※本記事を根拠に相場を遥かに上回る高値でカメラを売ろうとする業者が見られる様になりましたが、私自身普通の後期型を使っています。Konica 1型は前記から後期に至るまで性能に大差ありません。不当な高値で買う必要なんてどこにもありません。どうか皆さん一般的な相場でカメラはお買い求め下さい。特に未整備のカメラを高く買う理由はありません
※最近、スマートフォンからの閲覧だと画像が正しく表示されない様です。パソコンでの閲覧かスマートフォンならPCモードをお勧め致します。
※内容は新事実が判明する都度書き換わります。今まで事実としていた事が突然変更されるかもしれませんのでご了承下さい。
コニカ 1型といえば、小西六が戦後最初に作ったカメラというイメージが強いと思いますが、基本設計は戦前の1938年に完了していました。
逆にいえば、基本設計が戦前であったが故にセルフコッキング等の先進機能を盛り込んでいなかったともいえます。
それでもコニカ 1型を調べて発売時の広告や記事を見ますと、高性能といった記述が非常に多く見られます。
しかし例えばキヤノンを見ても、戦前よりライカタイプのレンズ交換型カメラを多く生産していましたし、それに合わせて販売されていたレンズもニコンが供給していたのですから、こちらこそ余程高性能といえます。
つまり決してコニカが機能面で傑出していた訳ではありません。
(ただし当時、一眼式連動距離計を備えた唯一の国産レンズシャッター機という事で高評価を受けたのも事実)
これは高性能と言っても単純な高機能を指していたのではなく、高精度なシャッターや狂いが生じ難い構造の距離計、高剛性、堅牢性、そして外観からはわからない天然色写真に最適化されたコーディング技術といった基本性能にあった様です。
あくまで活用する場でのカメラとレンズを目指していた事が伺えますね。
「"コニカ" はライカ判専用として設計された小型のカメラで、その精度を高める為に小西六が特に金属材料光學硝子等素材の選擇に、又機械工作、塗装、鍍金の各工程に細心の注意を拂つて仕上げたものです。」
これはコニカのカタログに書かれている言葉ですが、メーカーの自信が伺えます。
今回コニカ 1型を改めて調べていきますと、発売当時の情報以外に拠り所が無い事が明らかとなりました。
例えば 'コニカスタンダード' の呼び名は、今や 'Wikipedia' に限らず、 'Camera wiki' やそれを参考にしたであろうウェブサイト、雑誌と飛火しており、あたかもコニカ型の製造中にそういった固有種が存在したかの如く語られていますが、戦後当時のコニカ関連記事を読めばその様な事実は何処にも書かれていません。(詳しくは下で検証しています)
本記事により少しでもコニカ 1型の正史が明らかになったのなら幸いです。
この記事を尊敬して止まない天国のkan殿に捧げます。
1. ルビコン型(Rubikon銘)
俗称「戦前ルビコン」[出典1-9, 出典1-10.]
確定情報
物的証拠として1938年(昭和13年)8月に藤本栄氏によるルビコン型とみられる特許(連動距離計、フィルム巻止装置、フィルム巻返装置、裏蓋開閉によるフィルムマガジン交換装置)が出願されている。
ところがフォトアート臨時増刊 35ミリ・カメラ全書[出典1-7.]では「コニカの話」としてルビコンを紹介しているが、そこでは特許の1年前である1937年(昭和12年)7月に誕生としている。[出典1-7.]
試作した後に特許を提出したのか、単に間違って記載したのか(後のHexanon登場時期も1年早い)は不明であるが、概ねその頃に制作されていたのは間違いない。
[出典1-3.]実公昭15-001084より
これら特許で説明用に描かれている図面は、ほぼ完成型すなわちコニカ 1型といって良いもので、開発はこれよりそれ相応遡って行われているといえよう。
構造は先の特許よりある程度知る事が出来る。
後のコニカ 1型と同じで画面フォーマットはLeicaに習い36 × 24mmを選択し、レンズは沈胴式、巻上、巻戻しはノブ式を採用、光学視差式の距離計に連動するオートフォーカスである。
[出典1-1~出典1-4.]
ただし、軍艦部の全高はコニカ 1型よりも若干低いと言われている。
[出典1-7.]
[出典1-5.]コニカ 1型パンフレットより、測離のしくみ
コニカ 1型の特徴として[出典1-3.][出典1-5.]にある通り、視差計の二重像合致をミラーで行わず、レンズ(出典1-3. 5.)の移動によって生じる屈折を利用して実現する等、独創的発想によって特許回避策が取られている。
[出典1-3.]
