チュウの瞑想

         チュウの瞑想
 チュウの瞑想では、たいがいの人が最も大切なものと考えて執着している自分の身体を供物にささげる。一番執着している持ち物をささげてしまうわけだから、ほかのどんな供物にもまして、それがもたらす効果は絶大である。始まりとてない遠い昔から、わたしたちは自分の身体というものに執着しつづけてきた。それは誤った自我の意識を生みだす最大の原因となり、大きな苦しみをつくりだしてきた。チュウの修行は、自我をつくりあげるもとになる自分の身体のイメージをうちくだくことによって、一気にこの苦しみの根を断ち切ってしまおうとする。


 まず中央管のちょうど胸のチァクラの位置に光の雫【しずく】を想像しなさい。この光滴は、中央管の下のほうから吹きあげてくる《風【プラーナ】》によって支えられている。この光滴の上には、恐るべき姿をした黒いダキニ「マチク・トゥマ・ナクモ」(マチクはチュウ派の祖である女性密教行者マチク・ラプドンマ、トゥマは恐るべき忿怒のダキニ、ナクモは黒女という意味、つまり「黒い忿怒のダキニ・マチク」)がのっている。
 あなたの心そのものの本性を結晶させたこの黒いダキニは、黒と言うよりも濃い紺色の身体、右手に湾曲した刀、左手に骸骨でできた器をもち、右耳のすぐ上あたりに黒い豚の首をつけた、恐ろしくも美しい姿に輝いている。この黒いダキニにあなたの意識を送りこみすっかり一体になったところで、このダキニを中央管を通して頭頂のブラフマ孔から頭上の空間たかだかと一気に送りだすのである。つまり、黒いダキニが飛びだすのと一緒に、あなたの意識も頭上の空間に飛びだして、あなた自身が黒いダキニのすがたをとるわけだ(もしあなたが瞑想にたくみになったら、深い三昧の中から一気にダキニに変身してもよい)。
 そこでこう唱えなさい。

パット
身体への愛着を捨て去って神魔を断ち切る
心はブラフマ孔から法界【ダルマダーツ】に踊りでる
死の魔にうち勝って恐るべきダキニに変身する
右手には煩悩の魔を切断する曲刀を握り
頭骨を切り裂いて五蘊の魔にうち勝つ
左手には骸骨の器をもって働き
三界の人頭骨でできた爐の中に
全宇宙をもつつみこむ巨大な死体を投げいれて
短い「アー」字と「ハム」字で甘露に変える
三字の真言【マントラ】の力は甘露を浄め、増やし、変化させていく
オーム・アー・フーム(この三字の真言をくりかえし唱える)

