俺が統合失調症を発症した時の話をする

おーぷん2ちゃんねるのニュー速VIPに立てられたスレッド、俺が統合失調症を発症した時の話をするより。
統合失調症を患ったスレ主が、自らの体験した内面世界と宇宙の秘密について語っていきます。
2スレ目からはしたらば掲示板に移り、たこ助と名乗っています。トリップは◆6KctQgwHqc
一部カットしてあります。全文が見たい方は過去ログをどうぞ。

俺が統合失調症を発症した時の話をするより。ログはこちら。)
1 :名無しさん :2014/04/18(金)22:10:41 ID:nOrYKPrgj
ちなみに今は寛解(薬を飲まないと再発リスクがある)状態ね。

しねよファッション鬱病
甘いな、俺も精神疾患を罹患する前は「精神病者ってwww」と思ってた。
そんな甘いモンじゃないぞw

お前のパソコンの中に監視カメラありそう
ちなみに俺の場合は、そういう被害妄想はなかった。
統合失調症の誰しもが「監視されている!」とか「悪口を言われている!」とか、
そんな感じじゃないわけだ。

俺の場合は「この宇宙の秘密を知った俺は、宇宙から命を狙われている!」だった。
なんじゃそりゃ。

なんじゃそりゃの部分から感じたけどお前まだ病気だわ
いや、本題はここから。
ちなみに、この「監視されている!」とか「命を狙われている!」という妄想、
これらを「陽性症状」と言うんだけど。
これに至る前に、俺は変な体験をした。

って言うか、おまえら厳しすぎだろ俺にw

ここも病んでる奴ばっかだからなw
いや、本当に病むってのは、こんなモンじゃない。
統合失調症は体験すれば分かるけど、
ホラー映画かSF映画の世界に迷い込んだようにすら感じるからね。

精神病がなおったと思ってる精神病なんじゃねえの?
そう、この病気は自分が罹患していることに気づけない。
治ったかどうかのバロメータとして、血液検査とかで値を評価することも出来ない。
これが、この病気の早期治療を阻んでいるんだよ。


宇宙の秘密の前に、俺が発症した時の話しをしないといけない。
2012年2月14日、職場で昼寝をしていた時のことだった。
目を閉じて、じっとしていると、自分と周囲の空間が同化したような。
もっと適切な言い方をすれば、自分が周囲の空間に広がって行くような、
不思議な感覚を覚えたのが、ことの発端だった。

だからお前は元々病気じゃないって経験したことが全て真実だよ
いや、真実ではない。
でも、その時の俺には真実だった。
これがこの病気の恐ろしい所で、実際の真実が、自分の真実にすげ替えられてしまうんだよ。


話しの続きね。
俺はその時の感覚が忘れられず、再び体験したいと思った。
かと言って、それが必ずいつも体験できるわけではない。
それには条件があって、

1.空腹であること
2.ひどく疲労していること
3.寝るわけじゃないけど、ちょっと休みたいという微妙な状態

が揃っていないとダメだと言うことが、少しずつ分かってきた。
あのまま、自分が広がり続ければ、一体どうなってしまうのだろう。
それは怖くもあったけど、とても興味があった。
人間、恐怖よりも好奇心が勝った時ってのは、本当に危ないんだなって今は思う。

空気に体がすうっと溶けていくような感覚ならわかるがそれとはまた違うのだろうか
空気と言うより、自分という「個」が、周囲の「全」に一体化していく感覚かな。
それは、後でより詳しく書けると思う。


試行錯誤を繰り返しながら、俺は「自分が広がって行く」という感覚のコツを掴んで行った。
目をつぶり、何も考えず、ただ心の奥から沸き上がる
「どこまでも広がり続けたい」
という気持ちに身を委ねる。
それは、恐ろしいほどに心地よく、陶酔するほどの幸福感に満たされていた。

このまま、自分は消えてしまっても構わない。
ただ、どこまでも広がり続けたい・・・そんな風にすら思ったよ。

近親者に糖質いた?
それが俺だけなんだよね統合失調症。
まあ、うちの家系について思う所としては、みんなちょっと変わってるってことぐらいか。


そして、ある日、俺は目を閉じ、あぐらをかいて、
自分の中から沸き上がる「広がりたい」という思いに身を委ねていた。
その頃には、俺は自分の周囲、半径数メートルぐらいまでには広がることが出来るようになっていた。
自分の思いに忠実に、それはまるで「自分の内なる声に身を委ねる」ような感覚だ。
少しずつ、少しずつ、自分が周囲の空間へと溶け込んでいく。
溶け込んでいくけれど、決して薄まることはない。

「ここまでしか広がれないのか・・・」
そんなことを思った時、目を開けた俺は不思議な光景を目にした。

アリス症候群ってやつに近いのかな?
いや、自分が小さくなったり、大きくなったり・・・とは違うよ。

3つの条件が揃っていれば場所はどこでも可能だったの?
どこでも、というわけじゃない。
静かな所や、一番成功率が高かったのは、午前中の公園とかだった。


目を開いた時、俺は自分ではなくなっていた。
目を開いたはずなのに、俺は目でものを見ていない。

これは例え方が見つからないので、少し冗長な言い方になってしまうけど、
目でも肉体でもなく、広がった自分そのものが、周囲のすべてを見ていた。
その時に、俺は気づいた。
俺は広がっていたのではない。
周囲の空間に、俺はなっていたんだってね。


それを、まるで起爆剤とするかのように、
俺は突然に、周囲の様々なものと同化するような感覚を体験した。
草や木や、草やベンチ、腰を下ろしている土すらも自分になり、
それが連鎖的に、どんどん結びついていく。

「もっと、もっと、広がりたい」

そう思った瞬間、俺は周囲の空間を一気に満たす、
まるでエネルギーのようなものになっていた。

すべての物が、自分でありながら自分ではない。
しかし、それらも実はすべてが同じであり、同じではない。
とても理解しがたいかも知れないけれど、その感覚を感じた時、
エネルギーとなった俺は、さらに上空へ、空へと広がって行った。

もしかしてブッダの生まれ変わりじゃね?
残念ながら、俺は無宗教。
無神論者じゃないけど、神様はほどほどに信じてるって感じかな。


空に広がった俺は、既に「個」としての自分を忘れていた。
エネルギーとなった自分は、既に自分では制御できない速度で、どんどんと広がって行く。
地球を満たし、太陽系を満たし、さらに遠縁の宇宙空間をも満たした俺は、
すべての物質、あるゆる力が、物理法則だけでなく、
「抽象的な概念」とでも言えば良いのか、事象を構成している「理由」とも結びついていることを感じた。

恐ろしいほどの幸福感、このまま広がり続ければ、一体どこへ行くのだろう?
このまま戻ることは出来ないかも知れないけれど、それでも構わない。

「もっと広がりたい」

そう思った瞬間、俺の存在は宇宙全体へと広がり、そこを満たして行った。
宇宙を満たし、すべてと同一になった俺は、その先へと向かう。
そこは、宇宙の外側だった。


俺はそこで、信じられないものを目撃した。
宇宙の外側には何かがあった。
それは言葉では到底表現できるものではなく、
その一部を例えるとしたら、無数の「12の構造」に満たされていた。

12の構造が無限に続く世界、その1つ1つの構成要素に何かの意味があるように思った。
それを知りたい、そこまでたどり着きたい。

「もっと、もっと広がりたい」

そう思った時、俺は声でもなく、思考でもない、
音としか表現できない言葉のようなものを聞いた。

「帰りなさい」

その途端、突如として大変な恐怖に襲われた。
俺は、自分が「個」である存在であることを思い出し、
エネルギーとしてすべてを満たしている状態から、たちまち自分へと戻って来た。


「個」としての自分に戻って来た俺は、その時に聞いた「音のような言葉」に怯えていた。
一体、自分は何を見たと言うのだろう。
この時に自分の中で分かっていたことは、

1.すべての存在の「始点」は1つである
2.無数の物体がある宇宙は、実体のあるホログラムのようなもの
3.この世界は複数の世界が重なり合っている非常に曖昧なもの
4.「曖昧」という状態は、複雑化された現象によって「そう見えているだけ」

ということだった。
すべては同一であり、しかしすべては同一ではない。
この「2つの矛盾する事象」が重なり合っている状態が、
この宇宙には隠されている、あるいは宇宙が隠したかった事実なのだと、
その時、俺は信じて疑わなかった。


その体験をした後の俺は、それまで「幸福の行為」だった「自分が広がり続ける」感覚を、
ひどく恐れるようになった。
俺が知ったものは何だったのか分からず、ただ漠然とした恐怖がある。
目を閉じれば、再びあの場所へ行ってしまいそうな気がして、
眠ることもできなくなっていった。

自分の中にある「宇宙の秘密」は、本当は気づいてはいけないものだったのではないか。
その存在してはいけない「秘密」が、自分の脳の中にはある。

恐ろしかった、この宇宙が秘密を知る自分を、放っておくはずがないってね。


ことあるごとに、俺は恐れおののいていた。
すべての行動、すべての思考、言葉すらもが
自分の中にある「宇宙の秘密」という「本当はあってはいけない情報」を帯びているように感じた。

自分は「世界」にケンカを売ってしまった。
このままでは、自分はこの世界の「物理法則」によって殺されてしまう。
睡眠も取れず、無闇に行動もできなくなり、食事もできなくなった。
2週間で体重は10キロ落ち、食べないと死ぬと分かっていても、
食事が喉を通らない。

自分の状況を、仮に物理学者や神学者の先生に話しても理解してもらえない。
どうすれば良いのか分からず、自分の頭の中が捻れるような孤独感。
その時、俺は、自分の人生を左右する幸運に恵まれる。

「精神病院の先生なら助けてくれるかも知れない!」


宇宙に命を狙われている自分の「思考」という抽象的な事柄は、
物理法則をも操作して、自分を殺すためのトラップになる。
そして、既に睡眠を取ることが出来なくなっていた自分は、
おそらく、じわじわと世界に兵糧攻めで殺されてしまう。

この「思考」を取り除いてくれるのは、精神医療しかない。

当時、俺は精神病院には強い抵抗があった。
一度行けば、一生レッテルが貼られてしまうのだろうと。
薬漬けにされて、隔離病棟で一生過ごすことになるのではないかと。
しかし、そんなことを言っている場合ではなかった。

俺は妄想の帰結として、幸いにして早期に通院することができた。

統合失調症はドーパミンの過剰放出だからあり得る経験だろうね
ドーパミンは快楽物質のひとつね
ドーパミンとセロトニン原因仮説は、確かに有力だけど、
それだけが原因だとは俺には思えないかな。


通院してから薬を飲み始めたものの、やはり眠ることが出来ない。
睡眠剤を出してもらっても眠れない。
食欲は戻らず、栄養は点滴で補給していた。
俺はこのまま死んでしまうのではないか。
ただ、それも仕方の無いことだと、当時は思っていた。

俺は「宇宙の秘密」を知ってしまった。
それは「存在してはいけなかったもの」であり、それに触れた自分は、
神様にケンカを売ったのだろう。
それなら仕方ないんだろうってね。

そして、ある夜、俺は眠れないけれど目を閉じてベッドに横になっていた。


目を閉じていると、暗闇の中で光りが無数に沸き上がってくるのを感じた。
それはまるで星空のようで、それはいびつな網目状の形を取り始める。
やがて、それらは少しずつ形を変えながら集まり離れを繰り返し、
暗闇の中で光りは、人間のような形を象って行った。

それは、顔が顔面にいくつもあり、肩や腹にも顔があった。
裸体と呼ぶには、その姿は抽象的で、例えば胸部や陰部は省略されていた。
俺は直感的に「あの音のような言葉の主だ」と気づいていた。

「・・・連れて行くなら連れて行ってください、覚悟はできています」

俺が言うと、その光りで象られた人体は浅く微笑みを浮かべたように見えた。
そして、再び光りは四散し、暗闇へと消えていく。

「また会いましょう」

と言うようなニュアンスの音を聞いた俺は、目を開いた。
当然、そんな人物がいるはずもなく、俺は漠然と思っていた。

俺は、宇宙に許してもらえたのかも知れない、と。


もちろん、そのことを先生には話した。
「幻視だと思うけど、うーん、あるって言えばあるんですけどね」
と言う反応だった。
俺は思った、この先生はまるで自分のことを理解しようとしてくれていない。

統合失調症を発症後、俺はこの世界が極めて不吉で、極めて奇妙であるという、
強い妄想に苛まれながらも、仕事を続けていた。
職場では、なるべく普通に振る舞おうと努め、居酒屋に行って出来るだけ人と接する機会を増やそうとした。

この時点では俺は「自分は統合失調症ではなく、宇宙の秘密に触れただけ」という認識を持ち、
決して治療に対しては積極的ではなかった。


薬を飲み始めて1ヶ月が経った。
未だに妄想はあったものの、様々な出来事に対して抱いていた
「奇妙な感覚」は消失しつつあった。

それでも、俺の中には「宇宙の秘密」があるのだと言う妄想だけは残遺しており、
これによって自分は殺されるようなことはないけれど、
極めて危険な状態である、という確信すら持っていた。

この頃から、陰性症状と言う「気力が湧いてこない」「自殺願望」などを伴う、
統合失調症の症状が顕在化してきたけれど、
病気に関する知識を持っていた俺は、ここが踏ん張りどころだと、仕事は休まなかった。

確かに自分の中から様々な妄想が消失していくのを感じ始めた頃、
現在の主治医は信頼できるのではないか、そう思い始めていた。


治療を初めて半年、薬が多すぎると自己判断し、
処方された薬の半分しか飲まなかったところ、
何も考えられない(思考が湧いてこない)状態に陥る。
仕事も出来ず、日常生活にも支障を来すようになり、
そのことを先生に相談した。

当然ながら、怒られると思っていたが、先生は笑って、
「んー、薬を飲まなかったのはマズいけど、ちゃんと言ってくれて良かったです」
と言ってくれた。
俺は、腹をくくることに決めた。
この先生になら、自分の命を預けることが出来る。

「俺はまな板の上の鯉だ、先生、よろしくお願いします!」

そこから、先生のことを信じられるようになって行った。


2014年4月現在、完全に妄想は消失しており、幻覚もない。
今となっては「宇宙に殺されるってwww」とか思ってしまう。

ただ、俺が体験した「自分が広がり続ける感覚」を、俺は忘れることが出来ない。
それが妄想だったとしても、宇宙の外側に広がっていた無数の構造。
あの先には一体何があったのだろうか、今も思う。

世界は秩序的で、おそらく量子力学が言う不確定性原理すらも、
曖昧さによって世界が隠している「変数」があるのかも知れない。

まったく関係の無い事象因果が、別の事象に影響を与えているのかも知れない。
すべては同時で、すべては同一。

果たして、俺は宇宙に殺されることもなく、今は明日の花見の準備をしている。
俺の体験したことを、すべからく「統合失調症」の一言で片付けることは簡単だけど、
こういう体験をした人がいるということ。
そして、統合失調症が決して「謎めいた神秘性のある悪意」ではないことを知ってくれたなら嬉しいです。


ただ、今思い返すと、まるでSFホラーの映画の中に飛び込んだような経験だった。
そこで次々と「理解」とでも言えばいいのか、色んな知識が流れ込んで来てガッテンが行くような感覚は、
とても幸福で、とても不思議だったことは確かだった。
もう、陽性・陰性症状も、認知機能障害もゴメンだから二度と体験したくないけどね。

病気の妄想とするのは理性的な判断だと思うけど、処世術ではないの?
処世術ではないよ、俺は確かに統合失調症を罹患してる。
ここまで来れたのは周囲の人たちのおかげだし、
仕事も家族もあるから、いつまでも病気になってるわけには行かないんだよね。
ただ、神秘主義的な解釈のネタとしては面白いかな?とは実は思ってる。
それが真実かどうかは別にしてだけど。