下の資料の方が具体的で分かりやすいので合わせてご覧頂きたい。
[出典1-6.]アメリカのコニカ 1型パンフレットより、測離のしくみ
また公開されている写真等から判断出来る内容として、レンズはHexar Ser. II B 50mm F3.5、デッケル社のコンパーシャッターで軍艦部上面にコニカ 1型同様の書体、及び凹型刻印により「Rubikon」のロゴがある。[出典1-8~出典1-10.他掲載写真]
参考までに言えば、ライカIIIa、コンタックスII(共に1936年発売)の2年後であった。
現在、コニカミノルタ株式会社に保存されている。
未確定情報
- 試作された総数は不明。
- ルビコンの名前について「ルビコン河」を由来とする説は当時より囁かれていたが正式な発表は無い。
- 試作という事で数台が作られ、うち数台が皇族に献上されたというが、[出典1-7.]正式な記録を見ていない。
資料
- [出典1-1.] 藤本栄(1938). 寫眞機ニ於ケル「フィルム」巻返装置 実公昭15-000995.
- [出典1-2.] 藤本栄(1938). 寫眞機ニ於ケル「フィルム」巻止装置 実公昭15-000996.
- [出典1-3.] 藤本栄(1938). 寫眞機ニ於テ距離計ト鏡玉トヲ聯動セシムル装置 実公昭15-001084.
- [出典1-4.] 藤本栄(1938). 寫眞機ニ於テ蓋ノ開閉ト「マガジン」ノ開閉トヲ關聯シテ行フ装置 実公昭15-001172.
- [出典1-5.] 小西六寫眞工業株式會社(1950). コニカ 1型パンフレット.
- [出典1-6.] 小西六写真工業株式會社(1950). アメリカのコニカ 1型パンフレット
- [出典1-7.] (1953.9). コニカの話 フォトアート臨時増刊 35ミリ・カメラ全書 研光社, PP.143.
- [出典1-8.] 亀井武(1973). 株式会社小西六の創立 写真とともに百年, PP.190.
- [出典1-9.] 菱田耕四郎(1987). 戦後のカメラ クラシックカメラ専科-10 小西六カメラの歴史 株式会社朝日ソノラマ, PP.60.
- [出典1-10.] 宮崎繁幹(2003). コニカの生い立ち クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年 株式会社朝日ソノラマ, PP.13-16.
2. ルビコン型(X線撮影カメラ)
俗称「医療用ルビコン」、「X線用ルビコン」、「ルビコン間接撮影用カメラ」[出典2-9, 出典2-14, 他多数記事]
ただし、小西六の中村徳夫氏は著書で「ルビコーン」と長音を使用。[出典2-3.]
確定情報
東北帝大教授古賀良彦氏は1935年(昭和10年)より、ライカ判の小型写真機に着眼してレントゲン撮影に転用する研究を始めた。[出典2-8, 出典2-9.]
この研究は翌1936年にレントゲン間接撮影という形で完成、[出典2-3, 出典2-7, 出典2-8, 出典2-9. 他結核関連記事]1936年(昭和11年)4月6日に仙台市で開催された第14回日本結核病学会総会において世に発表した。
「レ線深部寫眞及び間接寫眞の応用」と第した600人の軍人をレントゲン間接撮影した記録がそれである。[出典2-11, 出典2-13.]
この時に古賀氏の使用したカメラは、コンタックスでSonnar 5cm F1.5のレンズを付けての撮影だった。[出典2-5, 出典2-7, 出典2-9, 出典2-11.]
撮影時のデータは電圧60KV, 電流250mA, 露出時間0.4秒であったという。[出典2-8.]
当時の小西六はコンタックスの輸入代理店も兼ねていたので、小西六営業の田戸益太郎氏が仲介、これを古賀氏に提供したと記載されている。[出典2-7, 出典2-9.]
以降小西六は古賀氏と間接撮影に深く関わる事となる。
そしてついに古賀氏は、1938年(昭和13年)に「レ線間接撮影法の応用に関する研究, A study on indirect radigraphy(Radio photgraphy) 」という論文[出典2-1.]をまとめ、実践医理学誌上に発表された事で間接撮影法は広く知られる事となった。[出典2-11.]
ここはカメラルビコンについての解説なので、レントゲン間接撮影法については割愛させて頂く、興味のある方は古賀良彦教授退官記念論文集を読まれると良いだろう。
下図は、後年小西六が装置として特許[出典2-4.]を取得した時の図である。
[出典2-4.]カメラによるレントゲン間接撮影装置
間接撮影が完成されるまでは、X線を直接X線用の感光材に当てて撮影する方法だったが、これをカメラで行う事で簡便化出来た。
[出典2-5, 出典2-7.]