 冒頭の「パット」というするどい音は、方便と智慧の結合を象徴するもので、一気に意識を高い次元に移し変える力をもっている。これを唱えると同時に、黒いダキニの姿をとったあなたの意識は中央管を一気に上昇して、頭頂のブラフマ孔から飛びだす。あなたの心は黒いダキニそのものとなって、空性の法界に踊りだすのだ。身体に愛着しつづけてきたことを悔いて、神と魔とにうち勝たなければならない。自分にあたえられた幸福な状態にみちたりて、かえって本当の心の開放への道を閉ざされている神は、ここでは魔と一緒にされている。あなたの心は黒いダキニとなって身体を離れて、こうして死の魔にもうち勝つのである。
 ダキニの姿をとった心が頭頂から踊りでると同時に、それまであなたが執着をつづけてきた身体は、冷たい死体となって地面にどっと倒れる、と想像しなさい。しかもこの死体は普通の大きさではなく、ぶよぶよにふくらんで、宇宙全体をつつみこむほど巨大なものになっている。
 今やあなたはダキニそのものである。その姿をありありと観想しなさい。ダキニは右手に握った曲刀で、死体の頭蓋骨のちょうどまゆ毛の上あたりをすばやく切り裂く。この曲刀は、貪り、瞋り、愚かさという三つの魔を完膚なきまでにうち滅ぼすダキニの力を象徴している。頭蓋骨を切り裂くことで、恐るべき力で人を虜にする煩悩の根元を断ち切ることができたと考えなさい。切り裂かれた頭蓋骨も巨大に成長して、この宇宙全体にも等しい大きさになる。
 ダキニが頭骸骨を切り裂くと、その前に山のように巨大な人間の頭蓋骨が三つ忽然とたちあらわれ、ちょうど爐のような形に並ぶ。三つの頭蓋骨はそれぞれ法身、報身、変化身を象徴していて、この三界の頭蓋骨でできた爐の上に死体から切りとった頭蓋骨をあおむけにのせ、つまりは爐にかけた鍋にするわけである。そうして、右手の曲刀で残りの巨大な身体を右手、左手、右足、左足、下腹部、腹部、胸部にそれぞれ切り刻む。そしてそれを曲刀にひっかけて、この鍋の中に放りこむ。
 爐の上には大きな雲がわきたち、爐の下からはまっ赤な短い「アー  」字が智慧の炎を吹きあげている。深い信をこめると、赤い炎はいっそう燃えあがって頭骸骨の鍋を熱し、まるで氷のように冷たかった死体が溶けはじめ、ぐつぐつと煮えたち、死体にこびりつく汚れやカスは煮えたつ泡となって鍋のふちからあふれでて、中には清浄な甘露だけが残されるようになるのである。
 鍋の上には白く冷たい「ハム  」字が逆さまにさがっている。鍋からたちのぼる甘露の湯気に触れると、この、「ハム」字からまるで雪山が溶けだすようにして甘露が溶けだし、鍋の中にしたたり落ちる。新しい甘露は死体から煮だした甘露と混じりあい、どんどんその量を増していく。ダキニになったあなたの唱える「オーム・アー・フーム」の真言の力で甘露は浄められ、さらに量を増していく。つまり「オーム」という音は汚れを浄める力をもち、「アー」音は甘露を増大させ、「フーム」音で甘露はふたたび輪廻の世界の現象物に変転する。言いかえれば甘露は、神魔や餓鬼や動物たちなどが欲しがっているどんな物にも姿を変えられる力を得るのである。
 さて、ダキニであるあなたの眼前の空間を見よう。そこにはさまざまな宝飾に飾られたたくさんの台座に、あなた自身の根本のグルをはじめとする相承系譜のグルや密教行者たち、仏陀や諸菩薩が座していて、そのまわりを守【イ】護【ダ】神【ム】たちがとりまいている。さらに頭蓋骨の鍋のすぐ真上の空間には、密教の七十五尊神をはじめとする護法神【チュウキヨン】、善神【スンマ】たちや、東西南北の四方を守る地【ユ】主【ル】神【ハ】たちがまるで雲のように群れをなしている。彼らは手に手にプルパ、金剛、曲刀、頭骨器などをもって、真実の教えを守っているのである。
 これらの神々の下方に広がる大地には、人々の生命や暮しをおびやかそうとしているおびただしい数の障り神と、無始の過去からあなたがなんらかの形で負債をおってきた輪廻の生きものたちが、あたかも朝の日の光に照らしだされつつ大気の中を舞う埃のように群れをなしている。グルをはじめとして、この場に集まったすべてのものたちが、これからあなたが設けようとしている清浄な甘露をふるまう神秘の宴席につどう客人たちなのだ。
 いよいよ宴がはじまる。甘露はまず上客であるグルたちや仏陀、菩薩たちにふるまわれる。グル、仏陀、菩薩たちは、平たい金剛の形をした舌から甘露の入った鍋に向けて光を放ち、この光のストローをとおして甘露を吸いあげる。「オーム・アー・フーム」の真言が唱えつづけられているから、甘露はいくら飲んでもいっこうに減る様子はない。大切な上客たちが喜んで甘露をめしあがってくれたことで、あなたは計り知れないほどの供養をはたすことができた、と考えなさい。無始の昔からおかしつづけてきた罪、心の連続体の上にたまった汚れ、密教の三昧耶戒の侵犯など、すべてがこれによって浄められることになるだろう。グル、仏陀、菩薩たちはあなたの供物に喜んで、四つの潅頂をさずけてくれるとも考えなさい。
 四種のタントラを守る守護神たちが、次にひかえる中等の客人たちである。守護神たちは、それぞれの象徴=印【ムドラー】の形をした舌をしている。そこで、ある者は、金剛、ある者は法輪、あるものは十字金剛などの形をした舌から光を放って、この光のストローをとおして甘露を飲みはじめる。彼らもまた、あなたの供物に大満足だ。これによって、あなたはさらに無量の供養をなし、心の汚れ、罪、三昧耶戒の違反などをつぐない浄めることがきたと考えるがよい。喜んだ守護神たちは、あなたの修行の障害となるものをとりのぞいてくれるだろう。
 次は頭骸骨の爐の上に雲のように群衆しているダキニ、護法神、勇者、善神たちに供物をささげる番である。彼らも舌から光を放ち、甘露が光のストローをとおして上昇していく。これによって、心の汚れを去り、覚醒をはばむさまざまな悪条件がとりのぞかれることになる。
 いよいよ最後に、ダキニであるあなたの周囲に集められた、ありとあらゆる生きものたちが供物を受ける番がまわってきた。あなたが瞑想にたくみなら、黒い忿怒のダキニの胸から、白、黄、赤、緑、青の身体をした数え切れないほどのダキニたちを呼びだしなさい。彼女たちは骸骨の器を手にして、巨大な鍋から甘露をすくいとっては、大地に霞のように群れる神魔、地獄、アシュラ、餓鬼、動物、人間たちにその甘露を配っていく仕事をする。甘露は生きものたちの望みどうりの物に形を変えて、心ゆくまで彼らを喜ばせるのである。
 あなたのまわりには数え切れない生きものたちが群衆している。そのため、黒いダキニであるあなたの胸から、それこそ無数の五色のダキニたちを生みださなくてはならないわけだけれど、そこまで観想することができない人は、ダキニを一人だけ観想するだけで十分である。そのかわり、彼女がすくいあげた甘露をあたり一面にまきちらしながらあたえていく様子を、ありありと想像しなさい。
 始まりもない遠い昔から、わたしたちは生きるために、あるいは誤った考えから、たくさんの生きものたちを殺し、その肉を食らい、財産をかすめとってきた。観想の力で群れつどった生きものたちに甘露の供物をささげることによって、あなたはそうした生きものたちに対する昔からの負債につぐないをしているのだと考えなければいけない。お腹をへらしているものには食べものを、着るものが欲しいというものには立派な衣服を、富が欲しいものには富を、子供が欲しいものには子供を、若さを求めるものには若さを、恋人が欲しいものにはすばらしい恋人をという具合に、とにかくあなたが負債をおっている生きものたちが望むものを、おしみなくあたえていくのである。こうして、さまざまな負債にお返しをしてはじめて、心の連続体の汚れを浄めることができる。
 さて、宴の末席に連なるものたちへの供物が一段落したところで、鍋の中の甘露がふたたびゴボゴボと煮立ってくる。この湯気の中から、あざやかな光線と虹がたちのぼり、その先端には聖なる天蓋【てんがい】、のぼり、白いほら貝などの吉祥の品々をのせた供物の白雲があらわれてくる様子を、はっきり観想しなさい。この供物は、グル、仏陀、菩薩、守護神、ダキニ、護法神、善神たちにささげられ、彼らはあなたの心に動かされて、大地に群がるものたちにまばゆい光を送りかえしてくる。この光をあびたものたちは、心をおおう二つの障害、すなわち煩悩の障害と、思考そのものがもたらす知の障害をとりのぞかれ、心の解放に近づくのである。
 大地に霞のように群がる輪廻に迷うものたちの中で、臆病なために、あるいは力が弱く病気だったりするために、ダキニがあたえてくれる甘露をこれまで受けられなかったものたちに、最後に残らず甘露の供物をふるまってあげなさい。助けを求めるものには救いを、病気に苦しむものには薬を、死に瀕しているものには不死の甘露を、足のないものには神通力の足を、目の不自由なものには智慧の目を、耳の聞こえないものには神秘の耳をというふうに、彼らが望むものはなんでもあたえてやりなさい。こうして輪廻に迷うものたちはさまざまな苦しみから解き放たれ、男はすべて観世音菩薩に、女はすべてターラ女神に、その姿を変えていくのである。
 この複雑な瞑想の間中、「オーム・アー・フーム」の真言を唱えつづけていなければいけない。そして、供物をつくした宴がすべて完了したところで、次のように唱えなさい。