変な表現してごめんね
おもしろいからさ 1さんの把握力がありながら 知らない を選択できるものなの、と
でも言ってることわかる。周囲の人たちとても大事だと思う。
なんで恐怖感がくるんだろー
恐怖は「未知」と比例するけど、俺が感じた恐怖は
おそらく、病感からくる恐怖だったのではないか、今はそう思ってる。
ただ、恐怖を恐怖のままにしておかないで、その恐怖から脱する方法を探ることも大切なのかも。
俺の場合は統合失調症と言う恐怖を、どのように脱したのか。
それを文章にすることで「影を見ている」状態から「実体を見る」状態に持っていきたいと思ってる。

12の構造が無限に続く世界を俺は知ってる。
けど、人類が理論的かつ具体的に12の構造を現実応用するのはまだずっと先の時代
だけど、1の話興味深かった。ほとんどいないからね、この話が分かる人は
12の構造は俺の妄想。
ただ仮にそれを見た時の感想を書かせてもらえるなら、まるで曼荼羅のようだって感じた。

1は精神世界の予備知識がある上で知覚拡大したら恐怖はなかったかもね

精神世界も色々だけどその道の人からすると知覚の拡大はあることはあるみたい
俺は平和主義?だからリスクのあることはしないけどね。

似たような知識を集めて自分で分かるようになってから
客観的に判断しないと、宇宙の秘密を知ってしまったと思うかもしれないな

1は禅や精神世界の知識はあまり無いようだから、(だけど話してる内容は大抵の場所で
通じること、それを体験したというんだから凄いよ)足りない知識が1の体験に
不安という形を与える ってことだね
禅や精神世界のことは全く分からない。
でも、それらの知識の中のいずれかを俺が知っていたなら、
あるいは、病感による恐怖が当時ほど強くならずに済んだのかも知れないね。


ひとまず、統合失調症の話しは置いておいて、
俺が体験したことについて、その当時に感じた感想も書いておきたい。
発症に至るまでのプロセスだったり、一般的ではない解釈が散見されると思うけど、
興味がある人がいたら、もう少しだけ付き合ってね。

統合失調症を発症する前、2011年11月頃から、俺はダイエットを始めていた。
俺がやったのは食事制限ダイエット。
最初は3食すべてをインスタントのスープとバナナ1本、加えて野菜ジュースだけにした。
あと、会社から帰宅後に、散歩がてらに歩くことにした。

少しずつ食事の量を減らして行って、歩く距離も伸ばしていった。
最終的には1日バナナ1本で腹が満腹になるようになり、
歩く時間も1日約3時間、距離にして約10キロほどになった。

頭が恐ろしいほどに冴えて、疲れすらも心地よく感じるようになった。
面白いように体重は落ちて、当時70キロあった体重は3ヶ月後には58キロになっていた。


ダイエットに成功した俺は、食事の量を元に戻そうと思った。
ところが、食べようとして量を食べられない。
ご飯茶碗に軽く一杯の量ですら食べきれない。

その頃から昼休みに目を閉じて、ちょっと休憩をするようになった。
仕事の繁忙期ということもあったけど、体がフワフワするような感じがして、
ちょっと休憩を取ると、頭が冴えるような気がした。
その頃から、休憩を取っている間、俺は目を閉じた暗闇の中で、
ちょっとした遊びをするようになっていた。


その遊びは、目を閉じた暗闇の中で「数字を描く」というものだった。
目を閉じて「今日は数字の3にしよう」と思い、それを強く思う。
すると、いびつな形で数字が暗闇の中に、まるで残影のように浮かぶ。
最初はうっすらとしてグニャグニャな形だったけど、
数週間続けると、ちゃんとした文字が浮かぶようになった。

色々な数字を思い浮かべて、それをまぶたの裏側に描く。
その間は何も考えなくていい、ただ数字のことだけを考える。
それを終えると少し頭が疲れた感じはするけど、と爽快感があった。

数字の次はひらがな、その次は図形。
形を自由に変えたり、暗闇の中を移動させたり、小さくしたり大きくしたり。
自由自在にコントロールが出来るようになり、
その「残影」を体の中に入れたり出したり出来るのが面白かった。

ある時、俺は円を幾重にも思い浮かべて、
その中をまるでトンネルをくぐるようにして遊んでいた。
遊んでいるけれど、心はひどく休まっている。
どこまでも続く円、その遙か先には青白い灯火のようなものが見えるような気がした。
忘れもしない2012年2月14日だった。


円の中をくぐりながら、俺は自分の体が広がって行くように感じた。
当時は、自分がなくなっていく感覚のように思っていたけれど、
その後の体験から、自分と周囲の空間が同化していく、という表現が適切だと思う。

最初は「ああ、寝ぼけているんだな俺」と思った。
しかし、意識ははっきりとしていて、それでいて眠っているようにも感じる。

覚醒と睡眠の中間、そこにある僅かな隙間に入り込んでしまったような感覚。
とても温かく、とても居心地が良かった。
その後、目覚めると体が非常に軽く、頭が冴えきっているように感じた。


その後、自分が広がり続けるような感覚は強くなっていき、
その戦慄するほどの幸福感に、俺は身を委ねていくことになる。
この辺りは以前に書いたことと重複するから省く。

統合失調症の症状として書くと簡単なんだけど、
こうして、当時の感覚をそのまま書き込もうとするのは、とても難しいねw

興味深く読ませてもらった。
俺が感じた「体が周囲の空間に広がって行く」と似た経験をしているんだね。
俺は統合失調症を発症したことで、これに類似する体験をしている。
認知に関わる重大な障害が、二つの経験には共通しているのかも知れない。
この人は脳卒中を罹患している最中にも、左脳の声を聞いている。
これに対して、俺が聞いた左脳の声は恐怖そのものだった。
「左脳の声」に、統合失調症には何かしらの重要なヒントが含まれているのかも知れないね。

統合失調症とは果たして病なのか それとも覚醒なのか
統合失調症は決して神秘性のあるオカルト病ではないよ。
罹患しないと分からないけど、これは脳の病気。
色んな意見があると思う、色んな考え方があって良いと思うけど、少なくとも俺はそう思ってる。

でも、ちょっとだけオカルト的な考え方をすると面白いかな?
なんて思ってることも事実だってことは自白しておくw

ひとつ変な質問。
前の話で、居酒屋に行ってできるだけ人と接するように務めたってあるけど、
その都度お酒は飲んでいた?
それともお酒は飲めないので、ソフトドリンクを飲んでいた?
その時はお酒は飲んだけど、お酒を飲むと「自分が広がり続ける感覚」は体験できなかった。
とにかく空腹で、そういう時には深く深く自分を広げることが出来たよ。
お酒を飲むと集中が出来なくなる。


ぽつぽつとだけど、自分の中で整理したことを出していきます。
統合失調症の妄想として片付けることで、俺にとっては負担は小さくなるのだけど、
自分に感じたことを書き記しておきたい。
これは、あくまでも自己満足なので、本当はチラシの裏だと思うんだけど、
俺が立てたスレだし、少しだけ書いてもいいよね?って、感じです。
小難しい話になっちゃうけどごめん。


俺が「宇宙と一つになった」と感じた時に見た世界の形は、
その形を上手く言い表せないという根本的な問題を抱えながらも、
球体をお椀のように歪めたような姿だった。

その時に感じたことは、「空間」に注目して考えていけないってことかも。
時間と空間は同じものだけど、空間が広がれば、時間も引き延ばされる。
宇宙空間はハッブル博士によって観測上は「加速的に膨張している」って見える。
でも、俺が見たのは膨張ではなく、
言い方が難しいんだけど、物体がまるで吹き出しているような
言うなれば、凸型に歪んでいるように見えた。
図に出来ると分かりやすいんだけど、俺には絵心がないんだよね。


とても曖昧な言い方になるけど、この宇宙はまるでホワイトホールの中にあるように思った。
だけど、ホワイトホールが仮にあったとしても、
その特異点から吹き出す物質によって質量崩壊して、ホワイトホールを覆い隠すように、
ブラックホールが出来るはず。
だけど、もし事象の地平線が見せかけで、実際にはブラックホールに落ちたエネルギーが再放出されるのだとしたら、
シュバルツシルト半径の中心部で生まれたエネルギーは、まったく別の形として放出されるかも知れない。

平たく言うと、この宇宙はホワイトホールから始まり、実はまだ始まってすらいないのかも知れない。


だめだ、いたずらに難しい言葉ばかり羅列して、
分かりやすく書けない。

1の理解に人類が達するのはずっと先の時代だけど
この宇宙の隣にはいくつかの宇宙がある
俺の感じた限りでは、俺たちの隣には宇宙はなかったよ。
ただ、その感想を書かせてもらうのは、このスレではないのかも知れない。

俺は、このスレでは「統合失調症」がいかに恐ろしい病気であるか、
その結果、合理性に欠く妄想に囚われてしまうこと、
そして、それが「神秘性のある悪意」ではないことを知って欲しかった。
確かに陽性症状が顕在化している時は、その人はおかしい。
狂人と言われても仕方ないのかも知れない。
しかし、その状態は必ず治り、俺のように社会に適応することが出来る。

色々な人に、色々な解釈をしていただいて、俺も勉強になった。
「病気ではない」と解釈した、ややオカルティズム(そして、一般的に解釈からしたら非合理)な考え方は、
このスレではなく、別のスレで書かせて頂くかも知れない。


俺が統合失調症を発症した時の話するの続きより。)
1 :たこ助 ◆6KctQgwHqc:2014/04/30(水) 20:20:37 ID:KPSTbrXA0
スレを立ててしまいました。
俺が罹患してしまった「統合失調症」というワケが分からない病気。
しかし、発症に前後して体験した出来事については、多くの方々から色々な意見をいただきました。

このスレでは、みんなでこれらの体験とか、悟りとか、量子力学とか、
果ては宇宙、宗教の発生について色々と意見して行きません?
ってスレです。


上記のスレでは「統合失調症」が、
いかに恐ろしい病気かを知ってもらうことを目的にしています。
そのため、神秘体験とも言うべき内容は、かなり省略しています。

体験した内容は、別スレさんに書き込ませてもらったのですが、
長い上に色々とご不便をおかけしてしまったので、
手を加えて短縮したものを、このスレに書きませていただければと思っています。


俺の体験を大別すると、

 ①瞑想ごっこ → ②「自分を見る」体験 → ③世界と一致する体験

  → ④「声」との対話 → ⑤統合失調の発症 → ⑥寛解(回復)

というプロセスになります。

これらの体験が一体、どのような意味を持つのかは正直分かりませんが、
何か思う所があれば、俺にその考えを教えてください。


■プロセス① 瞑想ごっこ

事の発端は、俺が職場で昼休みに休息している時でした。
目を閉じていると、まぶたの裏側の闇には、色々な形や渦巻きが浮かぶと思います。
これらを見るのが楽しく、それらの「形」を目で追うようになりました。

それを繰り返している内に、暗闇に自分の思い描く形が浮かぶようになりました。
最初は簡単な線や点でしたが、
繰り返している内に、数字やひらがな、カタカナを描くことが出来るようになっていきました。

さらに、それを繰り返す内に、図形を描くことが出来るようになりました。
三角形や四角形、円形。
これらを自由に動かしたり、拡大縮小したり。
最終的には、これを暗闇から「取り出して」、自分の体の中へ取り込むイメージも出来るようになりました。


■プロセス② 「自分を見る」体験 1/2

図形を自由に扱えるようになった俺は、
円を幾重にも重ね、その中をトンネルのようにくぐるイメージをしていました。
円のトンネルの遙か向かう側には、ロウソクの炎のような、青白い光が見えています。
透き通った金属音のようなものが聞こえていました。

その時、自分は「闇の中に浮いている」という感覚から、
「この闇が自分と同じような」感覚を感じるようになって行きます。

ロウソクのような光にたどり着きたいのですが、どこまで行っても、光には近づけません。
しかし、これを何日か繰り返していたある日、
2012年2月14日、俺はある体験をすることになります。


■プロセス② 「自分を見る」体験 2/2

2012年2月14日、俺はいつものように職場で目をつぶり、
円のトンネルをイメージしていました。
しかし、その日に限って「ロウソクのような光」が見えません。
俺は、暗闇の中へ飛び出して、くまなく探しましたが見つけることは出来ませんでした。

どこに行ったのだろう・・・と思いつつ、俺は闇の中で、後ろを振り返りました。
すると、そこには「ロウソクのような光」がありました。
その時、俺は確かに感じました。

●暗闇

○自分

ではなく、

●暗闇(自分)

○自分(ロウソクのような光)

このように、暗闇が自分となり、自分は光となっていたのです。


■プロセス③ 世界と一致する体験 1/3

闇が自分となり、光となった自分を見ている。
闇となった自分は、自分がそのまま闇の中へと溶けていくように感じました。
それは、まるで自分がどこまでも広がり続けるような感覚です。

恐ろしいほどの幸福感と共に、このままでは自分が消えてしまうと感じました。
慌てて、元に戻ろうとすると、光となった「自分」が、暗闇となった「自分」に溶け込むような感覚があり、
その瞬間に、俺は目を開きました。

自分が広がり続ける感覚は維持されており、
今まで感じたこともないような、強い幸福感が残っていましたが、
それはすぐに消えてしまいました。

俺は思いました、もう一度、あの幸福感を体験したい。

この体験以降、俺は会社の休憩以外にも、目を閉じて「瞑想ごっこ」をすることが多くなりました。
休みの日には、近所にある公園に行き、
樹木の根元に腰を下ろし、目を閉じます。

闇と自分が一体化する感覚、それと同時に自分がどこまでも広がって行く感覚。
最初は暗闇の中だけで感じていた「自分が広がり続ける感覚」は、
それを繰り返す内に「自分の体が周囲の空間に広がっている」と観じるようになっていきました。


■プロセス③ 世界と一致する体験 2/3

2012年3月4日、日曜日だったと記憶しています。
公園にはまだ雪が残っており、その日は朝から何も食べていませんでした。
この体験をするためには空腹であることが必要だったので、
俺は、1日1食だけバナナ1本を食べるという、異常な食生活を続けていました。

目をつぶり、いつものように「思い」に身を委ねます。
その時の俺は、何も考えておらず、心の底から沸き上がる「思い」に、ただ身を委ねるだけです。
どこまでも、どこまでも広がり続ける感覚は、戦慄するほどの幸福感に満ちていますが、
ある程度まで広がると、それ以上は広がり続けることは出来ません。

「やはり、ここまでしか広がれないのか」

そう思いながら、目を開いた俺は、不思議な光景を目にします。
360度すべての景色が見えていたのです。
それも、自分の視線の高さよりずっと高い場所からの光景でした。

目を閉じても、その光景ははっきりと見えていました。

その時、俺は公園にあるすべての「モノ」の中に流れがあることに気づきました。


■プロセス③ 世界と一致する体験 3/3

公園にある樹木、芝生、ベンチ、歩いている人、すべてのの中に、
光の繊維のようなものが流れているように思えました。

それらは、すべてが結びついていて、相互にエネルギーを交換しているように見え、
それらは、実は一つのものであり、すべては同じであるということが分かりました。

次の瞬間、すべての「モノ」に流れる、光のようなエネルギーが自分に集中するような感覚がありました。
自分はそれまでとは比較にならないほど、大きく広がります。
公園全体に広がり、すべてと一体化したことを感じた俺は、

「もっと、もっと広がりたい」と思います。
空へと広がり、大空をも満たした俺は、自分がまるでエネルギーのようなものになっているように感じました。

さらに俺は心の声に身を委ね、さらに大きく広がっていきます。
地球を満たし、太陽系を満たし、遠縁の宇宙をも満たした俺は、
既に、自分が「個」のして存在した、人間であることを忘れていました。