この様な撮影方法が求められたのは、結核予防としてレントゲンによる早期発見が重要視されていた時代背景と、同時に掛かるコストの低減があった。
[出典2-7, 出典2-11.]
[出典2-7.]
- 撮影コスト
- 撮影時間/人員コスト
- 保管時占有スペース
- 製造必要材料
- 1941年9月13日 朝日新聞掲載(※ただし、ツベルクリン反応 = 結核とは限りません)
以上の結果から、診断価値において劣るとしながらも、掛かるコストと撮影の迅速性より集団検査時の優位を発見者である古賀氏と小西六の中村氏はそれぞれの講演で語っている。[出典2-7, 出典2-11.]
また、トータルコストだけではなく安定した供給をも考慮すると、海外製品に頼っていたカメラも国内生産に切り替えるべきである。[出典2-7, 出典2-9.]
小西六を訪れた陸軍軍医学校教官清野寛氏、泉橋慈善病院相川武雄氏、九州帝大助教授石川数雄氏の積極的働きにより、戦前のルビコンを間接撮影装置と組み合わせるカメラとして医療機器に転用する事が決定された。[出典2-9.]
このContax(I・II)から国産カメラへの転換理由としては、コスト面や入手性、整備性以外に巻上げが重い為に指が痛く、短時間での大量撮影に不向きだったという事を横倉誠次郎氏は指摘している。
数を熟す関係上、雑に扱われる事も多く、Contax IIの美点である精密な機構が仇となったのである。[出典2-8.]
Contax使用に関して例を挙げれば、II型の巻上げノブに蝶ネジ加工を施したり、I型の前面にある巻上げノブに澁谷製作所製挺型握手を取り付ける等の工夫を加えていた様であるが、[出典2-8.]そもそもシャッターチャージの必要が無いレントゲン撮影[出典2-8, 出典2-14.]ではセルフコッキングそのものが無駄な機構であった。
※この場ではContaxの例を挙げて説明したが、他のカメラであっても専用機ではないので、多かれ少なかれ不都合はあったが割愛する。
尚、間接撮影用カメラについては精機光学研究所(キヤノン)も取り組んでおり、代表取締役の御手洗毅氏が産婦人科の医師でもあったからか、小西六より開発には積極的であったとされている。[出典2-8, 出典2-9, 出典2-16.]
精機光学に対して初期のRubiconは以下の点で要求を満たしていなかった。[出典2-8.]
- 裏蓋が蝶番で自由に取り外せない事。
- マガジンが特殊でRubicon専用であった事。
- 巻上げ毎に解除釦を押す必要があった事。
- 巻上げの関係でフォーマットが24×26.5mmで若干の無駄が生じている事。(精機光学は24×24mm / 24×32mm)
共に1939年に試作、翌1940年には完成させている。[出典2-9.]
また、カメラと同時に感材も小西六は間接撮影用に135mm判のレントゲンフィルムを発売する事になる。[出典2-9.]
[出典2-5.]
ルビコンは1940年(昭和15年)10月さくら間接撮影用レントゲンフヰルムとともに発売された。
[出典2-9.]
胸部の撮影においては、心臓の鼓動を静止状態で撮影する必要ある事からも明るいレンズと高感度のフィルムが必要とされ、露出時間は0.2秒を想定して双方の開発が進められた。
[出典2-8.]
また、写真機用のレンズでは光の損失も周波数が異なる故に不向きとされ、
[出典2-8.]専用レンズとしてルミノン(Luminon, ルミノーン) 50mm F1.6が開発された。
[出典2-9,出典2-15.]