パット
上客に連なる客人たちはもてなしに満足し
供養をはたしてすばらしい達成を得た
末席の輪廻に迷うものたちも供物に喜んで
負債をつぐなうことができた
とりわけ障り神たちもみちたりて
疫神、魔、障り神たちは空性の中に消え去っていった
悪縁と自己愛着を粉々にうちくだき
最後に、この宴席にあるものすべてあますところなく
ゾクチェンの境地にある無作為の「アー」字に変わっていく

 創造的想像力の生みだすこの宴がはてると、他のものをうらんで病や不幸をもたらそうと待ちかまえていた魔の精霊【スピリット】たちも満足して、清浄な法界に消え去っていく。また自分という実体があるとする逆立ちした考えを粉々にうちくだいて苦しみの根元を一気に断ち切った。こうして最後に、この巨大な宴席につどったものたちすべてが、何ものかの力によって造りだされたのではない、生まれることも滅することもない、ゾクチェンの境地にある
「アー」字に溶けこんでしまうのである。青空に溶けこんでしまったこの深い三昧【サマーディ】の状態に、できるだけ長くとどまりなさい。


 チュウの修行をやるには、なるべく恐ろしい精霊の集まっていそうな場所を選んで、一人で出かけていくのがよいとされている。墓地や竜神の住むさみしい泉のそばなどが最適である。また、日が沈み、月や星がまだあらわれない夕暮時が、チュウの修行にふさわしい時刻だともいわれている。悪霊たちが血や肉を求めてさまよいだす頃だからである。そんな環境に身をおいて万身の勇気をふるいおこしてチュウの修行をつづけた者は、いかなる幻影にも微動だにしないすぐれた心の境地を得ることになるだろう。
最終更新:2018年01月09日 01:52