ライエンジャルチ=ファイグトータ=ニャンクタルヒュ
raienjalch-fairrtouta-niangktallh
生年月日 |
未定 |
出生地 |
ジャフーグ クラフナン地方 マグノーグ |
没年月日 |
- |
死没地 |
- |
所属政党 |
ナイユシ=ハウム党 |
次代 |
デーチェー |
前代 |
タルノー |
出身校 |
大シャプチ大学 ファウ分校 |
前職 |
大シャプチ大学准教授 |
称号 |
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配偶者 |
今のところなし (募集中) |
親族 |
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ライエンジャルチ=ファイグトータ=ニャンクタルヒュ(
檀語:
raienjalch-fairrtouta-niangktallh)は
ニーネン=シャプチの政治家、研究者、准教授。第38代星衛主席として1626年から1631年の間務めた。ニャンクタルヒュ政権は
ダロン=ファムイ、
クヌージェ=イレ=タルノーに次ぐナイユシ=ハウム党三回目の政権として在任した。
生い立ち
幼少期
ジャフーグのファウ近郊のマグノーグ生まれ。両親は平民階級の出身で、外出が好きなよく気が利く子供だったが、泣き虫で繊細な一面もあった。
学生時代
マグノーグの高校に通う。元々気が利く一面があったために男子に好かれることもあったが、告白されたことは一度もなく、恋愛経験はない。高校では秀才ではあったが何か個性を発揮しているわけでもなかったため、そこまでスクールカーストは高くなかったが、頼みごとを断れない性格だったために友人からは好かれており、楽しい学生生活を送った。しかし、特にやりたいことが見つからず、卒業と同時期にたちまちふさぎ込んで無気力状態に陥ってしまったため、2年間の引きこもり生活を送る。よく高校時代の友人たちに励まされていたが状況は一向に良くならず次第に友達はいなくなった。何度か自殺しようと試みたが全て未遂に終わった。
大学時代
2年間引きこもり生活を送った後、猛勉強を始め、1年後に大シャプチ大学ファウ分校の政治学部に入学する。そのまま大学院に進学し、そこで国際融和論の研究のため同学で准教授にまでなる。
准教授時代
そこから何本か論文書いたり学会で発表したりしながらナイユシ=ハウム党への入党。
政界の道へ
ナイユシ=ハウム党の議員になったニャンクタルヒュは自身の研究者キャリアを生かして、ニーネン=シャプチは精密機械工学がレーウス諸国と比較して低いことに着目し、ジエールとの友好関係を強化することで国家規模の技術力向上政策の実行を主張。議員として精力的に活動し、「研究力と外交力の両立」を論点の軸に据えた研究費の拡大と研究系スガイユン助成金の交付を公約に掲げた。
ちょうどニーネン=シャプチの世論はレーウス諸国との国力を比較し低いことを懸念する声が多く、ニャンクタルヒュは研究者出身であることで説得力があり注目の的になった。対抗馬は国民経済党の候補だったが、スガイユン解体を公約に掲げており実現可能性が低かったことや世論が経済格差の拡大を憂いたこと、タルノー政権から続く物価上昇に拍車を掛けたくなかったことからニャンクタルヒュが星衛参事会選挙で一番人気になった。
こうした経緯でニャンクタルヒュは星衛参事会選挙では圧勝とも辛勝とも言えない普通の勝ち方で星衛主席に当選した。1626年の出来事であった。
星衛主席として
就任直後には実行力を世間に示すため、ニャンクタルヒュは自費で自分に
第二世代不死技術を適用。
しかしこのパフォーマンスに国民は賛否両論だった。というのも、当時のニーネン=シャプチの宗教的道徳観では「
エシュトとして生まれ、エシュトとして死ぬ」ことが当たり前の価値観だったからである。
ニャンクタルヒュの支持者は「
変革というのは最初のうちは大多数に認められないからこそ変革なのだ。 ニャンクタルヒュには常識を変える実行力とその覚悟がある」とニャンクタルヒュを擁護した一方で、「
本当は誰だって死にたくないはずで、不死技術は一般市民が購入できるほど安くはない。 これでは富裕層ばかりが無限の寿命を得て、我々平民はすぐに死んでゆく。 こんなのは不平等だ」と平民階級以下を中心に反対意見が噴出した。
反対意見を受けてニャンクタルヒュは「
私の任期中に成し遂げることで、平民階級や貧民階級の皆さんにも必ず技術立国の恩恵を受け取って欲しいと思っています。 不死技術を購入したことはこの命をエフューラフトに決意のためでもあります」とコメントしたが、就任2ヶ月(Sint.)の支持点調査では就任当初に比して明確に下落していた。
ニャンクタルヒュ参事会は1627年から本格始動し、ファーストコンタクトである
シ=ギーラム事変以降
ジエールとの関係修復に取り組み始めた。ジエールの
ケルスト主席を惑星ジャフーグの都市マグノーグで会談しようと招待したが、関係が十分でないとして全権同士での会談になった。
ニーネン側はジエールの技術力を欲していたが、ジエール側に提案できる内容が少なく、あったとしてもあまり冴えない内容であったため、この会談はニャンクタルヒュ参事会にとってあまり良い収穫とは言えなかった。
シンクタンク系スガイユンは数ヶ月後に、ニーネン側としては軍事同盟を視野に入れた安全保障政策(拒否された場合は片務的独立保障)を提案する手筈だったが、会談直前になって招民院軍部上層部の猛烈な反対に遭い、代案としてジエールの組織をジャフーグの農村に誘致して工業地帯を造成することも検討していたが枢密院の猛烈な反対に遭ってしまってジエール側に外交提案できる有効な切り札を用意することに失敗したのが微妙な結果を招いた原因の一つだであると分析し報告書を公表した。
1629年には星衛評議会で軍事力不足を指摘され、ジエールとの合同軍事演習を企画。しかしレーウス・ニーネン間の航路整備が十分でないことを理由にジエール側にあっさり断られてしまう。
ニャンクタルヒュは諦めてプダージ艦隊の再編成計画を初めた。
1630年、国歌選定プロジェクトが完了し候補曲の3曲を決定する有識者会議が開かれる。この時、有識者会議には元星衛主席の
タルノーが参加していた。ニーネン=シャプチの国歌
愛国シャプチ行進曲-いざ大いなるスワーシャカーチェよ-が制定される。
国歌が正式に発表され、国歌を気に入った国民たちの支持を少し取り戻したおかげで、支持点が少し回復した。
しかし1630年の末頃、国民の間でニャンクタルヒュの支持が拮抗し反ニャンクタルヒュ派が先鋭化。各地でヘイトスピーチのデモが行われ、ネット上でニャンクタルヒュ主席に対して殺害予告をした男性がエフューラフト秩序維持法違反で逮捕されるなど、国内に不穏な空気が漂い始める。
1631年13月頃、ニャンクタルヒュ暗殺未遂事件が発生。プダージの艦隊編成セレモニーに出席し演説中のところを、刃物を持った男性が壇上に闖入しニャンクタルヒュを刺殺しようとしたところ、ニャンクタルヒュ主席に近づく前に察知した周囲の護衛や政治家がなんとか取り押さえることに成功。ニャンクタルヒュは幸いなことに無傷だったが、この一件でPTSDに罹り4ヶ月後に辞任。
国外への逃亡
ニャンクタルヒュはいつか自分が殺されるのではないかという強迫観念に取り付かれて食事が手につかなくなり、たまに癇癪を起こすようになる。周囲の人々はこれを心配し、国外での生活を計画するようになる。
ジエール帝国連邦に移住する。
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関連項目
最終更新:2022年06月15日 10:48