プロローグ(市毛ひとみ)
『吾必倒、吾斬。これぞ我らが極意』
『貴様は、和派英語流衆の誉、五十四代目・一撃必倒斎となる』
『亜門洸太郎を屠るために鍛え、死ぬ命である』
垣間見たのは、ある権力者を殺すためだけに育てられた、暗殺者の過去だった。
ぐるりと世界が反転、背中に衝撃が走る。
銀行の床に、庄部 我丸の巨体が叩きつけられた。
庄部は態勢を立て直しつつ、思考に交じった謎の記憶を反芻する。
断じて庄部自身の過去ではない。
庄部は悪人だ。食い詰め、魔人能力を頼みに、今こうして地方銀行で強盗に及んでいる、裏社会の住人である。
が、殺人を当然とする闇世界の人間ではない。
「お、お恥ずかしいもの、お見せしました」
庄部を投げたのは、少女だった。
時代錯誤な袴姿に、ド派手なジャージを羽織っている。
どうみても華奢で非力な娘だ。
だからこそ、庄部は強盗の人質に彼女を選んだ。
その結果がこれだった。
ついてねえ。いつも俺はこうだ。
庄部はスキットルの中身を半分飲み干した。
特製のキューバ・リブレが喉を焼く。
「や、やめましょう。自由を自分から捨てるなんて」
少女の言葉に、庄部は理解した。
先ほど流れ込んできた、覚えのない暗殺者の情報。
そして、少女が知るはずのない、スキットルの中身……自由を意識した言動。
この暗殺者は魔人。
能力はおそらく「接触による強制相互理解」だ。
庄部の魔人能力は、『破局への疾走』。
耐えている尿意に比例し、思考能力、精度が向上する力だ。
先ほど庄部が口にしたキューバ・リブレはコーラとラム酒のカクテル。
利尿作用のあるカフェイン、炭酸、アルコールを含む、庄部の能力にとって最強のドーピングカクテルドリンクなのだ。
まさに鬼に金棒。
今の庄部には、情報の断片から相手の異能を看破することもたやすい。
足元には、現金の詰まった鞄。
銀行員の110番通報から、およそ20秒。
尿意臨界までおよそ1分30秒。時間がない。
だがそれは『破局への疾走』の効力が最大になることも意味する。
いける。この少女を打倒、しかる後に排尿、離脱する。
決断までコンマ1秒の高速思考。尿意がニューロンを加速する。
「え、園の子たちが悲しみます。あの子たちには、お金より、あなたが必要です」
少女が口にした「園」とは、庄部がこんな愚行に手を染めた原因である、孤児院のことだ。能力で読み取ったのだろう。
暗殺者があえて言及したということは、「逃げても人質にとれるぞ」という脅迫に他ならない。
庄部の決意と外尿道括約筋が固まる。潰さねば。
逃げるためでなく、この暗殺者から、園の子ども達を守るために。
庄部はスキットルを投げ、能力による精密動作で拳銃を撃つ。
庄部の膀胱の未来めいて容器は破裂!
キューバ・リブレのしぶきが少女へ降り注ぐ。
さすがの暗殺拳も無数の水滴はさばけない!
庄部は続いてマッチを擦り、投げた。
服が燃える恐怖は武術でも克服できない。その隙をつく作戦だった。
しかし、
「ひとつ」
少女は軽く踏み込むと、左右の拳を振るった。
右の手刀が空中のマッチの火を斬り消し、左の拳が庄部の胸を打つ。
「ふたつ」
少女の蹴り上げが、庄部の顎を狙う。
だが、『破局への疾走』で反射強化された庄部は爪先を回避、同時に少女の軸脚を払って転倒させ――
「みっつ」
しかし、少女もまた、鏡写しのように庄部の左脚を狙う。
蹴りの勢いのまま跳躍、庄部の足払いを空中で回避した後、右腕のみで倒立着地、左腕の薙ぎ払いで庄部の脚を崩したのだ。
庄部の加速神経はスローモーションのように少女の動きを捉えている。
が、少女の丹田より放たれたる和派英語の言霊暗示力により庄部は金縛りめいて体が硬直、避けられない! 尿意が危険! 膀胱臨界!
「三連――」
打撃から蹴りによる牽制、そこからの組みつき、崩し。
そして無防備になった庄部の体に、
「――破居合」
光速めいて掌打が三度叩き込まれる――!
『君の「一撃必倒斎」という呪いはこれで終わり』
『君に「市毛ひとみ」という祝いをあげましょう』
『人と会いなさい。拳を交え、友を見つけなさい』
『不安? でも、あたらしく生きなおすなんて簡単よ』
『なもないあなたらしさ。しがないあたしらしさ。あたらしさなんて、それだけよ』
衝撃と共に、少女の記憶が庄部へと流れ込む。
それは、暗殺者として散るはずだった少女の、解放の物語。
なんということはない。
目の前の少女は暗殺者ではなかった。
殺しの技しか知らないくせに、一人の命も奪ったことのない、ただの迷い子だった。
ならば、なんて勘違いだろう。
少女は、人質に取るために園のことを口にしたのではない。
心底、園の子どもたちと庄部のことを心配していたのだ。
「完敗だ」
庄部は自分が座りこんでいる場所を確認し、改めて実力差を理解した。
攻撃によって庄部が吹き飛ばされた先は、銀行のトイレの個室。
少女は庄部の能力と尿意限界を読み取り、尊厳が失われぬよう、配慮したのだ。
彼女を人質に取ろうとした銀行強盗を相手に。
「そ、その」
「なんだ」
「ま、またお会いできたら、友達に、なってくれませんか?」
「……考えといてやる」
「あ、ありがとうございます!」
庄部 我丸は銀行強盗の未遂で、逮捕され、実刑を受けるだろう。
「あたらしく生きなおすなんて簡単よ、か」
立ち去る少女の背中を見送り、庄部は呟いた。
なんと他人事で無責任な言葉だろう。
けれど、元暗殺者が、見も知らぬ強盗に手を差し伸べるお人よしになれるなら。
このろくでなしが立ち直ることくらいはできるかもしれない。
少なくとも、あのどこかネジのゆるい少女の友達だと、胸を張れる程度には。
庄部はズボンを脱ぎ、溜めこんでいた全てを解き放った。
鬱屈を押し流す、生まれてから一番爽快な、排尿であった。
庄部がこの「友達」の名を知るのは数日後。
――市毛ひとみ。
留置場のテレビで中継された、魔人闘宴劇予選参加者のインタビューでのことだった。