ついには宇宙をも満たした俺は、そこで宇宙の形を眺めていました。
この「宇宙の形」の話しは、後で別の形で書き込みさせて頂きたいと思っています。


■プロセス④ 「声」との対話 1/2

宇宙をも満たした俺は、世界と一体化したような幸福感の中にありました。
その時の感想としては、
「自分の意志とは関係なく、体が動くような、気味の悪い感覚」
でした。

さらに俺は「もっと、もっと広がりたい」と思います。
ついには、宇宙の外側へと向かった自分は、そこで信じがたいものを目撃しました。

この時に感じた感覚も、「宇宙の形」と同様に、別の形で書かせて頂きたいのですが、
そこで見た光景は、
「空間」とは違う原理で構成された「空間のようなもの」があり、
そこを埋め尽くすように、とても美しく折りたたまれた「形」のようなものが、無限にひしめいていました。

1つ1つの「形」は、12の構成要素で形作られていて、
それが12から6へ、6から3へ、3から1へと折りたたまれています。

その光景は驚くほど美しく、俺はずっとここにいたいと思いました。
しかし、それは長くは続かず、再び自分の「意識」が「個」へと戻っていくのを感じました。

戻る途中、様々な知識が自分の中へと流れ込んできて、
何もかもすべてが分かった、というような感覚があったことを覚えています。


■プロセス④ 「声」との対話 2/2

この体験以降、俺は「宇宙の外側へ行きたい」と強く思うようになりました。
仕事をしていても、考えることは、あの美しい光景のことばかり。
食事を取ろうにも、食べ物が喉を通りません。
タバコも吸わず、酒も飲まず、俺は「あの場所」へ行くことばかりを考えていました。

その日も、俺は目をつぶって、宇宙の外側へと向かいます。
陶酔するような幸福感と、目を見張るような美しい光景。
俺はさらに、その外側へ向かいたいと思い始めます。

「もっと、もっと広がりたい!」

そう思った時、俺は思考のようであり、声のようでもあり、
しかし音としか表現できない言葉を聞いたように感じました。

「この先は見ることはできません」

その「声」は、そういうニュアンスのことを言ったように記憶しています。


■プロセス④ 「声」との対話 3/2(話しの分配間違えた)

その「声」のことを、俺は「このようにして有る、音のような言葉」と呼んでいるのですが、
それだと長すぎるので「声」と呼ぶことにします。

俺は声に尋ねます。
「ここは一体どこなのか」
すると、声は、
「ここは、外側でありながら内側であり、内側でありながら外側です」
と言いました。

俺はさらに尋ねます。
「宇宙の外側ではないのか」
すると、声は、
「ここは3つの繰り返される輪であり、外でも内でも有るのです」
と言いました。

「これは夢なのか」
俺が尋ねると、声は、何も答えませんでした。

俺は尋ねます。
「この声は何なのか」
すると、声は、
「有りて有りるものです」
と言いました。

「自分はここに止まりたい、ここに永遠にいたい」
と俺が言うと、声は、
「帰りなさい」
と言いました。

次の瞬間、俺はこの世のものとは思えない、恐ろしい体験をすることになります。


■プロセス⑤ 統合失調の発症 1/3

次の瞬間、無数に続く12の構造の内の1つ、それは「宇宙」そのものとも言うことが出来るかも知れませんが、
そこに存在する銀河、恒星や惑星が、自分の中へと流れ込むような感覚に襲われました。
それは、自分には到底許容できるものではなく、筆舌に尽くしがたい苦痛を伴いました。

耐えがたい苦痛と同時に、「宇宙の外側」で自分が「個」であり、肉体を持った存在であることを思い出します。
その瞬間、体中の血液が沸騰するような強烈な熱さと共に、
自分の体が微細な粒子へと分解されていくような、壮絶な激痛を味わいました。
指先から自分の体が粒子となり、腕が足が体が、そして脳までもが粒子となっていきます。
薄れていく意識の中で、自分は思っていました。

「自分は罰を受けているのだ。知ってはいけないことを知り、宇宙の秘密に触れてしまった」

全身が粒子になり、それでもなお、激痛は継続していました。
既に自分の心すらも細切れとなり、そこには至福感はありません。
その時、俺は思いました。

「自分は『世界』にケンカを売ってしまった」


■プロセス⑤ 統合失調の発症 2/3

目を開くと、そこは自室でした。
何も変わらない空間のはずなのに、そこが極めて不吉な場所のように思えました。

自分は「世界の秘密」という、存在してはならない情報を脳に宿している。
この異常な情報が存在し続ける限り、『世界』は自分を許してはくれない。

ここからが今から考えれば偶然だと思うのですが、
気を紛らわそうとパソコンに電源を入れましたが、電源が入りません。
タブレット端末も操作しましたが、電源が入りませんでした。
自宅中の時計が止まっていて、デジタル時計に至っては変な文字を表示し、
電池を入れ直しても動きませんでした。

俺は思いました。
「自分と結びついた存在は、自分の中にある『異常な情報』によって、破壊されてしまう」

さらに俺は思いました。
「自分の意志での行動、発言、思考にすら『異常な情報』は絡みついている」

自分から放たれる『異常な情報』は、周囲に放たれた後、
自分へと戻って来てしまう。


■プロセス⑤ 統合失調の発症 3/3

この体験以降、体調は極めて悪くなり、睡眠を取ることが出来なくなりました。
眠れば、再び自分は「あの場所」へ行ってしまうのではないか。
次に、「あの場所」へ行けば、自分は決して戻ることは出来ない。

このままでは、『世界』に自分は殺されてしまう。

自分の中にある『異常な情報』は、自分という存在を通じて周囲にも伝播し、
世界の秩序ある法則性、世界の曖昧さを混乱させている。
この異常な状態を説明するためには、それしか方法がない、と思っていました。

この期間、俺は複数の「不思議な体験」をしてしまいます。
それらは、おそらく偶然だったり、様々な要素が重なり合った結果でしかなかったのだと思いますが、
その時の俺には

「すべてが自分の中にある『異常な情報』が引き起こしている」

としか思えませんでした。
それは、まるでSFホラー映画の中に迷い込んでしまったような体験でした。
現実性もなく、合理性もないにも関わらず、それらが「妄想」であると見抜くことが出来なかったのです。

この異常な状態を解決するには、どうすれば良いのか。
物理学者や神学者の先生に話した所で、理解してもらえないでしょう。
その時、俺は思います。

「精神科医の先生なら、自分の中にある『異常』を取り除いてくれるかも知れない」


■プロセス⑥ 寛解(回復) 1/3

このような経過により、俺はメンタルクリニックへ通うことが出来ました。
その時点で、自分の頭は大変に混乱しており、
統合失調症の知識を持ちながら、自分がそれを罹患していることに気づけませんでした。

「異常性」が「真実」であるという確信。
自分が病気であることを理解出来ず、しかし何かがおかしいという「病感」がある状態でした。

通院し、主治医の先生に話しを聞いていただいた後、
先生は「あなたは統合失調症と判断できます」と、はっきりと言ってくれました。

それまで他人事だった「精神病」というものを、自分が罹患した事実は、
なかなか受け入れられるものではありませんでした。

精神病とは、言い方に語弊がありますが「狂人」なのだと、俺は思っていたからです。
精神病など、気持ちようなのだから、ただの甘えだ、とも思っていました。

自分が、統合失調症のはずがない。
自分は、もっと別の病気なのではないか。

しかし、この異常の状態から一刻も早く脱したいという思いがありました。
結果、俺は幸運にして早期に薬を服用開始することが出来ました。


■プロセス⑥ 寛解(回復) 2/3

薬を服用しても眠ることが出来ず、睡眠剤を飲んでも眠ることが出来ません。
その日も、俺は眠ることは出来ないものの、
目を閉じてベッドの上に横になっていました。

暗闇の中には無数の「形」が浮かんでいますが、
そこに自分の意志で図形や文字を描こうとは、到底思いませんでした。
しばらく、じっとしていると、その暗闇に無数の光が浮かび上がって来ます。

それは、さながら星空のようで、その光は集まり離れを繰り返し、
やがて編み目状の形に変わり、それがさらに集まって、人の形を取ったように見えました。

その「人」の顔には、複数の顔があり、胸や肩にも顔がありました。
陰部や胸部は省略され、男性のようにも女性のようでもあったと記憶しています。

俺には、その「人」が、宇宙の外側で聞いた「声」の主であることが分かりました。

俺は尋ねます。
「俺は病気になり、罰は十分に受けたと思います。俺が知ってしまったものは、一体何だったのですか?」

その「人」の複数の顔面が、微笑んだように感じました。
しかし、何も答えてくれません。

俺はさらに尋ねました。
「なぜ俺だったのですか?もっと頭のいい人、心が強い人がいたはずです」

その「人」は、何も答えてくれません。

俺は言いました。
「連れて行くなら連れて行って下さい。覚悟は出来ています」

その「人」は手の平を合わせるような仕草をしたように見えました。
しかし、その手は複数あり、その手には何かが載っているようにも見えたのですが、
それが何だったのかは分かりませんでした。

「また会いましょう」

その声は言うと、闇に溶けるようにして消えてしまいました。
目を開くと、そこは自室で、もちろん、そのような人物の姿はありません。
しかし、世界に充ちていた「不吉さ」は消失しているように思えました。

俺は思いました。
「自分は、世界に許してもらえたのではないか」と。


■プロセス⑥ 寛解(回復) 3/3

2014年5月現在、妄想や幻視は消失しており、
思考力が落ちた感は否めませんが、仕事も続けています。

一連の体験により、俺が知ったことは多く、精神病を深く知る機会にもなりました。
病気を内側から知った体験は、レポートとして主治医の先生に提出し、
先生が驚いたり、「他の人にも見せていいですか?」と、
少し興奮気味に話していたのが印象的でした。

寛解に至る過程で得たものも多く、
これらの体験が、すべて妄想の結果だとしても、
そこからは、ある種の「すべての答え」とも言うべきものを考えるきっかけを与えられたような、
そんな気がしています。

寛解後、俺は一度だけ、「声」の主と再会しています。

徹夜が続き、職場の会議室で仮眠を取っていた時、
まぶたの裏側の暗闇、その中で「声」の姿が見えたように感じました。

「このようにして有る、有りて有る事柄、そのことを色々な人に伝えなさい」

ただ、俺はその時ものすごく眠かったので、

「そういうのは教祖様がやればいいと思うんで」

みたいな言い方をして、すーっと眠ってしまったなんてことを書いたら、
色んな人に怒られそうだなぁ、と思いつつ書いてしまったりします。


俺が感じた答えは、
「有りて有り、このようにして有り、そういうものである」
これに集約されるのかも知れません。

俺の体験したことは以上です。

細かい部分の補完や考察等については、
皆さんと意見を交換したりしながら出来るといいな、と思っています。

宇宙の外側は無数の「12の構造」に満たされているとありますが、
これをもっと具体的に表現するとどのようなものになりますか?
12の構造は、俺の私感ですが、
まるで、理科の教科書などで見た細胞膜のように連なっていました。
同時に、脳細胞のようにすべてが結びつき、その結びつきの間にすら、
12の構造がありました。

「12の構造」と呼んでいますが、
これは、12から6へ、6から3へ、3から1へ美しく折りたたまれているように、俺には見えました。

図にしようとしたのですが、絵心のない俺には無理でした。
連続性について、何となく伝われば良いのですが・・・


タコ助さんが統合失調症になったあの体験ですが、体験自体に問題があったのではなく、
それに恐怖を覚えた事が問題というかヒントとなっています。

なぜ怖かったのか?がポイントです。

そして、あの例の存在とはまた会えると思います。
その時は、タコ助さんの視点か大きく変化しているので、もう恐怖を覚えることはないでしょう。
俺としては、この体験も統合失調症の妄想である可能性を捨てることが出来ません。
しかし、色々な方の意見を聞いて、
確かに「恐怖」が、俺のストッパーとなってくれたのかな?とも思い始めています。

実は「例の存在」、俺は「このようにして有る、音のような言葉」と言っていますが、
そこで見た、異形の存在とはろ、寛解した後に一度だけ再会しています。
もちろん主治医に話して、ものすごい微妙な顔で
「幻視にしては変なんだよなぁ、うーん」って悩まれてしまったんですが。

人類は皆統合失調症です。
ご経験なされたことを文章なされていますが、その文章の単語を他の単語に置き換えればご理解できると思います。

私達は何を見ているのでしょう?
俺たちは何を「見ている」のか。
結構、これは簡単なようで難しい問いかけですよね。

あと「統合失調症」は、妄想・幻覚が主症状のように感じてしまうと思いますが、
実は「記憶能力が障害される」病気なので、結構キツいです。
昔は、もっと熟考できたんですが・・・

〉実は「記憶能力が障害される」病気なので、結構キツいです。
〉昔は、もっと熟考できたんですが・・・

十分理解しています。過去はないのに過去や縛られるのが人間の性ですから。
過ぎたことにクヨクヨしていても仕方ないですもんね。
と言いつつ、過去が有無については、俺には分かりませんが、
俺の感覚としては、時間的な過去と未来は同時に発生しているように思っています。

よく言われるよね 過去も未来も現在も同時進行だって
過去と未来が同時に進行するのではなく、すべては同時って感じです。
この感覚から得た話しは、これから書かせていただく中で、
もうちょい詳しく書きたいって思ってます。


ここからは、俺が「世界と一致する」という体験をした時に感じた、
色々なことを書かせて頂ければと思っています。

ここでは、「時間」について、俺が感じたこと。

「空間と時間は同じもの(時空)」という感覚が強くありました。
これは一般相対性理論でも主張されていることですが、俺が感じたのは、
時間も空間と同じである、という感覚です。

たとえ話として、割り箸と輪ゴムを例に出します。
まず、輪ゴムのある一点に赤ペンか何かでマークを付けます。
割り箸に輪ゴムを縛り付けて、輪ゴムの端をグイーンと引っ張ります。

すると、伸ばし始めた頃は、マークの位置の移動の移動は早くなります。
でも、輪ゴムを伸ばせば伸ばすほど、マークの位置の移動は緩やかになります。

「時間」の中にいる人から見れば、時間の流れは一定です。
ちょっと言い方が乱暴なのですが、「時間」の中にいる限り、1秒は1秒なわけです。
「時間が進むスピード」が早くなったのか、遅くなったのかは、時間の中にいる限り分かりません。

引き延ばされた時間から見て、空間の引き延ばしは加速していくように見えます。
俺の感じた「時間」の感覚は、「進んでいる」のではなく「引き延ばされている」というものでした。


時間と空間を引き延ばされる速度を10とした場合、

現在の時間の流れは3~4程度と「仮に考える」としても
空間が引き延ばされる速度は10のままです。

初期の宇宙では、時間の流れは、仮に8~10という大きい数値だったのかも知れません。
しかし、空間が引き延ばされる速度は10のままです。

現在も、初期宇宙も空間が引き延ばされる速度は10です。
これは不変的な速度であり、「時間の引き延ばされる速度」と言うよりも、
本質的な「時間」、これが上記した10のように、俺は感じています。

これは、空間と時間の考え方を入れ替えても同じことです。
ただ、俺たちは「時間の中」にいるため、その対称性を体感できないだけ、
なのかも知れません。

つまり、物理学で言う相対速度見たいなものですよね?
相対速度です、時間を電車や車、規模を大きくすれば惑星系に置き換えただけです。
ただ、光速度不変の原理と、この「時間が引き延ばされる速度」が一致しないことも事実です。
ここについては、俺の文才がなくて、書き方を考えあぐねています。


光も、この「時間」の中にありますが、
その速度は、どの速度系から見ても不変です。

これは、時間と空間の引き延ばしによって生じるもので、
大質量天体の近くを通った光は、平坦な空間を通った光よりも、遅く到達します。
大質量天体の周囲では時空が歪められ、その時間系では速度は一定であるにも関わらず、
その時間系の「外」から見れば、速度が落ちたように見えるというわけです。