このレンズはレントゲン専用の為、一般撮影では収差が激しかったとされるが、
[出典2-12.]これを示す資料としては、横倉誠次郎氏が[出典2-8.]の8ページで以下の様に詳細に書き記している。
普通鏡玉に於いては、太陽可視光線の7色中、人間の目に最も明るく感ずるD線5896Å(黄)を主體として、赤札級乾板に最も感光し易きG線4308Å(紫)竝にC線6563Å(赤)、F線4861Å(青)の各色に就き五収差の修正を行ひ、従つて望遠鏡類の如く見る丈の時はG線の修正を缺く。螢光板の發する波長はその種類に依り各々異なるも、エネルギー曲線の頂點は大體5300-5600Åの狭き範圍に限られ、従つて間接撮影用の鏡玉は、光の波長に基く収差の補正は簡単にて良く、又ハーシェル Herschel 條件は必要なく、尚ほ寫眞鏡玉は一般に結像力の優れし距離を2-3米附近とせるも、間接撮影用鏡玉としては1米以内になす可く、又廣角をなす必要なく、紋は邪魔になる丈である、最近に於ける国産品は絞りを除く。
即ち單に運動を見る丈のエックス線活動寫眞に於いては、高度の解像力又は分解能を要さざるも、映像の輪郭の硬軟・暈け工合を頼りとして診斷を行ふ間接間接撮影に於いては、僅かな暈も影響大にして、殊に藝術寫眞などと云われし特殊収差の残存多き鏡玉は使用し得ず、之と同じ意味に於いて補助鏡玉は除く可きのものである。
この2點に關しては、Sonnar f1.5の鏡玉は最優秀なるものなるも、國産品としてはNikkor f1.5及びf2(日本光學製)、Luminon f1.6(六櫻社製)、Selenar f1.5(精機光學製焦點距離45及び50粍)がある。
[出典2-5.]背面の型押文字はリリーの様に斜めに描かれている
ルビコンは数度のマイナーチェンジを経て種々の改良が加えられていった。[出典2-9, 出典2-15]
中でも最初期の巻上げはノブ式であったが、これはすぐに蝶ネジへと改められた。
ルビコンスペシャル
巻上げの蝶ネジを大型化し、レンズとカメラの脱着をより密着性の高い本格的なスピゴット式へと改めたものがルビコンスペシャルである。
その後1950年(コニカ 1型を発売後)6月からの生産分は2型(II型)と言われ、巻上げをダイヤルに巻付けたチェーンを引く事で行う様になり、巻戻しもクランク式に改良された。[出典2-15.]
1955年のHexanon 60mm F1.2が発表された際書かれた記事に、新レンズ群としてルミノン(ルミノーン) 50mm F1.4(5枚玉、構成は未確認)が医療用として紹介されており、戦後もしばらくの間は製造されていた事がわかる。[出典2-10.]
未確定情報
- ルミノン(Luminon) 50mm F1.6のレンズ構成から推測する限り、毛利廣雄氏が1940年11月6日に出願した特許第150607號[出典2-2.]に近いと思われる。[実機確認.]
レンズを前後に分解し、前ブロックに光を当てて確認すると反射面が6面見られた。
[出典2-5.]に照らして見ると、赤い線で前後に別れた様な感じになり、後ろの部分を分解すると片凹レンズとあまり厚くない両凸レンズで構成されており、概ね図と一致している。
[出典2-2.]特許第150607號掲載図をトレースしたもの
果たして毛利氏のレンズこそがルミノンなのだろう。
資料
- [出典2-1.] 古賀良彦(1936). レ線深部写真撮影法及び間接撮影法の応用 結核, 14号 PP.447-449.
- [出典2-2.] 毛利廣雄(1940). 大口徑寫眞鏡玉 特公昭17-000405より管理人がトレース
- [出典2-3.] 中村徳夫(1940). レントゲン間接撮影法 さくらの国 株式會社小西六 六櫻社, 10月号. PP.1-8.
- [出典2-4.] 中村徳夫(1941). 「レントゲン」間接寫眞撮影装置 実公昭17-012898
- [出典2-5.] 清野寛(1941). 胸の寫眞 株式會社小西六 日本出版配給株式會社, PP.324, .328, 370, 329.
- [出典2-6.] 中村徳夫(1942). レントゲン間接撮影用フイルムに就て 日本写真学会会誌, 7巻 1-2号. PP.24-27.
- [出典2-7.] 中村徳夫(1942). レントゲン間接撮影法に依る檢診の意義 日本写真学会会誌, 7巻 3号. PP.113-116.
- [出典2-8.] 横倉誠次郎(1943). エックス線間接撮影 株式会社南江堂, PP.5-
- [出典2-9.] 亀井武(1973). 株式会社小西六の創立 写真とともに百年 小西六写真工業株式会社, PP.190-192.
- [出典2-10.] 三木旺(1955). 超大口径レンズ ヘキサノン F1.2レンズ 小西六の新レンズ 写真工業 株式会社写真工業出版社, 2月号. PP.107-110.
- [出典2-11.] 遠藤久勝(1980). 36回総会会長講演 日本放射線技術学会雑誌 公益社団法人日本放射線技術学会, 36巻 6号. PP.731-735.
