菅原 空海・エピローグ『鬼手仏心』/プロローグ『千載一遇』
菅原 空海・エピローグ『鬼手仏心』
いつからか。こんなに渇きを覚えるようになったのは。
「空海さん。いつかこんな日が来るかもしれない――来ないで欲しい。私は、そう思っていたわ」
黒のパンツスーツの女は、レンズ越しの目を細めて言った。立ち姿に一片の隙も無く、これから始まるであろう望まぬ戦いに、それでも戦う為の身体は自然と臨戦態勢をとる。
「鎮さん。私はこの日を待って、待ち続けて――いました」
対峙するのは、墨色の作務衣に身を包んだ大柄な少女。背筋を伸ばし凛とした立ち姿は、180cmを超える上背以上に威圧感を感じさせた。
「あなたは、あの大会に関わるべきでは無かった。恨まずにはいられないわね……『魔人闘宴劇』なんていうバカ騒ぎも、願いに惹かれて大海へ漕ぎ出した貴方も、そして何より、それらを見過ごした自分の愚鈍さも」
「私は感謝しています。あの大会は私に、夢も、現実も、私が思えばその掌中に在ると教えてくれた」
ニィ、と空海は表情を崩して、歪に笑った。鎮は息を吐き、雑念を払う。
「いいでしょう。ここから先は、一書家として」「ええ。書き潰し合いましょう」
向かい合うのはいずれも書家。ぶつかり合えばどちらかの筆は折れるが道理。
「日ノ本習字会・師範代級、『文野 鎮』」「流派無し・段位無し、『菅原 空海』」
鎮は両腕をだらりと下げ、ゆっくりと身体の前へ持ち上げていく。空海は拳を握った右腕と右足を前に出し、半身に構えて眼前を見据えた。
「「……書 道 解 放!!!」」
互いの筆力が熱を吹き、現の空気は澱んだ虚へと塗り替えられる。その筆先の描く軌跡は、二人以外に知る者も無く――
~ ~ ~ ~ ~
菅原 空海・プロローグ『千載一遇』
まだ肌寒さの残る早朝。空海は目覚ましのベルを1秒で止め、擦りガラスの張られた戸を開けた。雲に覆われた空と霧の煙る地上の様子に、一寸、彼女は世界から取り残されたような思いがした。
「ふ、はぁ」
空海はのろのろと文机に向かい、姿勢を正す。墨を磨り筆を握れば、見習いとて彼女も書家――意識は醒め、腕はコンマ数ミリの誤動作すら許可しない精密機械と化す。
「んー。よし」
起床時と就寝前の書写は、いつの日からか彼女の日課となっていた。心を消し、手本通りの字を半紙に書く。自分一人だけで己の書と向かい合うこの時間が、彼女は嫌いではなかった。
「……よし」
日課を終えた後に、空海は朝食の支度をしに台所へ向かう。文机に残された半紙には『静』の一字が、均整のとれた姿で佇んでいた。
朝食と日々の家事を終えれば、空海とその師・菅原 弥勒は道場へ向かう。空海と同年代の子等は学業に勤しんでいる頃だが、彼女はその道を選ばなかった。
『角度』『打ち込みが雑』『力入りすぎ』『朱見えてる?』『成長度合いは胸部といい勝負だな』
言葉の無い空間で、弥勒によって次々と朱色の文字が入れられる空海の書。音を発さぬ罵詈雑言の嵐に耐えていた彼女だったが、最後の言葉は看過できず、手に持った筆を投射し師の顔面へ突き刺した(あまり知られていないが、これもまた書の技法の一つである[要出典])。
そして、昼前迄にそれらの指導――畳上書写を終わらせた後、同じ道場で続けて六書武闘の鍛錬へと移る。こちらの時間は、空海も弥勒にやられっぱなしではない。弥勒の『牙』を『甲』で受け、『炎』は距離を調整しながら『風』で返す。
(今日は読みが冴える。でも――)
空海の技量が増しただけではない。弥勒の身体は、全盛期とは比較にならない程に衰えていた。老獪な妙手でごまかしながらやってきた空海との真剣勝負も、今や六対四で空海の分が良い。午後三時になろうかという所で、その日の鍛錬は終了した。
「……師匠。書道解放は」
「今日はナシだ。多少間を空けにゃ、身体が持たん」
そう言って背を向ける師に一抹の寂しさを覚えながら、空海は愛機のスーパーカブに跨り山向こうのショッピングモールへと向かう。霧は幾分晴れていたが、鉛色の空は相変わらずだ。
(今日は……肉じゃがにしよっか)
がたつく道路に苦戦しながら、人の居ない道をひた走る。早朝、彼女が覚えた疎外感は、年頃の乙女が思いを馳せるセンチメンタリズムとはまた少し異なる。
この村は、数年のうちにダムの建設工事によって水底へ沈む。それは現実に約束された、一つの世界の未来だった。
「~~♪」
その未来に抗うものは既に居らず、村に留まるのも今や空海と弥勒、他数名の老人のみ。そして空海自身、それが自分の行動でどうにかなるとも、どうしたいとも思っていなかった。
例え村が無くなろうとも、住む場所が変わるだけ。師と書、それに最低限の衣食住さえあれば、それで死ぬまでは生きられる。それで良い。
『……さあ、CMの後は、かわいいラッコの様子を……』
買い物かごを携え、夕餉の材料を調達する空海の視界の端に映った、ショッピングモールの巨大なテレビ。
”――魔人闘宴劇。望む未来を、その手に掴め。”
……良かったはずだった。天より垂る糸、それに気づきさえしなければ。
~ ~ ~ ~ ~
「菅原 弥勒の名前は、君も知っているね」
師範級の一角を成す男が、眼前の私に問う。
「……はい。かつての書界の三悪と言えば、厭でも耳には入ってきますよ」
「どうやら、その菅原の娘――養子のようだが、それが表舞台へと出てこようとしている」
「娘、ですか」
「君にはその監視をお願いしたい。場合によっては最終的な処置の判断まで任せる、できるね」
「ご用命とあらば」
私は男からデータファイルを受け取り、頭のページに目をやる。
(……綺麗なコね)
写真に写った少女。余計なモノを削ぎ落としたその表情に、私は数秒呼吸を忘れて見とれていた。
ねえ、空海さん。
あなたは随分と、人間らしくなってしまったわね。
~ ~ ~ ~ ~
早朝、空海が朝食の支度を始める。外の霧は晴れ、雲間から数本の光が斜めに差す。
文机には、所々に力の入りすぎた『夢』という字が、堂々と鎮座していた。