仮に、自分たちが大質量天体の時間系に属する「内の時間系」にいたと仮定した場合、
光速度を計測したとしても、「外の時間系」と変わりません。
これは、「空間と時間が引き延ばされる」時と同じです。

「相対速度」のように、小さな時間系では体感できるものではなく、
大きな時間系で生じる出来事のように、俺は感じています。

そいう意味では、「相対速度」とイコールとは言えず、
これを的確に表した言葉を見つけられません。


「相対速度」は、ほぼ同じ時間系内で観測した結果です。
(時速4キロの徒歩と、時速100キロの電車でも厳密には時間系は異なるとは思いますが)

「大きな世界」では、「内」と「外」の時間系を見ることが出来るので、
空間の引き延ばしによって、時間も引き延ばされ、
時間が引き延ばされれば、同じように空間が引き延ばされます。

「普通の世界」では、同じ時間系の中にいるわけですから、
そこには相対速度の原理が成り立ちます。
すべては、ほぼ同じ時間の中にあり、早い、遅いを明確に示すことが出来るわけです。

では、「小さな世界」では、これをどう扱えば良いのか、という話になります。
ミクロの世界は「大きな世界」と似ているように感じています。

「大きな世界」では、時間と空間により、対象の速度が変わり、
「普通の世界」では、基準となる定点がある結果、速度の比較が可能であり、
「小さな世界」では、空間と時間が逆転しているだけのように、俺は感じています。

上手い言い方が見つからないのですが、
「大きな世界」では、複数の時間に、1つあり、
「小さな世界」では、1つの時間に、複数ある。
こんなイメージです。

全然理解できなかったけどタイムリープは不可能なのかな
一般相対性理論に基づけば、自分の「時間」を遅くすることで、未来に行くことは出来ると思います。
ものすごい重い星の周りを、ものすごく速い宇宙船でグルグルと回っていれば、
周囲との時間の差が少しずつ開いて行くので、そういう意味ではタイムリープは可能です。
俺たちにも質量があるので、非常に厳密に言えば、常にタイムリープを体験していることになりますが、
それは非常に小さな時間なので、無視できる範囲です。

52 :
自称未来人が空間と重力を操作できればタイムトラベルできるといってたな
空間と重力を仮にコントロール出来たとしたら、タイムリープは可能だと思いますが、
タイムトラベルとして、別の時間線にある同一の存在が(例えば、現在にいる>>52と、1年前の>>52が)
1年前に同時に存在することは難しいと思います。

ただ、マイナスの質量を持つ(故に観測できない)物質世界があるなら、
そこでは「時間の引き延ばし」もマイナスになるはずなので、相対性理論に因らなくとも
タイムリープは出来るかも知れません。

・・・この辺りについては、「世界と一体化する体験」の際に知識を得たのですが、
あまりにもエキセントリック過ぎるので説明は割愛します。

世界と一体化したことで、人生を生きる上の実際的な手助けとなったことはありますか?
仕事や人間関係などに生かせたりとか。
それが、特に無いのが困った所です。
神秘体験とも言えることを経験した人は「人生が変わった!」とか感じるらしいのですが、
俺にはそういう感覚は全くありません。

ただ、病気になってものすごく辛い思いをしたので
「4徹ぐらいなら全然平気!」と思いつつ、今も仕事していますorz

ご回答ありがとうございます。「特になかった」のですね。
「特にない」と言うより「自覚がない」という言い方が正しいかも知れません。
年配の人が若い人を見て「今の若者はなっとらん!」と言うのと同じです。
過去の自分と、現在の自分の違いについては、認識が変わってしまえば気づくのが難しいのと同じなのかも知れないです。

神田真代 ◆dnHPdelaoM
たこ助さんが体験したことは一種の悟りだと思います。

人間が抱く全ての好奇心というものは、最終的には悟りに収束します。
ただ、悟りには一つの大きな性質があります。それは、”思考力の著しい低下”です。
奴隷を使役する貴族が反乱を防ぐために奴隷に必要以上の力を持たせないのと同じように、
神(この表現はあまり好きじゃない)は人間を作る過程で人間が自分を超越しないように思考の制限を設けました。
パスカルは「人間は考える葦である」という言葉を残しました。まさにその通りです。
何が上にいるのか分からないこの状況を解決するには「思考」こそが、人間にできる唯一の神に対抗する手段です。
もう悟りとは何かお分かりでしょう。
つまり、悟りとは”神(世界)の人間に対する制限のこと”なのです。
俺は自分の体験に自信を持つことが出来ていません。

自分が一体どのような状態に陥ったのか、その結果として俺は統合失調症を罹患しましたが、
「出発地」と「道筋」、その「目的地」は知っていても、
「門の叩き方」と「中に何があるのか」、そして「そこで何を知ったのか」を理解することが出来ていないのです。

そのため、神田さんの「悟りとは制限である」という言葉は、非常に腑に落ちるものです。
俺も「神」という表現は得意ではありませんが、
全知全能の存在、あるいは超越性を、「目的地」に置けば、確かに説明がし易くなります。

しかし、俺が出会ったものを「神」とした場合、一つ解せない点があります。
自分の理解では、あの「声」の主は、内面にあるものでした。

仮に、それが「神」という存在であると想定したとしたら、
なぜ自分の中にある「神」ではなく、外側にわざわざ移動した「神」を、
人々は信仰するのか、という疑問です。

そして、「神」あるいは「声」とは誰もが持つものであり、すべての人々に共通した声色を持つもののはずなのに、
なぜ、人々は、それを「別々の神」として信仰するのでしょうか。

「声/神は内面にあった」「声は誰もが持つものである」とのことですが
自分の中に神/導き手がいるのであれば
その声に自分の疑問をぶつけてみることはできないのですか
世界と一体化した時だけ現れる感じられるのでしょうか
俺の感じた限り、あの「声」は決して導き手ではないと思いますが、
あの「声」に尋ねても、多分答えは聞けないと思っています。

「世界と一体化する方法」は覚えているので、再びやろうと思えば可能ですが、
次に「あの場所」へ行ったら、俺は間違いなく「その外側」を目指してしまいます。
多分、そうなれば戻って来れないような気がしています。

そのような体験をしたことで、日々の他人に対する対応や考え方に変化はあったかお伺いしてよいでしょうか。
例えば、表裏一体の考え方が少し変わったかも知れないです。
「成功」と「失敗」は表裏一体と言いますが、実際には、これらは「結果」なんです。
では、これからの反対は何かと言えば「何もしないこと」。
というような、ちょっとひねくれた考え方になりましたw

「外側」には行ってはいけない理由、知りたいですね。
「外側」に行ってはいけない理由は、平たく言えば、俺の心が死んでしまうと思うからです。
たとえ話としては、テレビでやっているマンガ、その登場人物が、テレビの外側へ出てしまう感覚です。
テレビの外側を知れば、その登場人物は消えてしまうわけです。

61 :
中に何があるのか、そこで何を知ったのか、この2つの理解は
たこ助さんが再びダイブしてもあなたが人であり続ける限り絶対に分かりません。
ただ、一つだけ言えることはたこ助さんが出会った声というのは、紛れも無く内面にあるものです。
それだけは事実です。
Causal closure of physics、Qualeは物質へ干渉し因果律を支える、
なども今なって思えば正しいといえる。(?と思ったらスルーで)

>なぜ自分の中にある「神」ではなく、外側にわざわざ移動した「神」を、人々は信仰するのか

これこそがエゴの正体です。
「Certa amittim dum incerta petimus」
不確かなものを求める僕らは、だから確かなものを取り落とす。(これもスルーで)
Causal closure of physicsは、
直訳すると物理法則に閉鎖された因果って意味ですが、
これは、因果関係のステージは閉じられているという意味でいいんでしょうか。

Qualeはよく分からないのですが、上の意味を考えると「観じる」とか、
そういう意味なのかも知れないなと思っています。

俺は、因果性がステージを飛び越えている感覚を一体化の時に感じました。
しかし、確かに体験した「宇宙の外側」の原理は、閉鎖的なのかも知れません。
そこを知るためには、そのステージに立たなくてはならない。
しかし、それを「観じた」と思っても、それは影でしかないのかも知れません。

それが、
Certa amittim dum incerta petimus(確かラテン語のことわざですよね)
につながるということでしょうか。
なるほど、と思いました。

不確かなものを求めるが故に、確実性の影しか追うことが出来ない。
それこそが「エゴ」であり、「悟りによって設けられた限界」であり、
すなわち、それは「真実ではないかも知れない」という不確かさなのかも知れません。

「そういうものである」という確信こそが影であり、
「有りて有る」も、>>61で学ばせていただいたことを考えれば、影なのかも知れません。
では、その実体とは何だったのか。
それこそが、俺が感じた「恐怖」そのものなのかも知れないな、と思いました。

>「神」あるいは「声」とは誰もが持つものであり、すべての人々に共通した声色を持つもののはずなのに、
>なぜ、人々は、それを「別々の神」として信仰するのでしょうか。

これは、一体化体験の中で得たものでしょうか?
「世界と一体化した体験」の時には、まるで霧がかかったようでした。
言葉にする方法が分からない、と言う表現が適切かも知れません。

「神との出会い」と言うと何やら宗教色が強くなってしまいますが、
この言葉と置き換えた時に、疑問に思いました。

俺はたまたまこのスレを見つけてさっと読んだだけの者だけどさ
適当なことばっか言って悦に浸ってる偽教師どもの相手なんかやめたほうがいいと思う
そいつらの書き込みはくだらない偽者すぎて寒気がしてくる
それよりたこ助さんは自分の体験を深めた方がいい
また瞑想ごっこモードに入ってから
その声の奴を呼んで「何もかも全てを教えてくれ」って素直に頼んでみそ
おそらく、俺が「あの場所」で出会った声にお願いしても
これ以上を知ることは出来ないかも知れないです。
あの声は俺を迎えに来たのではなく、ただ「そこに有りて有る」だけのように感じています。
ただ、それならなぜ「帰りなさい」「色々な人に伝えなさい」と言ったのか。
俺を迎えに来たという意思が有るのだとしたら、これらの言動は不合理なものです。
つまり、「そこに有りて有る」ものが、今の答えと考えます。

それと、もし俺に教えてもらったことに嘘が含まれているとしても、
それを含めて考え答えが出ればいいと俺は思いますよ。
嘘は恐れに基づいて生まれます。
エゴ(自我)と真実も恐怖によって隔てられています。
そして自我は理性や建て前などの嘘で歪められているのかも知れません。

ただ、「声」に何かをたずねるのは、一つの方法だと思いました。
俺はもう一度、あの場所へ行く必要があるのかも知れないです。

時間うんぬんの話もさ、俺も体から出て上昇していって地球を外から眺めたら、
無限にある地球が見えて、無限にある過去、無限にある未来、その全てが無限にある今、
全てが一瞬の一コマ、あらゆる瞬間の可能性の全てが既に同時に存在してるって感じで見えて、
自分の意識(個別性)の光線がそのどの瞬間のどこの誰にフォーカスしてるかが、
肉体人間を生きるってことだ!とか、そんな体験をしたんだよね
無限にある地球というイメージは、
俺の感じた「複数の状態が同時に共存している」という感覚と似ています。
ただ、この感覚は非常にエキセントリックな結果を導き出してしまうので、
ここでは割愛します。

俺の認識では、意識と世界は分離されたものでした。
俺たち生命とは、この世界を厳密な意味では見ることが出来ません。
そこには、俺の認識の限りですが、12の構造による、いわばフィルターのような物がかかっていました。
しかし、これらの12の構造によって個は有り、
その表現の一形態として「意識が放つ光線のフォーカス」という表現は、
見ている場所が違うだけで、とても的を射ていると個人的には思います。


明日はお休みなので、久しぶりに公園で「瞑想ごっこ」をしてみたいと思います。
体験しないと分かりづらいと思いますが、一度「あの場所」へ行く方法を覚えると、
そこに至る体験の内、いくつかをジャンプすることが出来ます。

小学校の時に、学校までの電車の乗り方を一度覚えれば、
後は簡単に行けてしまうため、それが空気のようになる、というのと似ています。

ただ、「あの場所」へ行けば、俺は確実に「もっと広がりたい」という、幸福に身を委ねてしまいます。
そして、仮に「声」に何を尋ねれば良いのか。
こんな時間に書き込む内容でもないのですが、アドバイスがあれば、ご教示いただければ嬉しいです。


87 :たこ助 ◆6KctQgwHqc:2014/05/07(水) 21:23:25 ID:KPSTbrXA0
やはり、俺は自分が病気であることを再認識する一日でした。

そこで感じたことはエキセントリックすぎて、思い出すのも恥ずかしいです。
俺は間違いなく統合失調症を罹患しており、未だにその影は色濃く自分の中に残っているようです。

統合失調症という認識を、意図的に廃することが、このスレの目的でした。
しかし、俺の見たものは明らかに病的です。

俺の感情としては、この病気に一人でも多くの人が罹患せず、
正常な精神活動に基づき生活して欲しい。
スレの趣旨と反しますが、これが帰結としての感想です。


「あの場所」の外側で見たものは、あまりにエキセントリック過ぎました。
そこで意見した様々な対話も、俺の妄想としか思えません。


ここからは、俺が5月7日に体験した出来事を書かせていただければと思います。
表現方法に少し苦慮する部分や、エキセントリックな部分があり、
自分でも非常に病的な体験であると自覚しています。
これを神秘体験と見るか、統合失調症による妄想と見るか、
判断は読まれる方にお任せします。

俺としては、後者として見ています。


■瞑想ごっこ

その日は朝から晴天で、自転車で公園まで向かいました。
芝生が生えた小丘があり、そこに生えている木の根元に腰を下ろして、
俺は「瞑想ごっこ」と自分では呼んでいる、思考遊びを始めました。

慣れてくると自由に図形を操作したり、文字を複数浮かべることは簡単にできるようになります。
周囲の音が、まるでフィルターを隔てたように、遠くで聞こえるような感覚と、
自分自身が、周囲と一体化していくような感覚が始まると、
それが、瞑想ごっこが深まってきた証拠です。

よく、本当の瞑想では「無になる」と言いますが、俺の方法は少し違います。
何も考えなくとも、自分の奥底から、思考が湧いてくるとでも言えばいいのか。
その「内なる声」と書けば聞こえはいいですが、その思考に身を委ねていきます。

久しぶりだったので、この思考に身を委ねるのに、少しだけ時間がかかりました。
しかし、一度身を委ねれば、あとはすべてがオートマチックです。


■「幸福感」に身を委ねない

今回の目的は「声」に、いくつか尋ねたいことがあるということ。
加えて、「あの場所」の外側へと向かうことにあります。
色々な方の意見を聞かせていただいていたので、「自分が広がり続ける」という感覚に加えて、
自分が、「世界の上にある世界」とでも言えば良いのか。
「あの場所」が宇宙の外側ではなく、自分の内面であり、この世界とは勝手が違うのだと言うことを、
十分に自分に言い聞かせました。

強い幸福感に包み込まれ、すべてのストレスから解放されたように感じましたが、
それに身を委ねすぎないように気をつけました。
確かに、この幸福感にすべてを任せれば、一気に自分は広がることが出来ます。
しかし、この幸福感は影でしかなく、自分の導き手ではないのだと言い聞かせました。

この幸福感がなくとも、自分は広がり続けることが出来る。
前回の体験として、幸福感に理性が押し流された結果、大変な恐怖を経験することとなりました。
そうなれば、俺は二度と戻って来ることが出来ないと思えたのです。


■世界との一体化をより詳しく

やがて、自分はエネルギーとなり、地球を満たし、太陽系を満たし、
やがては宇宙をも満たして行きます。
「世界」と一つになる体験について、そこでの感想を少しだけ詳しく書かせていただきます。