- [出典2-12.] 中一訓(1981). コニカのこと 写真随想 camera collectors news,12月号. PP.14.
- [出典2-13.] 松川明(1987).間接撮影法の50年を鑑みて 日本放射線技術学会雑誌 公益社団法人日本放射線技術学会, 47巻 2号. PP.24-28.
- [出典2-14.] 菱田耕四郎(1987). 戦後のカメラ クラシックカメラ専科-10 小西六カメラの歴史 株式会社朝日ソノラマ, PP.60.
- [出典2-15.] 宮崎繁幹(2003). コニカの生い立ち クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年 株式会社朝日ソノラマ, PP.13-16.
- [出典2-16.] 東京発の町工場から世界のキヤノンへ「メイド・イン・ジャパン」で世界を駆け抜けろ!キヤノンスピリットの飽くなき挑戦 モノづくり、ものがたり。
3. ルビコン型(Rubicon銘)
俗称「戦後ルビコン」
確定情報
戦後の試作品及び最初期の見返り物資用生産分を指す。[出典3-6, 出典3-7.]
見返り物資とは、米軍による食料放出、或いは輸入の見返りとして米国へ輸出する物資である。[出典3-1, 出典3-10.](敗戦による食糧危機の為、SCAP/GHQが '物資輸入に対する方針' を示した事で、特別会計による輸入支払いが決定した[出典3-10.])
特に終戦から1947年8月15日までは米国主導の完全管理貿易[出典3-10.]であり、日本には食料や物資が無くいろいろな製品を輸出する事で復興(というより終戦直後は国民が食いつなぐ為という表現が正しい)していった。[出典3-9.]
因みに1945年9月~1946年12月までの総輸出量に対してカメラを含む機械類は5.1%(4位)を占めていた。[出典3-10.]
終戦からの復興を詳しく知りたい方は、東京九段下にある昭和館を訪れると戦後の資料が見られるだろう。
本カメラは終戦より1年程過ぎた頃、戦前ルビコン型の図面を元に再設計、生産された。[出典3-6, 出典3-7, 出典3-8.]
生産当初は各パーツを満足に製造出来る状況ではなかった為、工場内にあった戦前のパーツや、戦中のX線撮影用のルビコンを集めて組み立てた。[出典3-6.]
レンズは自社生産のTessar型レンズ 'Hexar 50mm F3.5' であった。[出典3-6, 出典3-7, 他実機写真]
尚、ルビコン銘で生産されたカメラに使われたシャッターはフェリックス(T, B, 1, 2, 5, 10, 25, 50, 100, 250, 500)であり、後のコニカ銘時代と異なっている。[出典3-2.]
[出典3-1.]写真興業通信1946年(昭和21年)3月15日の記事
上記の内容からも1946年6月より販売開始といえる。
[出典3-1, 出典3-6.]
勿論見返り物資用の生産であるから一般に向けて販売された訳ではない。
それはコニカ 1型の項[出典4-2.]にも書いてある通りである。
一方、アサヒカメラの元編集長白井達男氏は、「戦後日本カメラ発展史」[出典3-5.]においてルビコンベースのカメラが発売されるまで(終戦から)3年かかった[記事3-3.]と書いているが、昭和23年3月という氏の主張だとコニカが一般販売される直前という事になってしまう。
仮にこれが改名後のコニカを指しているとしても、後のコニカ 1型の項で書いている通り当時の記事と整合が取れないのである。
従って[出典3-5.]の内容は資料として用いる事が出来ないのだ。(後述)
ルビコンが発売された翌月(7月22日)にはコニカの商標出願が提出(登録されるのは翌年8月9日)[出典3-3, 出典3-8.]されているので販売開始直後より改名予定だった事が伺える。
よって「小西六カメラの歴史」[出典3-7.]に書かれている昭和21年末にコニカとする事を決めた云々の行は誤りである。
これは下の記事と合わせ、CAMERA1946年(昭和21年)末の記事(翌1947年1月号掲載)で杉浦政次氏(当時営業部長)が「コニカに改名する予定」と語った事[出典3-4.][出典4-1.]に端を発すると思われる。
[出典3-2.]CAMERA1946年12月の記事
尚、写真興業通信の記事に戦後生産が軌道に乗り上昇つつあるのは小西六工場のみとのくだりがあるが、これには進駐軍が占領下の日本を撮影する為に多くのフィルムを必要とした事情が大きく影響しており、フィルム生産の再開を強く促した事が影響している。
[出典3-6.]
