アプラニ=クン=サプニャーシ=サンシャンマヒャパ=イ=テルミ=シャ=ヤス=ラーチ
aplani-kun-sapnia^sh-sanshammalhapa-i-telmi-sha-ias-la^ch
生年月日 |
1678年6月2日 |
出生地 |
ヴェシパ ハニポーグ |
没年月日 |
1767年10月19日 |
死没地 |
ジャフーグ サイユサクラーチ |
所属政党 |
中道カーリチ党 |
次代 |
ジェナウ |
前代 |
ダガイユル |
出身校 |
スヤーダ=カーリチ宗教学校 |
前職 |
スヤーダ=オラム長 |
称号・別名 |
タフラ (おじいちゃん) シェムーディエ=クイール (アンドロイド師匠) OLMI43 |
アプラニ=クン=サプニャーシ=サンシャンマヒャパ=イ=テルミ=シャ=ヤス=ラーチ(
檀語:
aplani-kun-sapnia^sh-sanshammalhapa-i-telmi-sha-ias-la^ch)はシンテーア暦18世紀のニーネン=シャプチの政治家。思想家。カーリチ教のオラム(宗教指導者)。ガールン暦3657-3673年(シンテーア暦1748-1755年)には第53代星衛主席として
マーカス内戦及び
アクース内戦後の国内経済の安定化や国際関係の改善に力を注いだ。
生涯
幼少期
ヴェシパ郊外の居住区にて生まれる。両親はトレミェの敬虔なカーリチ教徒であり、サグヌーチ系コミュニティでオラム(神官)をしていたこともあり、サンシャンマヒャパも信心深いカーリチ教徒として育った。
地球年齢3歳頃から宗教学校に通い、6歳頃からは宗教学校以外の時間は狩猟セクターと水耕式農場セクターの間を行き来するような純朴で活動的な少年時代を過ごした。
オラム見習い
14歳頃から両親の勧めでオラムの見習いになるための試験を受け、無事合格した。合格者の中では平均的な点数だったが、年齢が低かったこともあり話題になった。宗教学校で当時のオラム、ワイヨー師に師事しながら、学問を修めた。
17歳頃、敬愛するワイヨー師が老衰のため死亡した。悲しみに暮れたサンシャンマヒャパだったが、彼に同情、あるいは評価していたワンタイ(オラム教会)のオラムたちは彼をワイヨー師の後任オラムとして推薦した。
若きオラムとしての日々
サンシャンマヒャパはオラムになった後、宗教学校の教え子たちと共に水耕農場で作物を育てたり、狩猟セクターで狩猟を行ったりと自然派のオラムとなった。当時の高度ロボティクス時代でしばしば話題にされたアンドロイドのことに関しては教え子にとやかく言うことはなく、沈黙を貫いた。
一時期、3歳下の女学生とお互いに惹かれあう関係になったが、オラムの戒律として教え子と恋仲になることは禁じられていたため、女学生を違うオラムにするようワンタイに依頼するなどした。
政界への進出
その後もオラムとしてサンシャンマヒャパは政治とは無縁の生活をしていた。しかし、これは当時のオラムとしては珍しく、当時オラムは宗教家としてだけではなく時事的な問題について言及するためにある程度の政治的発言力があった。
26歳頃に
中道カーリチ党の党員に誘いを受けた。それに対して、「自分にはオラムという使命があるから、君たちには協力できない」と断ったサンシャンマヒャパだったが、党員のしつこい誘いで仕方なく党の会合に出席することとなった。そこでサンシャンマヒャパは自分が党に誘われた理由が「
ロボティクス問題に対して中道な思想のオラムが必要だ」ということを知り、納得した。
次第にサンシャンマヒャパは
ニーネン=シャプチの国内世論の過激な論に対して中道思想の必要性を抱くようになり、政治家としての道を目指し始める。
政治家時代
政治家時代のサンシャンマヒャパは、政治家にも関わらず仰々しい表現を使わず、口数少なく要点だけを述べた。周囲の党員たちは演説の才能について心配したが、美辞麗句を並べ立てる当時の政治家に辟易とした民衆の心に刺さる演説ができたサンシャンマヒャパは瞬く間に人気となり、中道カーリチ党の支持点は急上昇した。