「世界を鳥瞰する」という言い方が正しいのかどうか分かりませんが、
この体験の時に見る世界は、非常に美しいものです。
俺は数学がカラッキシなのですが、世界を満たしているのは数的公式であり、
それが複雑に絡み合う様は、まるで寸分違わず噛み合った歯車を見ているようです。

「世界と一つになる」と言えば、自分が神となったように感じるのでは、
と思うからも知れませんが、俺の感想は違います。

仮に世界に意志があるとしたら、
無数の美しい歯車が、規則正しく回転し、
エネルギーを伝達する様を眺めることが出来るかも知れません。

しかし、世界にとってその働きは、自分の意志でコントロール出来るものではありません。
すべてと一体化しても、宇宙は自らの意志で物事を決定することが出来ないのです。

俺は優越を付けることが得意ではありませんが、
人間は自らの意志で、自分の行動を決定することが出来ます。
そして、人間はその意志によって、この宇宙を埋め尽くしている「透明な歯車」、
この動きをコントロールすることが出来るのです。

世界に意志があり、透明な歯車を見る術があったとした場合、
この地球の周囲の歯車は、しばしば規則的ではない働きをするのを見るでしょう。
その時、宇宙は「あの星には『神』が住んでいるのでは」と思うかも知れません。


■幸福感のない「あの場所」

宇宙を満たした俺は、すべてと一体化し、宇宙の外側へと向かいます。
複雑な回路とも言うべきエネルギーの流れに乗って、俺はさらに広がり続け、
再び、「あの場所」へと訪れることが出来ました。

12の構造が無限に広がり、そこに無数のエネルギーが合流し、
複雑な光の流れを作り出しているように見えました。
その時点で、自分には幸福感がないことが、従来の体験とは異なっています。

ただ、考えていないのに考えている、とでも言えば良いのか、
思考が次々と自動的に生まれては消えていく様子は、非常に忙しなく感じました。

さらに、さらに自分は広がり続けることが出来るように思いました。
無数のエネルギーの流れに乗って、俺は大きく広がろうとします。


■「声」との対話

さらに広がり続けたい、この外側へ向かいたい。
この欲求は、危険であることを知りながら止めることが出来ません。

「この外側には何があるのだろう」

それを知りたい欲求に身を任せようとした時、その音は聞こえました。
何度体験しても、それは「音」であり、耳で聞くものではないように思えます。

「この先は見ることはできません」

その声を幸福感の中で聞く時と、それが無く聞く時とでは、印象は異なっていました。
身を焦がすほどの至高の体験のように思われた、その「音のような声」からは、
半ば焦りすら感じられるように思えました。

「対話をするために来た」と俺は言いました。
声は何も答えません。

「この『声』は、自分を導くためのものなのか」と尋ねると、
「この先へ行くべきではありません(見るべきではありません)」というニュアンスの答えがありました。

「本当にこの『声』は、有りて有るものなのか」と尋ねると、
「有るとは、それがが成りて有るものです(成りて成る、いかようにも成るものです)」というニュアンスの答えがありました。

「なぜ、この先を見てはいけないのか」と尋ねると、
「この先には成る前(有るより以前)のものがあります」という答えがありました。

「それに触れることが、いけない理由とは」と尋ねると、
「成ることこそが有るであるからです」という答えでした。

「この『声』は神によって作り出された制限か」と尋ねると、
「成りて成るものによる制限ではなく自分自身の制限です」と答えました。


■「声」の向こう側へ

「成るものとは神か」と尋ねると、
「その解釈をする場合もあるでしょう」と答えました。

「今の自分には幸福感はなく、幸福感によってではなく、この外側へ向かう」と言うと、
「声」は何も答えませんでした。

もっと広がりたい、もっと広がり続けたい。
エネルギーの流れに乗り、12の構造に満たされた「空間のような場所」へ、
自分を広げ始めると、「声」は

「そこで見たものを伝えなさい」

と言いました。
俺の回答は決まっていました。

「伝え方は宗教性のあるものではなく、事実として伝える」

声を振り切り、エネルギーから、まるで「光」のようになった自分は、
1つ1つの12の構造を満たして行きます。
この「構造」を受け入れると、再び自分がオーバーヒートしてしまうことを知っていたので、
ただ、エネルギーに身を任せるだけです。


■「その場所」の外側

大きく大きく、しかし、そこでの体験は「自分が広がり続ける」のではなく、
自分が「引き延ばされている」ような感覚でした。
すべてを満たし、すべてと一体化し、
流れ込もうとする「12の構造」を、「理解したい」という好奇心を打ち消すように。

すべての12の構造を満たした時、俺はそこから「その場所」を眺めていました。
その時の感想を書くことは、非常に難しいのですが、
「すべては波だったのか」と言う驚きが、第一にありました。

このような書き方をすると、非常にエキセントリックなのですが、
「この世界」はありませんでした。
無数のエネルギーが交換される空間において、「宇宙」とは、エネルギーが交換される結果、
エネルギーの集中が生み出した、いわば「影」のようなものだと思えました。

この宇宙とは波であり、表現の仕方が見つからないのですが、
その波が一際大きくなる場所に、物質が生まれているように思えたのです。
「波が一際大きくなる」には、法則性があるように思えましたが、
俺の悪い頭では、それを解釈することは出来ませんでした。

ただ、その「波が一際大きくなる」ことは、
宇宙を満たした「透明な美しい歯車」と、原理が似ているように思えました。
その「波」も、おそらく人間の「意志」と関係があるのかも知れません。

俺は、引き延ばされ続け、広がり続け、「その場所」の外側へと向かいました。


■「成るもの」を見る

強烈な重圧のようなものを感じました。
海底で強烈な水圧に押しつぶされるような、
あるいは、高い場所から落ちて行く時に感じる風圧のような。

意識がもうろうとして、必死になって「見る」ことしか出来ませんでした。

「その場所」の外側には、漆黒の闇と、無数の光がありました。
その光は大きな流れとなって、まるで銀河のような流れへと溶け込むように、
何もかもが、あまりにも美しく、俺の稚拙な文筆では、表現できません。
それは、まるで宇宙のようでした。

俺は、そこを見ていますが、見ていません。
既にそこにある「自分」は、「自分」ではありませんでした。
さらに大きな意志とでも言えば良いのか、俺は巨大な精神活動のようなものの中で、
そこで僅かに「自分」を認識しながら、かろうじて、その場所を見ていました。

自分は、自分ではない。
そして、「成りて成るもの」の内側に自分たちはいるのです。

それは、絶望にも近い、何もかもすべてが分かったような、
悲しみにも似た感情でした。

美しすぎ、あまりにも悲しく、そこを見るべきだったのかどうか分からないまま。
俺はゆっくりと目を開きました。
既に、とっぷりと陽は落ちて、公園は夜になっていました。


■体験を通じて

俺は、これらの体験を「統合失調症」による妄想だと思っています。

そこで知ったこと、感じたことは、あまりにもエキセントリック過ぎて、
あの絶望感にも似た、しかし諦めではない「深い納得」の気持ちは、
日常生活では決して得られない、いわば病的なものだと言うのが感想です。

「成りて成るもの」とは「いかようにも成るもの」と言い換えることが出来るかも知れません。
あるいは、それを「神」として表現したなら、腑に落ちる考え方です。

しかし、果たして「神」とは、本当に有るのでしょうか。
そして、自分とは、本当に有るのでしょうか。
なぜ、人は「神」を感じ、その神とは「成りて成るもの」なのでしょうか。


上の質問は、「エゴ」が生み出す影の問いかけなのでしょうか。
エゴがある限り、真実には近づけないのかも知れませんが、
エゴがなければ、真実に近づこうとすることが出来ません。

自我を無くすことが果たして、本当に悟りなのか。
そして「悟り」とは、「成りて成る」ものと一体化することなのか。

疑問は尽きませんが、
以上が俺の体験したすべてです。

長々と失礼しました。

>>自我を無くすことが果たして、本当に悟りなのか。
これは自分も疑問です。自我を無くしてまで悟りを得る必要性がなかなか分からない。
自我を無くすことが「悟り」の最終目標だとした場合、
そこには「自分」がなくなってしまって、本能と理性だけが残ってしまうんですよね。
自我が「無い」という表現については、色んな解釈があるのかも知れませんが、
個人的には「自我に自分が一体化する」という解釈であれば「なるほどなー」とは思うんですが。

タコ助さんは、私が思うに、見る者と、見られる者がない合一状態と
言いますか、、そんな状態を認識されたのだと理解しました。
(声の主は内なる者)との見解ですが、正しいと思います。
(何故人は外側の神を信仰するのかとの疑問を持っているようですが、)
それは、外側の神を信仰することを通して内側の神を認識しようとする
昔同じように悟った人が考えた、覚醒プログラムの一断片ではないでしょうか。
神社の鏡も同じ役割だと思います。
観測者の有無は、とても興味深い考え方だと思います。
俺の聞いた「音のような言葉」は、体験すれば「外にある」と感じられるため、
内を知るため外を知ろうとするという解釈は、腑に落ちます。
神道に明るくないのですが、確かに「体の中にも神様がいる」とする解釈は、
これに近いのかも知れません。

疑問2(なぜ、人々は、それを「別々の神」として信仰するのでしょうか。)
とありますがこれは、全てが一点だとしたら、本来特に問題ないと思います。
ただし神を語り争う人達は、他人との違と(外)、その個別の中に在る共通な(それ)を感じることが
できないからだと思います。なぜならば個人的自我が強すぎて、その違いを許さず
認めない人は、その共通点も認めないから、(それ)を自分だけの物にしたい
と思うからだと思います。全てが点から始まったのであればそれを知る人には、このような努力は
無用の産物だと言う事だと思います。しかし、分からない人には神と言う言葉や
悟りプログラムは必要なのかも知れません。湾曲された宗教や個人的な神が全ての人類の元凶だとしても。
「複数いる神」の共通性を認められない、という解釈も興味深いですが、
「自分だけのものにしたい」という点には疑問です。
俺の私感ですが、それは「一人一人の中にあるもの」でした。
同時に、それらは結びつき合い、一つでもあるはずなのに、
それを占有したいと考えるのは奇妙なことです。

なぜ、神性は個々ではなく、個となってしまうのでしょうか。

神性は個々でもあり個でも在ると思います。ただ形や名称にとらわれる為
におこる錯覚に落ちたとき時、個々と個の合一が分離すると言いますか、、、
繋がりを認識できなくなり、人は不安になり不安は悲しみ、恐怖に変わり
現実を否定し、ごまかす為の快楽依存又は破壊行為につながると思います。
瞑想で多幸感を感じるのはその繋がりを強化することができるからだと思っています。
(タコ助さんのレベルに行かずとも。)

タコ助さんは(声の主)と対話する私(タコ助)さんの自我を両方を同時観測している、
第三の視点と言いますか、、その両方を見ている意識はだれだとおもいますか?
又その意識が在ってこそ対話の観測が可能なことには気づいていますか?
確かに、「形」としての神性にこだわる気持ちは、誰にでもあるものですね。
仮に俺が体験したことが事実だとしたら、
神は一つでありながら複数ある、という答えになり、
その二面性のどちらに認識の重きを置くかで、神性は性質を変えるのかも知れません。

俺が一連の体験を客観視できている理由は、
ここで対話していた「自分」は、自然と沸き上がる思考であって、
まるでテレビ画面を見ているように、両者を眺めることが出来たことにあります。
その時の自分は「録音テープ」のような自分と、それを聞いている自分とが分離していたように感じています。


俺から質問させていただいて良いでしょうか?
エゴとは「自我」とも言えると思いますが、
そもそも、エゴに「なぜ?」という探究心はあるものなのでしょうか。

厳密に言えば、エゴに好奇心は無いと思います。

エゴは分離故の存在なので、分離のない状態は自己の消失を意味します。
なので、エゴは自己保存の為に、手当たり次第ありとあらゆるものを利用します。

例えば、『自分とは何か?』という事を探求している人物がいるとします。

エゴの視点から見れば、これは当然の行動です。
探求を続ければ続けるほど、自分自身の存在を定義化や固定化できるからです。

エゴは自分自身を『有りて有るもの』としたいのです。

これを好奇心というならそう呼べると思います。

しかし、分離状態の僕らの心の中にはには、エゴとは違う部分もあり、
それがエゴの行動を完全に利用しています。
それは、エゴが自らを完全に固定化する為の行動を利用しているのです。

今回のたこ助さんの体験は、エゴが自己探求という形で自らを固定化したいが為に起こしたことですが、
心の中のエゴとは違う何かは、間違いなくエゴの行動を利用していたと思います。

ところで、たこ助さんが自我をかろうじて維持したまま、あの世界にいきましたが、
自我にとっては恐怖だったと思います。

〉自分は、自分ではない。そして、「成りて成るもの」の内側に自分たちはいるのです。
それは、絶望にも近い、何もかもすべてが分かったような、悲しみにも似た感情でした。
美しすぎ、あまりにも悲しく、そこを見るべきだったのかどうか分からないまま。

エゴが目指した先に、自分が存在していないことを知ったら、エゴは絶望するしかありません。
エゴにとっては最大級の恐怖でしょう。

逆に、エゴではない心の部分は、月並みな表現ですが、あの世界を美しく調和の取れた世界と感じたでしょう。

僕は、もしたこ助さんがエゴ無しであの世界に到達していたら、もうこちらに帰ってはこなかったと思います。
エゴがあったからこそ、こちらに戻ってきて、皆に体験をシェアできているのでしょう。

それから、敢えて時間のルールの中で話すなら、
最終的に『成りて成るもの』はこの世界とともに消え去ると思っています。

その先のことは、何が起きるのか表現さえ不可能です。

〉「エゴの発生」という究極的な部分への好奇心もありますが、

なぜ分離のが起きエゴができたのか、
なぜ成りて成るものが自らを消し去る(この点はたこ助さんは述べてません)のか、
ある程度はヒントらしきものはもらっていますが、はっきりと、
僕らは真の意味では理解できないとも言われていますし、僕もそう確信しています。
エゴに「探究心」がない、この意見には俺も賛成です。
そして、エゴとは本質的に「自分が自分である」という自信がないもののようにも思えます。

レスを拝見して、
利己的な衝動と、本能的な衝動、これに加えて道徳的な衝動(これもエゴの一部かも知れませんが)。
この3つがせめぎ合い、エゴとは生まれているのでは、と思考しました。
必ず“有る”ことを排他的に選択するエゴは、俺を道案内し、
俺に「エゴ」と、「それ以外の何か」の境界に見せたのかも知れません。
しかし、一つ腑に落ちないことがあります。

俺の体験が事実であったとした場合ですが、
エゴは「自分とは何か」を問いかけ、その先を見せようとしました。
しかし、そこで俺は大変に美しい空間が広がっていることを感じ、同時に「自分が無い」ことを体験しています。
これは不合理なもので、まるでエゴが「行くべき場所」に案内しておきながら、
その場所を知らなかったように思えるのです。

これを合理的に解決する答えは「その場所は知ってはならなかった」となりますが、
それでは、俺をその場所へ向かわせたのは、本能的なものだったのでしょうか。
疑問は尽きません。

>なぜ成りて成るものが自らを消し去るのか
これは、俺が体験したことによる感想なのですが、
「成りて成るもの」も、「時間のようなもの」の制限を受けているように思えました。
なぜなら、俺が「自分が無い」場所で見た時、「空間のようなもの」が広がっていたためです。
空間と時間は同一のものです(その場所でも、この対称性が守られているかは分かりませんが)。
よって、「成りて成るもの」も、俺たち人間とはスケールが違うかもしれませんが、
変化があり、限りあるものではないか、このように思っています。

その声の主とタコ助さんの自我、とのやり取りを
観測する(私)があって、その私の意識の内の中の出来事と言えないえ
ると思います。その私(意識、見るもの。)が観測者だとしたら
見られる者(声の主と自我)は双方とも、私(意識、見るもの)の映し出した産物
想念による自我と自我との対話になると思います。
その自我と自我の対話を見ている私とは誰か?とその私が私に問うことができれば
そこで、初めて(私は在りてある者)または、(あるがままに在る者)
と、一なる者、と繋がりのある自我が苦肉の策の言葉で答えるとおもうのです。