これは、公益社団法人 高分子学会が発表している高分子科学史年表の1945年に、 '連合軍,富士写真フイルム(株),小西六写真(株)に民事用フィルム(レントゲン,映画)の製造許可' と書かれている事からも伺える。
また、淀橋工場(六櫻社)の一角には米軍の要請によって進駐軍専用のカメラ修理工場(主として航空カメラ)が作られ、戦後の電力供給が不安定な状況下であっても発電装置が設置されるなど優遇されていた。
[出典3-6.]
以上の事からも、小西六は写真産業復興の中心となっていった。
またルビコンの一部は、アメリカ軍基地内の売店(Post exchange = PX)向けに出荷[出典3-5, 出典3-6, 出典3-7.]される。
後年の資料になると、あたかも全てのルビコンがPXに向けたものであるかの様な記述が散見されるが、これは白井氏、亀井氏、そしてそれを参考にした菱田氏によって書かれた記事[出典3-5, 出典3-6, 出典3-7.]が、後の書物等で拡散流布される過程において変化した誤りであり、[出典3-1, 出典3-2, 出典4-1.]に書いてある通り明らかに言えるのは '輸出向けの見返り物資' という事だけである。
確かに亀井氏は「写真とともに百年」[出典3-6.]において「カメラのほとんどは...PXに収められる...」と書いているが、そこに書かれているのはあくまで戦後に部品を掻き集めて作ったカメラという括りであり、その範疇にルビコンが含まれるとは書いておらず、正確な出典が示されていないこの文を根拠とする事は出来ない。[出典3-6.]
確かに「写真とともに百年」[出典3-6.]は、小西六の社史ではあるが写真産業全体について広く書かれており、これを読む際には注意が必要である。
菱田氏も全てとは何処にも書いておらず、後年に情報を求めた人が勘違いをして伝わっているのは間違いない。[出典3-7.]
白井氏に至っては小西六以外のメーカーも含めてあまりにも相違点が多く、それ自体資料としての価値が低い。[出典3-6.]
(ルミノン 50mm F1.6ですらF1.5と書いているので資料を研鑽した文章なのか大いに疑問がある)
しかもPX専用機とまで書いており、他の資料と比較するとあまりにも眉唾である。[出典3-5.]
また、先にも書いたが終戦直後は完全な米国の管理貿易であった。[出典3-10.]
[出典3-6.]頻繁にGIが直接小西六日野工場にへジープで乗り付けて、大量のタバコを置いていく代わりにカメラとフィルムを持ち帰った[出典3-6.]記述も見られるが、こちらは1945年の話しであるからルビコンとは全く関係がない。
蛇足ではあるが、1985年3月27日にルビコン株式会社により「Rubicon\ルビコン」の商標登録が出願(翌1989年7月31日登録)され、現在も商標は継続期間中である。[出典3-11.]
未確定情報
- ルビコン型の総生産数は100~500台未満とされているが正確な生産数は不明。[出典3-8.]
- 終戦直後でまともに操業出来る状態ではなく、月産は10台程度だったとされる。[出典3-6.]
資料
- [出典3-1.] (1946). 写真興業通信 写真興業通信社, 3月15日号.
- [出典3-2.] (1946). CAMERA 株式会社アルス, 12月号, PP.48.
- [出典3-3.] 小西六寫眞工業株式會社(1946). 指定商品 第十八類 寫眞機器其の他本類に属する商品 商標出願広告第148號 商願昭21-6092 登録番號第0369101號.
- [出典3-4.] (1947). 新型の製作に張切る小西六寫眞工業 CAMERA 株式会社アルス, 1月号, PP.25.
- [出典3-5.] 白井達男(1971). あけぼの レンズシャッター35ミリカメラ 日本写真機工業会編 戦後日本カメラ発展史 株式会社東興社, PP.29.
- [出典3-6.] 亀井武(1973). 生産と販売の再開 写真とともに百年 小西六写真工業株式会社, PP.219-220.
- [出典3-7.] 菱田耕四郎(1987). 戦後のカメラ クラシックカメラ専科-10 小西六カメラの歴史 株式会社朝日ソノラマ, PP.60.
- [出典3-8.] 宮崎繁幹(2003). コニカの生い立ち~35mmレンズシャッター・カメラ コニカI型 クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年 株式会社朝日ソノラマ, PP.13-24.
- [出典3-9.] 清水 勲 (著), 鈴木 理夫(2008). 第3章 大衆漫画の開拓者 戦後漫画のトップランナー 横井福次郎―手塚治虫もひれ伏した天才漫画家の軌跡 (ビジュアル文化シリーズ) 臨川書店, PP.129.
