プロローグ(ローレン・クロート)
『カフェ・テロメア』。
金沢のカフェでアルバイトをしている鬼月沙良と出会ったのは、彼女が14歳の時だった。
彼女の凡庸さは今でも印象に残っている。
早くに家族を亡くし、親族の経営するカフェに住み込みで働くことになった少女。
私は彼女に一枚のレコードを渡した。
それが、私にとってはじめての仕事だった。
仕事の内容は『アルマン伯爵』が所有していたレコードの返却。ただし、彼女が"相応しい人"かどうか、十分吟味すること。
鬼月沙良はレコードの本来の所有者、鬼月栞の孫だ。だからレコードの所有権は彼女にあった。
しかし、何しろ財団の蒐集品は即ち奇品珍品の宝物庫。曰く付きの物品や触れれば死ぬ呪物まで、ありとあらゆる『危険物』が揃っている。
そのレコードとてただのレコードでなく、常人に扱える代物でないことは明らかだった。
なので、私は彼女にレコードを渡すと同時に審査期間を与えた。
レコードが本当に相応しいかどうかを判断する時間だ。もし彼女自身が相応しくないと思ったのなら、いつでも連絡して欲しいと、そう付け加えた。
それで良いのかと尋ねる彼女に、私は財団の掲げる設立目的をそのまま言った。
「我々は法律にも倫理にも縛られない。
唯一の行動原理は僅かな善意と個人の正義。
偉大な祖父が盗人や詐欺師などではない、という証明の為だけに、要らなくなった物だけを返却するものである。」
要はレンタル期限の過ぎたDVDを我が物顔で返しに向かうのが、我々子孫に課された義務だ。
私の仕事は祖父の蒐集品を持つべき者に渡すこと。そこまでが仕事で、どのような渡し方でも構わない。
その後、相応しい人が幸せになろうが不幸になろうが、私の責任ではないのだ。
ただ一つ、忠告は与えた。
そのレコードは再生しない方が良いと。
— — — — —
あれから2年。
私は『返却者』さんに件のレコードを引き取ってもらう事にした。
アレはもう、私に必要ではない。
かつて凡庸だった私は、今も平凡なままだ。
突然渡された祖母のレコードは、思いがけない家族との繋がりになった。でも、それで私自身が何か変わったことはない。
ただ、今はそれに変わる新しい歓びを見つけられた。それだけだ。
「あれほど忠告をしたのに、貴女はレコードを聞いてしまったのですね」
私の淹れたスペシャル・ブレンドを飲んでから、ローレン・クロートさんは流暢な日本語で、そう口にした。
整ってない身だしなみ。なのに隙一つない不思議な佇まい。クロートさんは私と同じく何も変わってない。
「…はい」
「そうですか。ああ、人の好奇心は抑えられないものです。ましてや祖母の形見なら尚更だ」
「…咎めないのですか?」
彼の口調からは私に対する非難は感じ取れなかった。
「咎ならもう受けたはず。今も貴女は『カフェ・テロメア』から出られない。違いますか?」
「…はじめて聴いたのは、クロートさんが帰ったすぐ後でした。中身は19分間の雑音。それからすぐに気が付きました。このカフェの外に出られないことに」
それだけではない。例えばカフェの内装が新しくなった。
それに、物を動かしても、すぐに元の位置へ戻ってしまう。まるで予め配置が決められているかのように。
このレコードが祖母の能力だと気付いた時には遅かった。
「『カフェ・テロメア』は短命だった鬼月栞の人生経験そのものが記録された能力だ。嘘か真か、鬼月栞は生まれてから死ぬまでこのカフェで過ごしていたらしい」
「つまり私は、祖母の人生そのものを追体験していたんですね」
私は祖母の人生が終わるまで、この『カフェ・テロメア』の効果範囲から出られない。
それが祖母、鬼月栞の能力『カフェ・テロメア』だったのだ。
「魔人能力は本体が死亡しても解除されない時がある。業界では『死亡非解除』と呼ぶそうですが…果たしてレコードの19分に何年分の人生が」
クロートさんが口から黒い液体を吐き出したのはその時だった。
私は傾いた三日月みたいに口を歪めた。
— — — — —
はじめて会った時から鬼月沙良には見込みがあると踏んでいた。
切り揃えられた髪。白いセーターにジーンズ。そして今は、両手に携えた猟銃。
「逆に感謝しているんです。こうなれば、親戚にたらい回しにされることもないじゃないですか」
私の吐き出した黒い液体——沙良さんの淹れたスペシャル・ブレンドは、今や人型のモンスターとなって私にバックブリーカーを仕掛けていた。
『カフェ・テロメア』の効果ではない!!これは沙良さん自身の魔人能力だ!!
「『スペシャル・ブレンド』がお口に合って何より…私のコーヒーは、ほら良くあるじゃないですか《その人に合わせた最も相応しいコーヒー》…その真逆です」
「つまり…私の今の状態は!」
「ご明察です…私の淹れたコーヒーを飲んだお客さんは《最も似合わない行動をしてしまう》!クロートさんのコーヒーにブレンドしたのはカルダモンとビネガー…」
似合わない行動…なんてことだ!
私は今、柄にもない行動をしたくて堪らない!
それは《魔人闘宴劇に参加する》か《さもなくば猟銃で自殺》したい気持ちだ!!
「カルダモンには戦いを求める成分がっ!ビネガーには自殺したくなる成分が含まている!そしてクロートさんに勝って私は魔法使いのようなバリスタになってみせる!」
「沙良さん。ローレン・クロートが義務を果たすのは余暇のためだ。余暇に生きるためなら命を懸けてやる。それがフランス人ってヤツだ!」
「はっ!?」
「私は『虚飾の剣聖』を既に置き去りにしているーーー!」
沙良さんが気付いた時には、私は既に黒色のモンスターの拘束を脱し、厨房にいた。
いや、正確には最初から私は厨房にいたのだ。
手に取ったのはカルダモン。戦いを求める成分が含まれている。これを大量に摂取することで、ビネガーの猟銃自殺したい気持ちを上回らせる。
「ご馳走様。今までそこにいた私は"思い込み"さ。だが良いだろう…敢えて魔人闘宴劇に参加する余暇も悪くない!猟銃自殺は、ゴメンだがな。」
「正解よクロートさん…やはり、私の見込んだ通りのフランス人ね」