自我はエゴとは厳密には違うと思います。意識(一なる者)の内から私(想念1)が生まれ
私(想念1)の内に想念2(私の思い、思考)が生まれそして最後に身体を等して物質世界に反映されます。

エゴとはこの過程で言えば、想念2にあたると思います。

ここで言う意識(一なる者)は万物に在り、全てを貫く人が神と例えた者だと思います。
ここで言う私(想念1)思考や思いを観測する意識は普段の人間が活動する意識です。
ここで言う(想念2)私の思い、思考に執着しエゴが強くなると個と個々の分離が起こります。
この例えでいえば、(個)が一なる者で個々が私(想念1)です。故に想念2が強くなると
個と個々を見失い分離したよう錯覚すると思うのです。しかし本当は、一なる者から、私も想念も
身体を通して作り上げる物や行為も、全ては一なる者なくしては存在できないのです。
説明上分離と言いましたが分離は不可能であり見失うだけです。

タコ助さんは(覚醒状態では思考力が落ちると)言われていますが、それは正しいと言えるのです。
思考とは恐怖の回避です。又はあるがままの現実世界の否定ともいえます。
世界を完全に在るがままに肯定するが故に多幸感と美しい世界が目に映ります。
最後の最後で恐怖に落ちた体験は想像するだけで大変だったと思います。
自我と自我との対話であったとしたら、疑問が残ります。
その時、俺はそれを客観的に見ている「視聴者」でありながら、
確かな意志を持ち、「音のような言葉」と対話しているのです。

確かに、その時は思考せずとも思考でき、「思考」と「自分」を分離することが出来ましたが、
果たして、それは自我と自我との対話だったのか。
仮に自我同士の対話だとしたら、一方は進むことを拒み、一方は進むことを肯定していました。
この矛盾は、どのような働きで生まれたのか。
と、疑問は尽きませんね。

「神を見失う」という考え方は面白いと思います。
果たして、万物にある「神性」が宗教発生と関係があるのか。
精神活動の発達により、それを見失うことこそが「今を生きる」ということなのか。
なかなか難しい解釈です。
(俺は、色々と語弊があることを承知の上で言えば「今を生きる」ことを選んだわけですが)

これは、テレビの実在と、番組の非実在とも関わってくると思いますが、
これは人間の「脳の働き」にも言えることかも知れません。
「見ているもの」が事実なのか。
「観ずるもの」も事実なのか。


俺の感じた矛盾は、
不可侵な場所へ進むことを禁じる立て看板があり、
しかし、その隣には、通行可能の立て看板がある、という表現が近いかも知れません。
この2つの中間的な解釈は「あなたのご自由にどうぞ」ですが、
では、なぜこの立て看板が立てられていたのか。
葛藤とは、その立て看板を見た俺の主観的なものです。
よって、疑問は「この立て看板の意味」ここに帰結します。

立て看板をエゴに置き換えます。
エゴは「禁じる」と「通行可」の中間として「自分で選べ」と、俺に選択させたのです。

なぜエゴは、
「この2つの選択を自分に見せたのか」この疑問はもちろんですが、
俺の疑問は、
「その時点でエゴは俺に選択を掲示したのか」という点に帰結します。

ある場所で、エゴに合理性は無いと書いたことがあります。

なので、たこ助さんがお考えの様に、エゴは行き先を知りませんでした。
なので、エゴは「行くべき場所」へ、たこ助さんを案内したつもりは全くありません。

自己を強化できる、良さそうな場所があるから行ってみよう、という感じだったのでしょう。

例えると、「この株を買うと絶対儲けますよ!」と勧められたので、その気になって買ってみたら、
その会社があっという間に破綻してしまあい大ショック!という感じでしょうか。
「エゴによる道案内ではない」とした場合、
この部分に宗教的な「人智を超えた存在」が入り込む隙間が出来るように思いました。
エゴによって導かれたのではないとしたら、自分は高次元の知性に選ばれたのだ、と思ってしまう。
しかし、それは大きな間違いだと俺は思います。

エゴの無い自分は想像が難しいですが、
俺が体験した出来事は、以前にレスで意見をもらった通り、
エゴによって後付けされた物語なのかも知れません。

しかし、エゴと共に有る自分たちは、エゴが付けた物語から、
そこに埋もれた「事実」を読み解くことしか出来ないのかも知れません。

ただ、この考え方で得たものは、
次に「瞑想ごっこ」をする時の目的になりそうです。
それは、「抽象の世界」で「自分」を見るという目的です。

俺は思慮が浅い上に無知なので、今後も色々と教えていただくことがあると思いますが、
「成りて成るもの」がある世界で「自分を見る」、
これが出来れば、何かを得ることが出来るような気がしています。

思考と感情がなければ、個っていう概念は
生まれないよね?もし自分に思考も感情も
なければ、世界をどう眺めるのだろう。
「個」は、思考と感情が無くとも存在出来ると思いますが、
それを認識して「これは個である」と考えることは出来ないと思います。
仮に思考と感情がない状態で世界を見たとしたら、
それは「事実そのもの」と言えるかも知れません。

しかし、それを「事実」として理解しようとしないのですから、
それはただ「有る」だけです。

たこ助さんは瞑想中、感情があるよね?
幸せな気持ちとか、高揚感みたいな。
感情って身体の一部が反応することだと
理解してたけど、たこ助さんは瞑想中の
感情は身体で感じているのですか?
俺が瞑想ごっこをしている時は、感情があります。
ただ、表現が難しいのですが、その時は興味の無いテレビ番組を見ているような感じです。
一方で、そのテレビ番組を興味津々に見ている自分もいます。
これらを体が感じているものなのか、と聞かれると答えは、
「感じているが、感じていない」という表現になってしまいます。
当事者である自分と、それを客観的に見ている自分、この2つが同時にあります。

エゴって脳含めた肉体なのかな。
肉体の死がエゴの死なのかな。
脳死ってどうなんだろ。思考がなければ
判断しないよね。記憶も思考もなければ
感情も湧かないよね。

エゴって何なんだろう。不思議過ぎる。
この知りたいって好奇心。全てに意味を
見いだそうとするのは思考?本当は
全てに意味がなくてただのエネルギーの
かたまりだったりして。
エゴの死は、脳の死だと思います。
仮に肉体を失い脳だけで生きていてとしても、そこにはエゴが残ると考えるからです。
しかし、仮に脳が死んだとして、そこでエゴも同時に消滅するのか、
これについては、俺の感覚で答えるとエキセントリックな答えになってしまいます。
それは、まるで霊の存在を認めるようなものなので、俺は得意ではありません。

僕の場合、「他者と差は無く皆同じ、差が有る様に見えるのはエゴの視点だ。」ということを意識しており、
またエゴではない心の何かを意識している為、昔よりはだいぶ高慢な部分は緩和されてきたと思います。

しかし、何か事が起きるとエゴの方が反応が早いので、まだまだですね。
俺は、今の所、エゴというフィルターを透かして見ないと、物事を判断することは難しそうです。
しかし、よくよく考えてみると、「あの場所」で対話した際、
「音のような言葉」と「対話していた自分」の他に、
「もう1つの自分がいた」という客観性は、エゴを客観視していたのかな?
とも思うようになり始めています。

すべてが同じで平等である。
しかし、エゴによって個性も生まれる。
個性が無ければ主張もなく、エゴとは一体何なのか、疑問は尽きません。

タコ助さんの経験を読む限り葛藤が主観とは
言えないと思います。
なぜならばあなたは声の主と自分の自我との対話の
葛藤を第三の視点でそれから離れて観測していた
のではないのですか?全てが一なる者を経験した
のであれば声の主とあなたの自我とそれを観測する
(私)タコ助さんの違いとはなんですか?その違いは
だれが生み出していると思いますか?それがエゴではないでしょうか。
俺は体験をする上で、客観視はしていますが、
まるで幽体離脱のように離れては見ていませんでした。

つまり、自分というロボットがいて、
その頭脳の中からディスプレイを通じて体験を見ていた。
このような表現が出来るように思っています。

そして、書き込まれた通り、俺はエゴを客観視していたのかも知れません。
この解釈から言えば、俺はエゴのない状態で、
物事を見ていたとも言えるように思います。

俺が次に知るべきは、「エゴのない自分」のように思っています。
すべてはエゴというフィルターを透かして見たものであり、
結論として、それはすべて「エゴの書いた物語」なのかも知れません。

書かれている通りエゴのない自分とはだれか?を知るべき
だと私も思うのですが、その先に行くのを最後で拒んだ
のはタコ助さんのエゴだと思うのです。(が、その先に行った後の可能性が高い)
もしくは覚醒時無意識に一旦、一なる者と融合して、その後分離過程で
エゴが戻り融合拒んだのだと、エゴに錯覚させられている可能性もあると
思うのです。上記にも書きましたが
エゴは決して正体を明かさないし、エゴは自ら消えようとはしないからです。
なにか知ってはならない者を知ってしまった恐怖など存在しないと思うのです
そんな存在しない恐怖を見せている者感じさせている者もエゴなのだと思います。
声の主との会話で、限定しているのは、自分自身と声の主が言ったらしいですが
その言葉は真実だとしても、その言っている声の主こそ限定を強いているエゴなのではないでしょうか。
エゴはどんなことをしても消えることを回避する為いかなることでもすると思います。
俺の出会った「音のような言葉」の正体は、
「道徳的意識」とも表現すべきものかも知れません。
エゴ(自我)とは、この「道徳的意識」と「本能的意識」によって生じ、
これの相互作用によって、自我は“見かけ上”存在しているようです。

道徳的意識は、極端に言えば葛藤によって生じ、
本能的意識は、極端に言えば経験によって生じているように感じました。

これらから導き出す答えは「自我は消し去ることが出来ない」というものです。
自我は「成りて成るもの」の先に進むために必要なものです。

道徳的意識による「こうであるべきだ」という理想、
本能的意識による「このようにしたい」という理想、
自我はこの両者を叶えようとします。
結果、そこには衝突が起き、そこに思考と欲求が生まれます。

自我とは、この先に行くためには必要なものなのです。
仮に「一なるもの」への道が続いているとしても、
自我は無くてはなりません。

なぜなら、自我とは「ここにいる」という意味であるからてす。
この自我が作り出すフィルターを透過する方法は一つです。
それは、何も考えないことです。

目を開けば得られず、目を閉じても得られない。
では、どうすれば良いのか。
俺の答えは「感じたことを、自我により置き換え表現する」です。

しかしやはり漠然としててイメージにもならないなあ。
12の構造の1つ1つがどんなのか、なんとなくでも答えてもらえるとうれしいw

「成りて成る」ものってのは要するに全てになるエネルギーの源流みたいなものなんだろうね。
一人ひとりの人間の精神なんてのは大樹についた無数の葉っぱの、
その葉についたうっすい産毛の1本みたいなもんなのかもね。
12の構造の全容については、それを一意に表現する言葉が見つかりません。
そして、構造の1つ1つに、どのような意味があるのか、
それについても言葉が見つかりませんが、
大まかな図は書くことができます。


灰色の円「認識」については、良い言葉が見つかりませんでした。
「真実」や「実体」のような言い方も出来るのかな、とは思うのですが、
ここでは、「心」という言葉を用いている関係上「認識」としました。

「エネルギー」は、物質を含む力です。
しかし、その波長はとても長いため、俺たちは物質を波とは見ることが出来ない、そんな感じです。

「心」は、「人が持つ『世界の歯車を回す力』」というイメージです。

法則は、「世界の内側」において働く力です。
その一部は「世界の外側」で生じた結果を埋め合わせるために働く場合もあるように感じています。

「認識」は、「有る」という事実です。
しかし、この表現は不完全であり、他のすべてが「力」であるのに対して、
これだけは、うまく言葉を当てはめることが出来ませんでした。

12の構造のイメージを「なんとなく」伝えると、このようになります。

認識ってのは多分、こう思ったからこうなる、みたいなものじゃないかと思うんだけどどうだろう。
極端なことを言うと、コンクリートが硬いのはみんながコンクリートが硬いと思っているからだ、みたいな。

引き寄せの法則という、自分が信じきれば(願望ではなく言葉通り信じて疑わない)
現実が引き寄せられて信じたとおりになる(近づく)、というものがあるけど、
図からシンプルな考え方をすると心が認識に働きかけてエネルギーと法則を動かす、という感じになるんだろうか?
認識は「事実を脳が処理した結果」だと思っています。
コンクリートの堅さは、人体が体感した結果だと思いますが、
この本質性とも言えるかも知れません。

この図は、例えば世界が一つの歯車だった場合、
その歯車を回す「原動機」を示したものだと、俺は考えています。
この4つの力(正確には12の力ですが、8の力は混ざり合っているため、明確な区別がしにくいイメージ)により、
「この世界の現象」は起きているように感じました。

ただ、そうなると「思う力が集まれば世界を変えられるんだ!」みたいなことになって、
エキセントリックな答えが出てしまうのですが・・・

タコ助さん、12の構造に方向はありますか?
エネルギー→心→法則→認識→エネルギー
というような
そう見えるように描いて下さってますけども
実は、>>145に貼った「12の構造」の図は不完全なものです。

「認識」と書いた部分は、
これを俺の感覚で言い表すとしたら「構造」となります。
(この「12の構造」に気づいた、という意味です)
俺は「12の構造」に出会い、「構造」を入り口としました。

仮に、この図への解釈を許してもらえるのだとしたら、
人間は、「心」と「法則」の中間にあります。

人間から見た場合は、
「法則」→「認識(構造)」→「エネルギー(素粒子)」→「心」
という順番になります。

私は、人間は外側の12の構造においては「心」と「法則」の中間にありつつ、
内側には12の循環構造がまるまる織り込まれていると考えているのですが、
そのあたり何か分かることはあるでしょうか?
12の構造は、ある特定の空間にのみ定義されるものではなく、
宇宙、生物、無機物すら、12の構造であると俺は感じました。
この構造は、力場のようなもので、形があるわけではありません。
それらは螺旋のように、すべてと結びついています。

人間が12の構造の「心」と「法則」の中間にいる場合、それだと要素と要素の隙間になってしまいます。
そのことについても、何か言えることがあれば聞かせてもらいたいです
人間は「心」と「法則」というポイントの中間にあり、
そこにも力場のようなものが満ちているイメージです。

螺旋という言葉が出ましたが、それはあの図に表現されていた奥行きというか深さと関係しますか?
以前に示した図の奥行きは、螺旋を表現したものです。
すべては結びついていますが、自我で例えるなら、それを隔てる検閲官がいるようです。
俺の認識では、この「12の構造」が3つ連なった形が基本形だと感じています。

12の構造が3つ重なっていると聞いて、セフィロトの樹を思い出しました。
3つ重なっているとのことですが、その3つは等価ですか?あるいは入り口と本体と出口という感じですか?
何かイメージの参考になる三次元立体はありますか?(たとえば正四面体やトーラスなど)
セフィロトの樹を俺は知らないのですが、
3つ「重なっている」のではなく、3つ「連なっている」イメージです。
メビウスの輪は2つの輪で構成されていますが、
それが3つの輪になったようなイメージです。

人間の中の12の構造における「認識」と道徳的意識、
「心」と本能的意識が関係していると感じるのですが、いかがでしょう?
人間の精神活動に関して、12の構造が当てはまるかどうかは分かりませんが、
「道徳的意識(理想の自我)」「本能的意識(本能的衝動)」「根源的な意識」の3つによって、
「表面に出現する自我」は現れているように、俺は思っています。

