだろ。
「まあ、いいよ。それでいくら貸してほしいんだ?」
「あるだけ」
「あるだけって……今いくら借りてるんだ?」
「出来るだけ試合までに負債を増やしておきたかったからね、出来るだけ金利の高いところで借りれるだけ借りたよ」
 金宮は笑って言った。
「お前……それって闇金なんじゃ」
「そうだよ」
 彼は表情一つ変えることなく言った。
「ちょ、ちょっとお前借用書見せてみろよ」
「うん? いいけど?」
 彼がカバンから取り出した借用書を確認し、電卓で計算する。計算結果が判明するにつれ他人事なのに指が震える。
「……お前、試合の日までに負債がいくらになるか分かってるのか?」
「よく知らない」
「約二千万円」
 俺は震える声でそう言ったが彼は全く気にした様子もない。
「お前、大丈夫なのか?」
「ああうん、秘策がいくつかあるんだ。勝てるよ」
 当たり前のように言うのを聞いて俺はすっかり全身の力が抜けるのを感じた。なんだか笑ってしまいそうだ。
「いいぜ、あるだけ貸してやるよ」
「本当? ありがとうございます」
 俺はタンスから通帳を取り出すと金宮に投げてやった。
 その後は二人して無言のままお茶を啜っていた。部屋に蚊が飛ぶ音ばかり聞こえて気まずかったので、俺は先ほど気になったことを聞いてみることにした。
「そういえばさっき、参加は負債を返すためでもあるって言っていたけど、もともとあった負債っていくらなんだ?」
「ああ、5万円」
 俺はすっかり呆れてしまって、気が抜けたのだろう「お前馬鹿だなあ」なんてことを言った。
 言って、しまった、と思った。これが金宮に無礼判定を受ければ今日三つ目の無礼だ。
 ゆっくりと金宮の方を向く、彼は持ってきた刀に手をかけたところだった。
「動かないでね」
 殺される。
 そう思った。
 金宮の動きはよく見えなかった、しかし鯉口と鍔が当たるキンという音が部屋には確かに響いた。
 そして、テーブルの上に蚊が何匹か落ちる。
「蚊が多くて聞こえなかったんだ。何か言った?」
 俺は自分の股の間に何か温かいものが流れていくのを感じながら「何でもないよ」と言った。
 その後すぐに金宮は帰っていった。俺の失禁を察したのだろうか。

 洗濯物が何枚か足されたベランダでタバコをふかしながら、青になって3秒後に信号を渡りだす金宮を眺める。
 あいつなら、あるいは。俺はそう思わずにはいられなかった。




最終更新:2018年06月30日 23:06