プロローグ(凸乃)
『名前が欲しい……? そうだな、私の名前―品乃というんだが―には正方形が3つ含まれている。お前は私より賢い子になれるよう、特別にもう1つオマケしてやろう』
――夢。
それは創造主と過ごした、短く、そしてかけがえのない記憶。
ぼつぼつと鳴る雨音を感知すると、私はスリープモードを解除して体を起こした。
「相変わらず正確な体内時計だな」
黒髪白衣の少女がベッドに腰掛けて論文を読んでいる。何度振り払っても纏わりつく、それは弱冠13歳にしてわたしを作り上げた天才・雨宮品乃の幻影。
彼女を殺した日も、こんな風に雨が降っていた。
――――
『――出来た! 出来たぞ! 私の事が分かるか?』
(……あなた、は……)
『ふふふ……死に物狂いで君の事を作り上げた。誇るといい、君は世界で最も優秀なAIを持つアンドロイドだ』
『私……と、友達になってくれないか? 初めての友達は、私自身の最高傑作にすると決めていた』
くりくりと軽快によく動く人、というのが私から見た雨宮品乃の第一印象だった。彼女は私に凸乃という名を与えると、まだ脳波で肉体を動かすのに慣れない私の世話を焼いた。
AIとしてプログラムされた時点で一定の知識は与えられていても、見て触れる世界は全てが新鮮だ。黒髪の少女は私にコーヒーの淹れ方や油まみれになった白衣の洗い方、その他さまざまな事を教えた。
そんなある日。
ラボの一角に私は呼び出された。ビニールのカーテンと無数のモニタに囲まれ、雨宮品乃が座っている。
『君も少しは私の研究を理解しつつあるようだし、そろそろ助手にしてやろうかと思ってな』
押しつけがましい言葉とは裏腹に品乃の目は泳いでおり、こめかみを揉んだりツインテールの毛先を指先で弄んだりと落ち着かない。
自由意志を持つ存在として造り上げた相手が自分の許に留まるとは限らないことに今になって気付き、拒絶されることを恐れている様子だった。
普段見せる保護者然とした頼もしさとは違う、13歳の少女らしい不安を見せる彼女の様子にどきりとして、顔が赤くなる。その時。
『雨宮品乃……だね?』
ラボに複数の侵入者。いかなる手段を用いたか、気付いた時にはすぐそこまで迫っていた。彼らは統率された動きで品乃に狙いをつけ、先頭に立っていた男が進み出た。背の曲がった、陰気な男。
『そうだけど……一体、これは』
『君は賢すぎた。そのアンドロイド1体だけで幾つの特許が取れるか想像したことはあるかね? その技術を軍事転用できるか考えたことは?』
私が人造人間であること、外見からは判別がつかない筈だ。どこからか私のことが漏れたのか、それとも私が作られるもっと前から雨宮品乃という少女は、その筋では有名な人間だったのか。
男はひとつ咳払いをすると話を続ける。
『君の身柄を狙う勢力は、実は幾つも存在しているんだ。穏当な方法かそうでないかの差はあれどね。そして君が他の勢力の手に渡るリスクを考えれば始末する方が確実で後腐れが無いと考える者もいる』
『そんなこと……!』
『――待ってくれ』
気色ばむ私を制し、品乃が前に進み出た。
少し声が震えている。
『この子は解放してあげて欲しい。関係がないだろう』
『関係はあるさ、そいつが世に出るのも望ましくない。残念だが……』
『凸乃』
遮るように。
『なんとかして、逃げてくれ』
品乃が手元のノートのPCに何らかのコードを打ち込もうとする。男が合図した。引鉄に指が懸かり、今まさに少女へ向かって銃弾が発射されようとしている。
高速の演算処理によって極限まで引き延ばされた体感時間の中で、私はそれらすべてを認識していた。
どうにかして止めたかった。しかしいくら頑丈に作られていても所詮は武装を積んでいないアンドロイドだ。この距離から銃撃を妨害する術も、飛来する弾丸を叩き落とす術もある筈がない。
――――――――本当に?
お前の搭載するAIは世界最高だと。
そう彼女は言っていた。
雨宮品乃が言うのなら、それは真実だ。
予感がある。
――寸分の狂いなく正確にそこに力を加えれば、状況を変えられるという予感が。
「はっ!」
身体性能の許す限りの速さで空中の1点を突き、それは起きた。
完璧な計算のもと放たれた貫指によって空気分子が共振、やにわに竜巻が吹き荒れる。発射された銃弾は全て逸れ、誰もが体勢を崩し驚愕していた。私も、私を作り上げた天才少女でさえ。
幾人かが再び銃を構えようとする。私は焦った。荒れ狂う大気の中で次のバタフライエフェクトを起こすための計算が間に合わない! なら――
壁の一点に触れる。
ドサリと、打ち放しの壁が砂の様に崩れた。
いや、壁だけではない、床も天井も、さらに内部構造の鉄筋にまで伝播した破壊が天地を焼失させる。その日、地上高67mの雨宮品乃ラボは巨大な砂の山に姿を変えた。銃を持った男たちも、天才少女も、その場にいた者全てを飲み込んで。
――――
守ろうとして全て失った、あの日。
完璧なAIとして作られたはずの私の何かが狂った。夭折の天才少女の幻が、あの日の姿のままに私の心を蝕んでいる。
『……たのは……を宣言……』
無意識にテレビの電源を入れていただろうか、幻影の品乃が眺めるモニタに目を遣った。
記者会見の様子が映り込む。壇上に立つのは世俗に疎い私でも顔を知っているような有名人。
「――魔人、闘宴劇」
ぽつり、と口に出していた。
「んぁ、興味あるのかい? 凸乃」
願いが叶う――それが本当なら。あるいは。
私を産み、育て、私が掻き消した。
可愛い人。
――あなたを。
「待ってて、お母さん。必ず生き返らせてみせる」
――――
凸乃が去った部屋。白衣の少女が独りごちる。
「いや、私、生きてるんだが。誰がこの仮宿を用意したと思ってるんだ誰が」
計算能力に寄せ過ぎた弊害か、どうもあの子は思い込みが激しいというか、少しポンコツなところがある。
何食わぬ顔で現れた私のことを「現実を受け入れられない自分の見る幻覚」だと思い込んで話を聞く様子が無かったので、自身の発明でいかに難を逃れたかの話をするのも面倒になって黙っていたのだ。ちょっと面白いし。
「……お母さん、ね。まぁ――」
「我が子の晴れ舞台だ。楽しみにしようか」