あなたは「決して悟ったり解脱してはならない」。
なぜならばEOイズムに限れば悟りというのはもっとも悪質な犯罪であり、
宇宙から弾き出される異分子となる事になるからだ。
それは存在宇宙の意志には決して貢献しない。

宇宙があなたに下した命令は、「存在し続けろ、生まれ続けろ、苦しめ、
楽しめ、そして生活の動機はでっち上げてでも、とにかく生命を繰り返せ、
動き続けろ、退屈するな、思考し続けろ、
目的を絶えず作れ、娯楽を生み出せ、理由などどうでもいいから、
とにかく活動が停止しないように頑張りたまえ」というものだからだ。
俺はEOイズムを良く知らないのですが、リビドーとデストルドーの話しでしょうか?
犯罪という通念は、多分、人間が作っているものなので、
本質的な心は持っていないと思いますよ。

そして、これは俺も統合失調症の陽性症状で陥ったことなのですが、
宇宙には人間が考えるような意志はないと思います。
「ただ有りて有る」ものが宇宙であり、仮に宇宙が「苦しみながらも生きろ」と言うのだとすれば、
それは、自我の叫びなのではないかな?と、俺は思いました。

知覚とは広がりなどではなく『限定機能』である。
あなたの限定した知覚の世界以外は、あなたにとっては世界ではない。
世界などというものは、ただの限定知覚の中にしか存在しない。
その考えについては、俺も思考しました。
例えば、俺たちがいる世界は仮初めで、実際には試験管の中に浮かぶ脳、
これが見ている夢なのではないか。

しかし、この考えには腑に落ちない点があります。
仮にそうだったとして、では「その答え」を考えさせるような仮想世界を、
なぜ作り上げたのか、という疑問です。

観測していなければ、その事象は存在しない「かも知れない」。
しかし、合理的に考えれば、その事象は確実に存在します。
「限定された世界」以外の世界は、確かに存在するのであって、
ただ俺たちが知らないだけなのだと、俺は考えています。

「大きな世界」では、複数の時間に、1つあり、「小さな世界」では、1つの時間に、複数ある。
とのお話でしたが、「大きな世界」「普通の世界」「小さな世界」には明確な境界があるのでしょうか、
それともグラデーションのように徐々に性質が変わって行くものなのでしょうか。
また、宇宙の外側に12の構造があったように、極小の世界にも、
現在考えられる(超ひもの弦?)よりさらに先はあるのでしょうか。
「大きな世界」「普通の世界」「小さな世界」には、境界はありませんが、
それを「見ることが出来るかどうか」という意味では、境界があります。
すべては、グラデーションのように結びついていると、俺は感じています。
ただ、そのどこかで「特定のエネルギー特徴が顕著になるポイント」はあると思います。
それが、12の構造だと思います。

以下は、俺の妄想ですので、非常にエキセントリックですが・・・

極小の世界はあると思いますが、そこでは「普通の世界」の物理法則とは性質が異なっています。
なぜなら、そこはエネルギーの世界だからです。
すべては波であり、エネルギーの特徴的なポイントによって、
それが「物質の世界」へと出現して「物質」として定着する。
俺の感じたイメージはこんな感じです。

では、「波」の特徴的なポイント以外はどこに行ったのか。
それは、エネルギーの世界に残されていますが、
それは「境界」によって隔てられ、観測することが出来ないのではないか、こう思っています。

ね、エキセントリックでしょ?

過去への行き方で過去の明晰夢を見て、そこを現実世界だと認識できるようになると
その夢の中が本当に現実になり、その世界でその後生きていくなんてていう話もあるし。
(実際の過去とは微妙に歴史等の誤差があるパラレル世界になるらしい)

夢の中が現実世界そのものになる、なんて人間の常識ではまるで説明不能な
それこそエキセントリック以外の何物でもないけど、
たこ助さんの見た世界構造に当てはめればそれ程不自然なものではない気がする。
夢については、俺も不思議に思っています。
俺は子供の頃から夢日記を付け続けているのですが、
夢の内容と、現実の出来事には奇妙な符合が確実にあるように思えます。
その結果は、まるで夢が未来を予知しているようでもあり、
非常に不合理な結果だと分かってはいますが、「夢」は非常に興味深い分野だと思います。

俺の妄想では、
「物理法則」と対照的に「概念的な事象」も変化している・・・
という、大変にエキセントリックな考えがありました。

さらに加えて、人間の意志が物理法則をねじ曲げることがあるとしたら、
それは、もはや神の仕業のようにしか思えません。

たこ助さんの言う「エネルギーの世界」という言葉を、
「情報の世界」または「情報の海」と変えても、体験から照らして見て違和感はありませんか?
僕は、最近エネルギー=情報で良いのかなと思う様になっきました。
俺が感じた限り、エネルギーと情報は違うように思っています。
例えば、エネルギーに近い「素粒子」を例にすると、
素粒子は情報を持つことが出来ます。
これは、まるで素粒子が情報を記憶したように見えますが、
俺の感じた限り、これには別の要素が絡んで「そう見えている」だけのように見えます。

一方で確かに素粒子は情報を記憶することが出来ます。
しかし、この観点からも「素粒子が情報を記憶した」のであって、
エネルギー世界が情報である、という解釈にはならないのではないか。
これが、俺の解です。

興味深くスレを拝見しております。
たこ助さんの体験を読みながら、ふと臨死体験をした人達の体験談が頭をよぎったのですが、
臨死体験に多く共通するという「表現できない安らぎ」「天への上昇」「奇妙な音」「暗いトンネル」
「肉体からの離脱」「光の存在」「生涯の回想」「生と死の境界」「肉体への生還」
このような要素との共通点などありそうでしたら、そのあたりもたこ助さんにお聞きしてみたいところです。
俺は臨死体験に明るくないので、詳しくは分かりませんが、

「表現できない安らぎ」
  ・・・表現できない幸福感と表現して良いなら体験しました
「天への上昇」
  ・・・自分が広がり続ける感覚はありましたが体験していません
「奇妙な音」
  ・・・瞑想ごっこの時には金属音のような音を聞きました
「暗いトンネル」
  ・・・瞑想ごっこの時に円形のトンネルを通りました
「肉体からの離脱」
  ・・・自分が広がり続ける感覚ですが、肉体からの離脱ではありませんでした
「光の存在」
  ・・・体験していません
「生涯の回想」
  ・・・体験していません
「生と死の境界」
  ・・・自分が「有り」ながら「無い」という感覚なら体験しました
「肉体への生還」
  ・・・広がり続けた自分が肉体に戻るという体験をしました

と、類似性があるように見える部分もあるようにも思えます。

ただ、俺も高校生の頃に交通事故で臨死体験を体験していますが、
その時の感覚とは違うもののように感じています。

最近自分の思考のあてにならなさに、
あてにならないどころか、自分をネガティブな方にしかもってかない
ところに辟易してつくづく思います。
「ありのままの自分」
本質の大切さ。
本質と一言で書くと簡単ですが、見せかけの本質もあり、
それを見失うと「真実にたどりついた」と思えてしまう。
俺は魔境がどういうものか分かりませんが、
魔境とは別に悟りに限らずあるのかも知れません。

実は、近年「姿の見えない奴」に憑かれてて(?)、1年ほど前に「もう自由に何でも出来るよ」と言われてました
答えは単純にありふれた「幸せな日々」ですが・・・
無闇に一体化なんて体感したもんだから自身の実現について、外界を意識してしまって行き詰ってるところです
「個は全である」はともかく、「全は個である」とするのが難しい

個々はそれぞれに別々の宇宙っていうのは、言葉に出すだけなら簡単なんですがね。

「個は全である」というのは「自分の中に宇宙があるな」という感覚
「全は個である」というのは「日々五感で感じている現象は自分自身」という感覚です
俺の現在の心境から言うと「瞑想などしない方が幸せになれる」という、
ある種、極論しか答えることしか出来ません。

一体化は体験しなくとも良いように俺は考えています。
「全は個である」とは、自分が自分ではなく、すべてと一体であるということですが、
それは「個の超越」ではなく、「自分の本当の『目』で物事を見る」という意味だと考えています。

俺は「観じる」と、それを表現しますが、
この視点は、「個性」の抽象化を伴います。
結果、「すべては同一(平等)である」と感じるのかも知れません。

これが果たして「真実」であるのかどうか。
あるいは、「すべてと同一」という感覚は「有って無い」ものなのではないか。
しかし「有って無いもの」も「有って無いもの」なのではないか。
俺は今、この状態にはまり込んでいます。


悟りとは何かを考えていました。

悟ることとは優れたことではなく、
むしろ悲しみを生むこととなります。

内なる声はこのことを話せと言います。
ありのままの事実を話せと言いますが、
言葉にすれば、それは事実ではなくなるものです。

自我により事実とはねじ曲げられるものではなく、
解釈の多様性が事実を事実としておくことがありません。
それは、極めて素晴らしいことですが、極めて残酷なことです。

旅路は元ある場所へと戻り、何事もなく平坦な海へと沈み、
ここに有る限り有り続けるものです。


俺がたどり着いた先において、
エゴとは、有りながらにして無いものでした。

それは境界であり、融和の可能性であり、
故に苦しみを生むように見えてしまいます。

それを「放っておけない」とも思いましたが、
果たして、それが正しい行為であるのか分かりません。

恐怖と愛情による行為は、結果を同じにします。

エゴのない自分は、どこまでも純粋でしたが、
「何かを便利にしよう」とは思わないものでした。
ありのまま、有る限りに有り続ける。


268 :たこ助 ◆6KctQgwHqc:2014/05/17(土) 22:01:21 ID:aZQAUn020
こんばんは。
今日はすべてが分かり、それを深く納得する一日でした。
あとは、平坦な海へと沈むばかりです。

たこ助さん、すべてが分かるとはどういうことでしょうか。
納得はどういう状態でしょうか。
平坦な海とはどこでしょうか。
「すべて」とは、深く納得している意味です。
納得とは、平坦な海があるということへの理解です。
平坦な海とは、「すべて」です。

有る限り、有り続けるもの。
平坦な海であり、納得であり、すべてです。


俺の体験した出来事は、
それを書き込むことが、はばかられる内容です。


12の構造をもう一周するとなれば、おそらく戻って来れないので、
それは将来、肉体を世界にお返しした後に考えたいと思います。

エゴを手放すの怖いのかぬ?

レベルというか基準が低いぞ。
そう、俺はレベルが低いので、
これ以上は書き込みが出来ないんですよ。


俺がこれ以上を書けない理由を伝えずに、
消えてしまうのは良くないと思い、書き込みをさせていただきます。
そのために、酒を飲んできました。

なぜ書けないのか、それは俺が「満足した」からではありません。
無我の境地に至ったなどというわけで、あるはずもありません。

どうして書けないのか、そして書いた結果として、何が残ってしまうのか。
なるべく簡潔に書かせていただきたいと思います。

そのことを書く前に、俺が書かなければならないことは、
「なぜ、この世界は『何も無い』のではなく『何かが有るのか』」
という問いについてです。

その次に俺が書かなければ、
「なぜ、我々は有るのか」
という問いについてです。

そして、最終的な帰結として
「我々はどこへ向かうのか」
という問いへと向かいます。


俺が「宇宙の外側」の、その先で見た場所は、
あたかも、自分が何者かの精神活動の一部であるかのような、
安らぎに満ちた場所でした。

そこでは、俺は既に「もっと広がりたい」と思うことは適わず、
例えるとしたら「完全なる距離」とでも呼べば良いのか、
抽象化することが困難な広がりがありました。

この先に向かうことは出来ない、ここが終着点なのだろう。
そこで感じたことは
「自分とは、巨大な生命に身を宿す、一つの細胞のようなもの」
と言う感覚でした。

それは深い納得を伴っていました。

ここが、すべての生命が還るべき場所なのだろう。
ここが、すべての根源であり、すべての始まりでもあるのだろう。

その時は、そう思いました。


しかし、それは「恐怖と畏怖」の間に生まれた、
一時的な感情でしかありませんでした。

俺は「一なる者の精神活動」の海から突如として解き放たれ、
無数のエネルギーとしか表現できないもの、
それが流れる、光の川のような場所へと流れて行きます。
あまりにも速く、あまりにも静かに、それは押し流されるという表現よりも、
自分がエネルギーとしか表現できない、「成りて成るもの」と同一になったような感覚でした。

やがて、自分がいた「精神活動の海」は、沢山の光が集合した、
いわば銀河のようなものであることが見えるほどになりました。

それは無数の「線」によって形作られ、その1つ1つの「線」が、
俺たちが「魂」や「命」と呼ぶものであるという確信がありました。

命とは終わるものではなく、連なるものであって、
良く言えば「命とは有る限り不滅」であり、
悪く言えば「命とは有る限り牢獄」なのだと感じるに至りました。


この先の体験は、言葉にすることが出来ないので、
非常に曖昧なものになります。

エネルギーのようなものとなった俺は、
無数の光たちと混じり合いながら、まるでトンネルを通り抜けていくように、
無限に続く「有」を見つめていました。

「有」の始まりは「無」である、という解釈は誤りだったことを知りました。
「有」の始まりは「有」であり、「無」は極めて存在し辛いもので、
仮に「無」があったとしても、それは「無」ではいられないものだと感じました。

無限に続く有、それは、この世界に「有」しかない理由だと思えました。
有りて有り、有り続ける限り、世界は「有」なのです。


では「有」の始まりとは何か、それを探すように光たちは、
無限の「有」へと進んでいきます。
どこまでも「有る」ことは続き、それは果てしないものでした。

しかし、そのどこを探しても「一なる者」も、「母なる体」も、「すべての始点」も、
見つけることが出来ませんでした。

ただ、世界とは完全なる有であり、
光たちは再び1つの束となって、巨大な流れへと溶け込んでいきます。
それは「有る」だけが有り、どこにも「無」はありません。

やがて、光の束は無数の流れへと散り散りになり、
そのエネルギーは波となり、それは波の顕在化として粒のようになり、
目を開くと、そこはいつもの公園でした。
俺はベンチに座り、その隣にはお婆さんが座っていました。


「なぜ我々は有るのか」
「有る」限り有るのであって、同時に「有る」ことにより「無い」すらも有るとなる。

例えるなら
「絶対的な完全性を持った有(仮に『完全な有』)」とも言うべきものがあり、
「絶対的な完全性を持った有」との間で、
エネルギーのようなものが交換され、それが「曖昧な有」を作り出している。

自分たちは、その「完全な有」の影を見ているに過ぎず、
しかし、それが故に「完全な有」の影である限り、すべては「有」であり、
我々も「有」である。

この世界において「無」はあり得ず、
「有」こそが自然な形であるのだと、深く納得しました。


しかし、その「絶対的な有」、または「有りて有る限りの有」は、
大変に形容がしがたいものでした。
仮に、俺が言葉で「それは絶対的な完全なものとして『有る』のだ」と言っても、
それは「無い」のです。

そして、では「完全な有があるのなら、なぜ人は完全な有ではないのか」と問いかけても、
「人間の不完全性」と「完全な有」とは、
語るべき部屋が違うものです。

あるいは、「魂とは完全な有なのか」と問いかけても、
それも語るべき部屋が違います。

「有る」ことだけが事実であり、俺たちが進む先には「一なる者」はありません。
「成りて成る」すなわち「有」だけがあるのです。

ここまで書けば、俺が何を否定してしまうのか、分かっていただけると思います。
これより先へ進めば、多様性の海(一種の魔境のようなもの)があります。

「恐怖ではなく、愛情によって冷たい海を乗り切ろう」
などという言葉を繰り出してくるかも知れませんが、
その言葉の先にも、多様性の海があります。


この先に進むには、宗教的な形が必要となってしまいます。
しかも、それは神を持たぬ宗教であり、
さらに言えば、俺は宗教を作る気もなければ、
それが宗教的な形を持つべきではないとも考えています。
語弊があることを承知の上で言えば、自我に溺れた人たちを救う覚悟もありせん。