- [出典3-10.] 奥和義(2011). 戦時・戦後復興期の日本貿易-1937~1955年- 関西大學商學論集, 第56巻 第3号, PP.27-35.
- [出典3-11.] ルビコン株式会社 商願昭60-29928
4. コニカ型(Konica型)、コニカ 1型(Konica 1型)
現在、雑誌やウェブサイト等のメディアにおいてこのカメラの名称は「コニカ」、「コニカ型」、「コニカ 1型」、「コニカ I型」、「コニカ I」といった表記で目にするが、ここでは「1型」を指す際、引用を除き判別が容易なアラビア数字表記の「1型」で統一する。(引用は原文のままとしている)
また、混乱を避ける為に1950年8月以前の製品を単に「コニカ」と呼び、以降に出荷された製品を「コニカ 1型」と呼ぶ。
何故区別するかは後に詳しく記する。
また、
Camera-wiki.orgにおいて、便宜上 'Type A~F' に分類しているが、これは
Camera-wiki.orgが解説目的で独自分類したに過ぎず小西六の正式名称でない点に留意が必要である。
これらの分類を引用される場合、第三者が誤解せぬ様 '
Camera-wiki.orgの分類ではxx型になる' といった記述が好ましい。
ただし、
現時点でこの分類方法で分類出来ない物や、更に細かな仕様の違い(現在確認しているだけで20種以上)がある為、混乱を防ぐ意味で拡散しない方が良い。
確定情報
コニカは当初、見返り物資用カメラのルビコンをコニカカメラへ改名[出典3-2, 出典4-1, 出典4-22, 出典4-26, 出典4-27.]して1947年[出典4-27.]1月より(あくまで米国向け見返り物資としての輸出)販売された。
しかし、参考資料「写真とともに百年」[出典4-22.]ではコニカの発売を '昭和23年(1948年)1月' としている。
これついて詳しく解説する。
まずは下の記事を参照して頂きたい。
[出典4-1.]CAMERA1947年1月号の記事
勿論取材は前年の1946年である。
更にこちらも合わせてご覧頂きたい。
[出典4-2.]カメラタイムズ1947年11月20日号の記事
ここで既にコニカ銘が存在している。
また、前項1946年12月の[出典3-2.]でも「近々KONICAに改名」と明記されている。
しかし1948年1月5日号の「カメラタイムズ」[出典4-3.]の記事が発端となり、後年に1948年1月発売説が生まれたと思われる。
それは「明るい今年のカメラ界」とのタイトルで北野邦雄氏によって書かれた以下の文である。[出典4-3.]
先づ小西六写真工業は戦前の試作品ルビコンをコニカと改称して本年は量産にかかる筈であつて、ライカ判の準高級機にして相当数の愛用者を見出し、海外市場にも出ると期待される。
なる程、ここだけを読めば確かに本年(1948年)にルビコンをコニカと改称したかの様に受け取る事が出来る。
しかし実際は同じ雑誌上において、前年号からコニカの名前が使用さている事から、この記事は改称について「本年」を適用したのではなく、「本年量産」という意味が正しい。
「本年」の後に「は」が入っているのでそれまでの文が軽く否定されている。
従って「ルビコンをコニカと改称して」までを今までの経緯だと解釈すれば辻褄が合うのだ。
これから改称するならば、「本年」を先頭に書く可能性が高く「本年、小西六写真工業は戦前の試作品ルビコンをコニカと改称して量産にかかる筈」という文章が自然であろう。
さて1948年説が生まれたのには別の根拠がある。
それは岩間倶久氏によって書かれたコニカの使い方という本である。[出典4-20.]