星衛主席として
ニマエラ・ストラメウトの亡命を承認し、ニーネン=シャプチが
ゼラエ派の源流として
マーカス内戦戦後の国際社会への発言力拡大に貢献した。
機械市民権法を制定し、
アイローム社製、
リヴァダー社製問わず国内の全てのアンドロイドに対しての権利を保障した。これは人間としての権利ではなく、人間と同等の知的生命体としてのアンドロイドとして初めての
機械市民権を保障する法律となった。このために憲法改正を行い、1751年に
サンシャンマヒャパのユーネン憲法を公布した。
1749年には
ロフィルナ連邦共同体との
双胴船協定を締結。国内の保守派からは歓迎されたが、この件に対しての評価は中道カーリチ党党内や国内世論では意見が分かれた。
一方で経済政策については
シャグマ=ラゴン開拓地政策が注目された。1751年にサンシャンマヒャパは
プルームダール=オルモン協定を締結し、開拓地の経済活性化、ロフィルナとの経済・技術的結びつきの強化とクローン技術の標準化を強調した。
サイユサクラーチ暗殺事件
星衛主席引退後の1767年にオラムの巡礼のために訪れた
ジャフーグ北東部の
サイユサクラーチにて
招民院諜報機関"サナト"の工作員に暗殺される。司法解剖では暗殺に使用された凶器は
ジエール製の
13式光刃であると断定された。
主な功績
- インフレ化が進んでいた戦後経済の安定化
- ニマエラ・ストラメウトの亡命を承認
- ゼラエ派の旗揚げ
- 機械市民権法の制定
- 機械市民権の保障
- サンシャンマヒャパのユーネン憲法
- 双胴船協定
- プルームダール=オルモン協定
- マーカスのアイローム系アンドロイド人種の難民受け入れ(賛否両論アリ)
- ヴァルエルク共和国、エルトリア王国との国交正常化
人物
おせっかいを焼かずにはいられないめんどくさいおじいちゃん。ためになることも言ってくれる。
喋る速度がめちゃめちゃ遅いので、急いでいる時は逆に困る(本人に悪気はない)。
性格はとても温厚で滅多に怒らない。怒るときもどちらかと言うと困惑している感じ。
よく会う若者には
プルゴー・シャ=ウマンをくれる。
あんまり昼寝はしない。意外とゲームが強く、子供でも手を抜かず全力でボコしてくる。若い頃はアマチュアゲーマー界で「
OLMI43」のユーザーネームで知られていた。有名ゲーマーの
シャ=ファウチャプガリェプネンチ=サリエの師匠。
交友関係
トレーミャナルチ
トレーミャナルチは
ニマエラ・ストラメウトの亡命を手引きしており、彼女の説得を聞いて感激したため、亡命を受け入れたという逸話が残っている。その後もサンシャンマヒャパはトレーミャナルチと何度か宗教問題について論ずる対談をした。サンシャンマヒャパ曰く、「彼女は普段こそトリックスターを演じているが、本性は慈悲深く心優しい人物であり、宗教指導者にならなかったのが勿体ないとすら思う」とベタ褒めしている。また、会う度に
プルゴー・シャ=ウマンをあげていたが、毎回断られていたという。
シャミー
シャミーとはカーリチオラム時代からの師弟関係であり、長い付き合いだった。シャミーが一時期グレてセクシーな服を着ていた時は、「腹や肩を出しているとマゴン(悪性のオルミ)がつくからしまっておきなさい」と(まるでおじいちゃんのように)諭していたという。
なお、このエピソードがきっかけで星衛主席在任中に「
タフラ(おじいちゃん)」とあだ名されるようになった。
オルモン
リューグ=クン=ジャハン=オルモンはサンシャンマヒャパ参事会の招民担当官であり、サンシャンマヒャパの弟子の一人であった。オルモンは普段は謙虚だが、金が絡むととたんに守銭奴のようにがめつくなるので、サンシャンマヒャパはよく「お金の周りにはマゴン(悪性のオルミ)がつくからほどほどにしておきなさい」と(まるでおじいちゃんのように)諭していたという。
この話はサンシャンマヒャパのおじいちゃんエピソードの一つとして語られる。
関連項目
最終更新:2022年07月01日 02:22