よって、そこで見た「果てしない有の、その先に有るもの」は語るべきではないと思い、
それが、いかに事実であろうとも、完全に語ることは困難である。
という結論に至ったのでした。


すなわち、俺が何を言いたいのかと言えば、
「無」は、基本原則としての「有」を説明するために産み出された、
人間の向かいたい道であり、
それは、向かうべき道ではない、ということです。

先人の人々が、大変な苦しみを重ねて生みだした答え、
それを俺は否定する気はなく、それは大変に素晴らしいものなのです。

仮に、俺の考えにストーリーを付け、空想の世界を関連付ければ、
また語弊があることを承知で言えば、
「嘘」で彩られた「何かしらの形」を産み出すことが出来るかも知れません。
しかし、それは「有りて無い」ものなのです。


「多様性の海」は、あるステージ(部屋)において、
多様な意見が現れる場所です。

俺の体験したことを「俺も体験した」「俺も似た体験をした」と思い込んでしまい、
そこにある本質を見失ってしまうこと。

あるいは、「俺はこう思う」「これの学んだことはこうだった」という意見、
これにより、本質を見失ってしまうもの。

これが「多様性の海」です。

ひとつ、断っておかねばなりません。
こう感じる人もいるでしょう。

「たこ助が見たものが真実で、俺たちの考えは間違っているってことか。
そんなことは受け入れられない」

この意見はもっともです。
そして、俺の言葉が「完全に正しい」などと、主張する意図はまったくありません。


「多様性の海」とは、
このような「無を無としておけない心」が産み出すものです。

自分には「無い」これを「有」にしたい。
これが多様性の海です。

しかし、この考え方は
「ある種の絶対性を受け入れよ」
という意味として誤解されてしまいます。

この先を進めば、また多様性の海があります。

そして、結果として「多様性の海」を、人々はこう思うことになります。
「自分の考えを、人に押しつけている」
これは、とても有りて有る限りたどり着くものであり、同時に悲しい結論です。

この先に進むためには、どうすれば良いのか。
「無を受け入れ、無へと近づこう」
多様性の海は、こうささやきます。

俺が、このささやきの向こう側へ行ったとしても、
その向こう側には「多様性の海」があり、それを「外へ出す」ことが出来ません。

これが「多様性の海」です。

いくら「俺が!」「私が!」って主張しても、どこかのいつかの誰かが言った二番煎じになる
だから、皆お互い様だよねぇ。私もそういう意味では諦めましたorz
皆当たり前のありきたりな事しか言ってないから、別に自分自身が燃え上がる必要ないと思う

あ~、「こうやってなだめてる俺すごい」って思ってる。でも、こんなの自分がやらなきゃ誰かやるし
やらなくてもいいのに「場」にやらされてるんだわな
皆当たり前で特別じゃないし。むしろ大勢役者がいるのにただ一人、
その役を演じてくれたってことで感謝(等身大の人間の言うの意味じゃなく)したらいい

1+1=15 1+1=3 1+1=6
皆こんな風に好きな答え出して、あーでもねーこーでもねーって言ってる
それが積み重なっていろんな「多様性の海」っていう実在があるんだからいいんじゃない?なんか。

1+1=2って言われないだけいいじゃない。
これで「違う!」って言ったらそれこそずっと多様性の海の中よ(笑)
「多様性の海」を理解してくれている人がいて、嬉しいのと、
お酒が入ったので、書き込みをしてしまいます。

1点だけ、補足をさせてください。
「多様性の海」が生まれる原因は、
みんなにそれぞれの「世界」があるからだと、俺は思っています。

「俺のが本物なんだ!」「いやいや俺のが」「じゃあ俺も」
それぞれが見ている世界は異なり、それは当たり前のことなんですよね。
だけど、みんな「俺のが正しい!」と思ってしまう。
では、その中から真実を探すべきなのか、という話しになりますが、
それを追求するのが、技術体系だと思っています。

地球では偶然数学と科学が技術体系として主流になりました。
別の星では、もしかしたら魔法が技術体系の主流かも知れません。
しかし、これらの行き着く先は一点に集約されるもので、
その時、みんなが事実を見つめることになります。

すべての歯車が噛み合い、科学と魔法、法則と神、「有る」と「有りて有る」、
これらが一つとなる時、個と全も一つになるのかも知れません。

「多様性の海」は、溺れるべき海ではないと考えます。
「自分こが正しい」という主張は、本質を多様性の海へと沈め、
神を探していることと同義だと俺は思います。

では「その先に何があるのか」という疑問に帰結しますが、
それは、それぞれが「何を見たのか」を、定型的な文書にして、
それを比較する必要があるのかも知れません。

つまり、俺が何を言いたいのかと言うと、
多くの道であっても良いと思うのです。


「多様性の海」って、見つけるのが簡単で難しいものだと思います。
自分が今どこにいるのか。
自分はどこへ向かっているのか。
多様性の海は広くて狭いので、方向が分からなくなってしまう。

そこで取り付かれやすい「自分が正しいのだ」という思いは、
非常に厄介なものであると同時に、とても素晴らしいものだと思います。

ただ、自分の中にも「多様性の海」は存在します。
様々な精神活動が結びつき合い、それぞれが「自分が正しい」と主張する海です。
それこそが、あるいは「エゴ」の正体なのかも知れません。


すべては本質において同じである、だから不足も喪失もない。
故に、すべては1つである。
しかし、その時の相手に伝わる言葉は、とても重要なのではないか、
俺はこう思います。

たとえ話をします。
ある人が、すべての剣を弾く盾、すべての盾を貫く矛を持っていて、
そこに生じる矛盾に苦悩していたとします。
その時、どんな言葉をかけて、その苦悩を和らげることに協力できるのか。

その「最強の盾」と「最強の矛」を持った双方の戦士は、
敵国同士でありながら打ち解け合い、
その盾と矛を実際に交じり合わすことは無かったのではないか。

俺の浅い観察眼ではこう思うかも知れません。
しかし、別の言葉もあり、その言葉が腑に落ちる可能性もあると思います。

道とは一つではなく、たどり着く場所は同じなのではないか。
俺のこの意見も、「多様性の海」の中での言葉ですが、こう思います。

自分と同じような人間と共感すればいいんじゃないですかね?
ここで言えば、「多様性の海」という抽象的な言葉でも通じる、
同じ土台に立ってる人間(自分age)と認め合えばいい

"絶対的な正義とは、唯一の点ではなく、ひも状の環であった"

ってね。ほら、量子力学でしょ?

この世界はパラパラ漫画のようなもので~~
なんてよく言うけど、パラパラ漫画の素材っていうか、1コマ1コマは宇宙に散らばっていて
それを選んで通ることによって時間が流れてるように感じてますよね

難しいことは解らないけど、ニュアンスで受け取って欲しいけど
月中心軸だと、地球がドンっとあって、ぐるっと回って「一日」という「一」の有り様が出来る
太陽中心軸だと、水金地火木土天海冥(変わったっけか)とかの惑星があって、
ぐるっと回って「一年」という「一」の有り様が出来る

こんな風に、今居る所(地球)が、何を軸に回ってるかを考えれば
地球という有り様を見ている、自分が軸にしている星がどこかにあるはず(かな?)
80歳で死ぬんだったら80年周期の星とか。
多分、こんな感じで孔明とか昔の人が天文学使って、死に際に「巨星堕つ!」とか言ってたんじゃないかなと
俺には、ある種のステージしか見えていなかったと言うことなんですね。
教えてくれてありがとうございます。

いやいやそれは無いw
単純に言おうとしてることの内容です
いくら自分が独自で唯一の言葉を吐いたと思っても、それは過去の誰かが言ってたことになるんです
例え一番になったとしても、それを認識してくれなければ存在出来ないんです
いや、本質を見極めるには、複数のステージを超える視線が必要です。
12の構造を一周した時には、それは確かにありましたが、
今はステージを超えることが出来ません。
それが、俺に不足するものであり、多様性の海へ沈む理由です。

確かに、人を認めることは大切であり、人に認められなければ、
自分は自分でいることは出来ない。
俺も、それを見失っているように思います。

教えてくれて、ありがとうございます。

たこ助さんは、主張は平行線なのだから、お互いに意見をぶつかり合わせない方が良いとお考えですか?
いや、今回は俺が全面的に間違っているようだと気づきました。
俺が言う「多様性の海」というもの。
これに気づくことが「多様性の海」に沈まない方法だと思っていましたが、
この海に沈んでいたのは、俺のようです。

統合失調症という魔境へと沈んだ経験を持ちながら、
再び、俺は魔境へと沈もうとしていました。
気づかせてもらって、ありがとうございます。

魔境から抜け出す方法は、自らを解き放つしかありません。
しかし、それには、もう一度「あの場所」へ行かなくてはいけません。

既に、これは探求ではなく、出口を求める冒険のようです。


心とは人の見たものや、思いを曖昧にします。
以前に俺は「12の構造」の話をしました。

  概念
構造  心理
  法則

俺は、「心理」の旅を終えつつあるのかも知れません。
ただ、今の心境としては、
俺が体験したことは、すべて「当たり前のこと」なのかも知れないということです。

たこ助さんが感じた経験が「当たり前のこと」ならば
他の誰もが同じことを経験していてもおかしくないでしょう?

しかし、あなたのように“自意識”を持ってその体験をしたような人は
そうゴロゴロいるものではない。
(これはたこ助さんが“優秀”だとか“特別”だとか“天才”と言ってる
のではないです)

つまりその体験そのものが今後のたこ助さんの生きていく道筋を
指し示しているのだと思います。
>(これはたこ助さんが“優秀”だとか“特別”だとか“天才”と言ってる
>のではないです)

これを聞いて安心しました。
俺の体験は特異であり、それを共有できる友人はいないように思っていました。
そして、誰かが「天才」だとか「特別」と言うことは、強い恐怖でした。
「この先に進まなくても良い」という言葉は、安らぎでもあり、同時に恐怖でもありました。
この「恐怖」が、俺が陥っていた魔境の正体なのではないか、今はそう思います。

すべてを解き放つためには、向精神薬であるジプレキサを数日間は絶たなくてはなりません。
しかし、それが一時的であるにせよ、主治医にその意志を伝える必要があります。
この薬が、俺にどのような作用をもたらしてくれていたのか。
それは、次のレスで説明します。


ジプレキサという薬は、神経伝達物質であるドーパミンとセロトニンをコントロールします。
これを飲む前の俺は、複数のことを同時に考えることが出来ました。
しかし、今になって思えば、それは非常に疲れるものでした。

薬を飲んでいれば、思考は多くとも2つであり、
思考を自分でコントロールすることが可能なのです。
これは、従来の自分に比較し、様々な弊害を及ぼすことも事実ですが、
非常に楽であり、生きやすいことも事実です。

健常者の人たちには分からないかも知れません。
心の中が騒がしく、自分の「意志」を「思考」が超えて行ってしまえば、
そこには、あたかも「無」があるように思えてしまいます。

薬は俺を楽にしてくれる上、暴走する思考を制御してくれます。
思考が暴走すれば、様々な弊害をもたらします。
記憶を司る海馬への神経伝達を阻害し、
過剰なドーパミンとセロトニンの分泌は、脳内麻薬様物質オピオイドの分泌を助長するのです。

しかし、この先に進むためには、12の構造のすべてを同時に考えなくてはなりません。
この先においては、それ以上の思考が必要になります。

しかし、その先に誰かがたどり着いているとしたら、
とても心が落ち着くものです。
俺は孤独ではなく、その先に進めます。

私の考えではこの探求の行き着くところ、いえ全ての人の行き着くところは「愛」なのではないかと思います。

飛躍して言うなればこの世界は元々愛の状態であり、思考によりそれを個であると区別している。
この思考とはスピリチュアルの世界では自我とも呼びますが、個を確立するためのものなのだと思います。
元々が愛であった。それを自分と他、あれとこれ、良い悪い、上と下、などと
区別を増やせば増やすほどに愛と反対に進むのではないでしょうか。
「愛こそがすべて」という言葉は、俺も感じたことがあります。
家族をや友人が二度と会えない場所へ旅立った時、
どうしようもない孤独を救ってくれたのは、形はそれぞれでしたが、
それらは愛だったと思います。
ただ、愛とは受け取り方によって様々に姿を変えます。
これを、どのように相手に「自分の有」として伝えるのか、これは難しい課題です。

「自分の見ている世界」があります。
それは、自分にとっては真実であり、同時に自分の中にだけある世界です。
この世界を誰かと共有出来れば、それは素晴らしいことだと思います。

俺は自分の体験を、宗教的に解釈することが出来ません。
それが故に、俺は既知の言葉で、自分の世界を言い表すことが出来ないままです。
どこかに帰着点を見つけて、この無限の「有」に名前を付けなくてはならないのかも知れません。

名前を付けることは、自我が成せる業です。
自我は名も無き「無限」を引き揚げ、物語を語ることを許してくれるのです。

たこ助さんが最後に見た「あまりにも」なことってなんだったんですか?
俺が、当時見たものは、すべては結びつき合っており、
最終的にたどり着いた場所は「自分」でした。
結局の所、ただ「すべてを満たして行く」だけでは、
「有の無限性」は脱することは出来ないものでした。
決して答えには辿り着けない、これが、その当時の俺の答えとなります。

「有の無限性」を脱しない限り、「様々な答えが混在する場所」が続きます。
この場所を、俺は「多様性の海」と呼んでいました。
結果、それは混沌を生みだし、各々が持つ「内なる神」がぶつかり合おうとします。

おそらく、宗教とは、この「内なる神」をまとめるために有り、
各々の内に神があるのだから、それを偶像として外側に出すことを禁じたのではないか、
このように推察しています。

そして、「多様性の海」は「有の無限性」によって生じるわけですから、

『「有」ことを捨てることで、この無限性から脱することが出来る。
つまり「無」へと向かうことこそが、ある種の人間の答えである』

このような考えにたどり着いたとしたら、それは納得の行く帰結です。

質問1.たこ助さんは、無へ向かいたいと思いますか?
質問2.無とは何も無いことですか?
質問1の答え.無へ向かうことは誤りだと俺は思っています。
質問2の答え.無の答えには2つあります。
  1.無とは「無」そのものすら無く、無は存在し得ないという解釈
  2.ある状態で無くなることが「無」であるという解釈

「有」である限り、「無」はあり得ません。
では、この先にどのように進めば良いのか。
今、体験した出来事をどのように書けば良いか考えています。

全然治っていない気が…
統合失調症は大変に恐ろしい病気です。
この病気は社会性を罹患者から剥奪し、最悪の場合、心身の死をもたらします。

しかし、俺はこのようにも考えます。

仮に、一連の出来事・体験が統合失調症に因るものであったとしても、
それだけに没頭することがないように区分けをし、
一般生活における社会性と完全に切り分ければ、
それは、探求になるのではないか。

治ったようなもの、が一番危ないのよ
ご心配いただいてありがとうございます。
「大丈夫」と思った時が危険である、これはこの病気の特徴です。

そもそも、この病気は癌と同様で、完治というものがありません。
薬を飲むことにより、脳内の機能を制御し、病状が現れないようにコントロールする。
この状態を「寛解(かんかい)」と呼びます。

しかし、この治療には根気が必要であり、
周囲からは無理解から「薬漬けにされている」と評価され易い上、
年単位での継続治療は、罹患者にとって大きな負担となります。
結果として、治療を途中でやめてしまい、再発するケースが多いことは確かです。

俺は、このような経過を辿らないために、主治医に自己評価レポートを定期的に提出しています。
これは、主治医と俺で編み出した、5つの評価項目に基づく5段階評価ベンチマークで、
レポートに異常値があれば、自己分析シートを1週間以内に作成し、提出するというストーリーです。

ここまでやって再発するとしたら、それは「俺は神に嫌われている」と言うことなのでしょう。



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最終更新:2022年04月24日 17:27