プロローグ(馬屋戸 桜)

グンマーに生い茂る木々は互いを圧し潰すかのような密度で、ざあざあと唸るスコールも通さぬ天然のアーケードとなっている。
しかしどこかから流れた水で地表はぬかり、密林はかえってうだるような熱気を増幅させる。
だが雨が降る間、死病を運ぶ虫や獣より獰猛な花は枝葉の陰に身を潜める。出歩くにはいい天気だ。
「ヤセイーッ!」
「ヒヒーンッ!」
「ヒャバーッ!?」
全身を分厚い毛皮に覆われた野生のモヒカンが樹上から飛び出し、撃墜された。
撃ち落としたのは、二足で大地に立つ馬。その前足の硬い蹄。
……いや、違う。確かに馬面ではあるが、馬形拳の功夫を積んだ拳は蹄のごとく固められてはいるが。
彼は人間だ。名は馬屋戸桜。パルナ寺院の僧兵である。今のところは、まだ。
冷たく穏やかな黒い視線が倒れたモヒカンに注がれる。
「奴らとは違うな。では君の狙いはこれか」
馬屋戸はその身に纏っていた袈裟を脱いで投げかけた。キンイロモヒカンの頭頂の毛だけを用いて編まれた品であり、馬屋戸には戦功により特別に許されたものだった。
モヒカンはすぐさま跳ね起き袈裟をつかみ去っていった。
馬屋戸は既にそちらを見ていなかった。彼は行く手に現れた煉瓦積みの城を睨む。おぞましきロックハート城を。
『ロックハート城はカップルとか特撮好き向けの楽しい観光地じゃないか』
馬屋戸はその姿なき声を確かに聞いた。声の主を探しはしない。幻聴だとわかりきっている。



「ヒヒーンッ!」
「パーンッ!」
まさしく、パン、と軽い音のみ。なんの破壊も齎さず、馬屋戸の拳打はサンドウィッチ辺境伯に阻まれた。
馬屋戸が繰り出したのは魔人馬形拳。踏み込みと共に左右から閉じるように両拳を突き入れる動き。
辺境伯は一歩の後退で間合いを保ったままかわし、馬屋戸の右拳を両手で上下から挟み取ったのだ。
「ヒヒーンッ!」
「ホッホーッ!」
さらに繰り出した稲妻の如き蹴り足を、辺境伯のはち切れそうなコールパンツが迎え撃つ。
衝撃が両者の軸足から逃げ、大理石の床にひびを入れた。
サンドウィッチ辺境伯。ゆで卵型の異常に膨らんだ顔。突出して大きな顎。身長は低く、動きやすいとは言えない礼装姿。自ら前線に立つことはそう多くない。
馬屋戸にはこの貴族の丸太の様な両脚は肥え太ったものという先入観があったが、その実は剛健な筋肉の塊であった。
「流石に、噂が全てではないか……!」
馬面に焦りが浮かぶ。
半年前にグンマーに乗り込んで来た彼らは明確に侵略を目的としていた。故にパルナ寺院やその他の地域勢力と衝突し、辺境伯自身がその力を振るうことも数度。その魔人能力も既に分析されている。
挟んで手づかみできあがり(サンドウィッチクラフト)」。両手に持ったパンでどんなものでも挟んでみせるという力。
馬屋戸の知る限りこれまでは左右から挟む動きであり、先ほども鳳のごとく両手を広げる構えを見せていた。
魔人馬形拳の動きには対応しづらく、仮に片手を取られても相手は両手がふさがる。使わせればむしろ隙を打てる……虫が良すぎる考えだった。
戦いの主導権はもはや辺境伯にある。
「ホッホーッ!」
辺境伯が両腕に力を籠める。 ひねり倒すか、腕をねじ切る算段か。
馬屋戸はその力に逆らわず、引かれる方向に跳び受け身を取ろうとする。が、ままならぬ。 挟まれた手が抜けない!
馬屋戸は無理やり引き起こされ、 戦いはハンドカフマッチの様相だ。
辺境伯は既に右手をサンドウィッチから離している。しかし左手はサンドウィッチに吸い付くように離れない。これもまた挟んで手づかみできあがり(サンドウィッチクラフト)の能力に含まれる。
どんな物でもパンで挟み、できあがったサンドウィッチを手放すことはなく、新たなサンドウィッチが作られることもない。辺境伯自身がそれを食するまでは!
「ウホーッ!」
辺境伯の顎が開く。剣のような歯と大蛇の如き舌が姿を現す。
馬屋戸の脳裏に浮かぶ一刹那の状況判断。
あえて右拳を突き出し歯や喉奥の破壊を狙うか。それは通るまい。開かれた口は馬屋戸の頭を飲み込もうかというほどの大きさ。辺境伯に引き込まれる流れの中では歯に掠らせることも困難だ。喉奥への攻撃も分厚い舌が押しとどめるだろう。
ならばここで鬼札を切る。
不死の甘露に帰命する、煩悩一切噛砕す(オン・アミリタ・ドハンバ・ウン・ハッタ)!」
叫ばれた馬頭観音真言が大気を震わす。馬屋戸の体から厳かな霊気が立ち昇る。
自由な左手が辺境伯の顔面に伸ばされる。辺境伯は侮蔑の表情を浮かべ背後に倒れこむ。馬屋戸の左手は届かず、そもそも引き寄せられた右手が口に達する方が早い。
その右手が。赤く燃えている。パンを焼き焦がし、消し炭と変え、ごう、と音を立てて石火矢のごとく辺境伯の顔を打ち下ろした。
「馬形神拳、赤兎馬。いかがか」
返事はない。ゆで卵型の頭は既に爆ぜ、今は火がその礼服に燃え移っていた。
馬屋戸桜。その魔人能力は「不死の甘露に帰命する、煩悩一切噛砕す(オン・アミリタ・ドハンバ・ウン・ハッタ)」。全ての馬を守る力。馬を守るためなら際限ない力が体に流れ込むがこの瞬間それはない。魔人能力が与えたのは馬を守るための智慧、馬に対する理解のみ。
その馬と合一する心に彼の鍛えた魔人馬形拳が合わさり馬形神拳は実現する。
魔人ならぬ魔馬の力を顕現させる魔技が。
馬屋戸は右手に残る火を叩いて消し、城の奥へ歩みを進めた。
「桜兄ぃ?」
いくつも並ぶ狭苦しい部屋の一つに十に満たぬ子が待っていた。パルナ寺院の小僧であり、辺境伯一派に囚われていたのだ。
戸を開けた馬屋戸に疲労と脱力と安堵の笑顔を向ける。
「辺境伯は片づけたよ。さあ帰ろう。途中までは送っていくよ」
「途中まで……」
小僧の顔に悲しみが浮かぶ。馬屋戸はやはりグンマーの外へ向かうのだ。
魔人闘宴劇。先日知らされたその催しに心惹かれているのは容易に察せた。別れはもう、すぐそこに。



小僧と別れた馬屋戸はグンマーのジャングルを振り返る。何もかも間違っている。
元の群馬県に戻さねばならぬ。それを知るのが今や彼ひとりでも。
しかしこのグンマーが消え、十年前の群馬県が戻ったとしても。
「あの子たちは、消えるのか?」
答えは返らない。幻聴すらも。




最終更新:2018年06月30日 23:08