パレスチナ問題民族対立の構図
ユダヤ人(ユダヤ教) vs アラブ人(イスラム教)
つまりは椅子取りゲームですね
一世紀にキリスト教の全盛に伴い、パレスチナ(地名)にあったユダヤ教の聖地「イスラエル」から追い出された流浪の民ユダヤ人はその後世界中を転々としているうちに「帰る国がない」という状況が生まれてしまった
これは日本人にとっては想像もつかないことですね
世界各地に離散して細々と生活を営んでいたユダヤ人は、十九世期末にシオニズム運動といってパレスチナに帰ることを目指す運動を始めました
そして1897年にはついにシオニスト会議が開かれます、ユダヤ人国家二千年来の復活の道は開かれたかのように思われました
しかし勿論パレスチナという土地は当時イギリスに牛耳られていました
シオニズム運動によりイギリスと交渉したユダヤ人たちはついにユダヤ人国家の樹立の約束を手に入れました!(1917年、バルフォア宣言)
しかし、実はその前年にイギリスは他の列強とパレスチナの国際管理の協定を結んでおり、(1916年、サイクス・ピコ協定)、更にその前にはパレスチナを含むアラブ地域の独立をアラブ人らとしていたのです。(1915年、フサイン=マクマホン協定)
このイギリスの無責任な外交がパレスチナ問題を産みました
結局ドイツのホロコーストが始まり、ユダヤ人国家の樹立は切羽詰まったものになります
第二次世界大戦が終わり、一段落した所でついにパレスチナにユダヤ人国家イスラエルが建設されました。
しかし、それは既にそこに住んでいたパレスチナ人を排除することでもありました
そうして両者の対立が生まれたのです
ヘブライ人にとっては神託の地カナーンであるイスラエルに住むことは当然であり、何よりこれまで二千年も耐えてきたのである
しかしアラブ人であるパレスチナ人にとっては列強にペコペコしながらパレスチナという二千年間土地を守ってきたという事があります。
このいざござによって、あの中東戦争は発生しました
アメリカなどはユダヤ人とイスラエルを支援し、(大体重役にユダヤ人が多いのです)パレスチナ人と真向から立ち向かったのです
周辺のアラブ諸国はパレスチナ側に参戦し、そして戦争が起き石油価格が高騰するわけです
イスラエル軍による弾圧とパレスチナ人の抵抗運動:インティファーダが続きます
和平交渉も数s目られたのですが結局の解決には成ってませねんね、イスラエルは基本的に強行的な姿勢を見せ、ヨルダン川を境に分離壁を造ったりもしています
最近では2010-2011年にエジプトなどで独裁政権の崩壊を引き起こすほどの民衆運動が頻発し(アラブの春)、アラブ系国家であるパレスチナはそれを受けて国連加盟を試み、結局国連オブサーバー国家となりました
それを受けてイスラエルへの圧力は強まってるわけです
ちなみにユダヤ教の教えはユダヤ人しか救われないとしていたので迫害されたんですね、
ちなみにユダヤ人は正式にはヘブライ人と言い、だからほら、ギリシャのヘレニズムに対してユダヤ~キリスト教の文化をヘブライズムっていうでしょう。
参考図書としてはイザヤ・ベンダサンのユダヤ人と日本人でも読むと良いんじゃないでしょうか
用語集
- シオニズム運動
- シオニスト会議
- フサイン=マクマホン協定
- サイクス・ピコ協定
- バルフォア宣言
- パレスチナ解放機構(PLO)
- アラブ石油輸出国機構(OAPEC)
- エジプトイスラエル和平条約
- パレスチナ独立国家樹立宣言
- パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)
- パレスチナ自治拡大協定
- シャロン政権
- 新和平案(ロードマップ)
- ガザ地区
- 国連オブサーバー国家
- インティファーダ
- アラブの春
最終更新:2016年04月21日 22:17