この本の14ページにコニカ 2Aに至るまでの簡単な解説があり、それによるとコニカ 1型は昭和23~(1948年)となっているのである。
岩間氏といえば小西六淀橋工場研究部出身であり、戦後の小西六復興をつぶさに見て来られた方であるから内容は信憑性が高い。
しかしここでひとつ注意して欲しい。
この項は各コニカの発売時期を書いているのであって改名時期という様なマニア向け記事ではないのだ。
つまりこれを国内販売開始(一般の大衆向け販売)の年とすれば全く辻褄が合うのである。
以上の事実から「写真とともに百年」[出典4-22.]に書かれている発売年は亀井氏の記憶違いか北野氏或いは岩間氏の記事を読み違えたと思われ、コニカ改名は1947年1月でなければ整合が取れないのである。
仮にコニカへの改名が1948年とすれば、ルビコン銘の生産期間が1年半と長期になり、市場の流通数から見ても整合が取れないのだ。
(もっとも資料の多くは既に小西六でも破棄されており[出典4-26.]、当時の出版物から情報を得、まとめ上げたものと思われる)
もし亀井氏が書かれた様に当時の月産をたったの10台と仮定しても、1年半も作られているならば単純計算で180台ものルビコンが存在する事になる。
これはコニカ型最初期の黒板シャッターモデルよりずっと多い数だ。
従ってコニカ(とういう名前のカメラ)の発売は1947年1月と定めるのが適切である。
時期は少し先になるが、同誌の220ページに書かれている下の一節についても続けて解説する。
さらに二十五年八月、ヘキサーF2.8付のものも発売した。これが「コニカI型」と呼ばれるものである。
これではまるで昭和25年、すなわち1950年8月の新レンズ登場時にルビコン銘からコニカ銘となったかに読めてしまう。
しかし実は、同誌の前ページで「これをコニカと改称して...」書かれているので、正しい解釈としてはここで初めて「1型」の名称が与えられたと読むべきである。
コニカ 2型登場を1年後に控え、区別する為に商品名に「1型」を追加したと見るのだ。
また、後に記載するHexar 50mm F2.8の登場時期の根拠とする記事のひとつがこれに当たる。
ルビコン、コニカ、コニカ 1型と短い期間で目まぐるしく変わる名前が後年このカメラをわかりにくくする。
これが後の資料において発売時期が混乱する要因のひとつとなった。
本来ならこの3世代に分離して解説すればわかりやすくなるのだが、一般には皆コニカ 1型という認識である。
事実性能もマイナーチェンジ程度の差しかない。
さて、ルビコンからコニカへの改名後の時代に話しを戻す。
この時、シャッターもコンパーラピッドを参考に自社生産したコニラピッドへ変更している。[出典4-22, 出典4-27, 実機確認.]
改名初期のシャッターはルビコン型に見られる様な黒地のプレートを採用していた。[出典4-22, 出典4-27, 他掲載写真及び実機確認.]
黒地プレート(写真の個体はシンクロ裝置が追加改造されている)
これは製造番号44xx番台まで
[実機確認.]の様であるがコニカ銘の製造番号が4001番から始まっている
[出典4-27.]ので極わずか作られたに過ぎない。
また4133番の個体がコニカ型の広告に使用されているが既にプレートは白地になっている。
[出典4-28.]
[出典4-28.]初期のチラシ
その一方で先に書いた通り44xx番台に黒地プレートの個体が存在する
[実機確認.]等、製造番号で明確に分ける事は出来ない
[未確定情報.製造番号.参照]が、
プレートが黒地の最初期型製造数は多くとも100台前後である。
銘板の色に関わらずシャッター指標はフェリックス同様、 'T, B, 1, 2, 5, 10, 25, 50, 100, 250, 500' となっているので性能に差はない。
[実機確認.]
[出典4-7.]カメラタイムズ1948年7月5日号掲載 1948年5月の生産状況
これはまだ一般市場に投入される以前という事もあり、コニカの月産数が39台と低く、一般市販モデルのセミパールが主力であった事が伺える。
尚、上図は小西六を抜粋したのであり、総計等は全メーカーの値である。
本格的な生産(これは小西六寫眞工業の生産体制が回復した事と無関係ではあるまい)が開始されるのは翌月であり、1948年(昭和23年)6月末を持ってついにコニカが一般市場に投入される事になる。[出典4-6.]
ボディサイズは132×80×65mm、重量が580g、発売時の価格は19,700円であった。[出典4-22, 出典4-24, 出典4-27.]
[出典4-6.]カメラタイムズ1948年6月5日号の記事
記事が示す通りこの時点では名称はまだコニカのままであった。
コニカ 1型という名称は、
2型の生産が決定した際(しばらくは両機が並行生産されていた)に区別する意味で付けられたのは、先に記した通りである。
また、ここで見られる特需とは、現在一般に想像される朝鮮戦争ではなく、進駐軍による特別注文を指す。
[Central Purchasing Officeモデルについて参照]
[出典4-4.]CAMERA1948年6月1日号
この広告からも1948年6月末より市販が開始された事が伺える。
ただこの広告に書いてある「量産開始」のコピーをそのまま「製造開始」と解釈したのか、参考資料を見ているとコニカの製造を6月するものも見られた。
続いて翌7月1日号の広告を見ると「近く...デビュー」のコピーが消え、この間に一般販売された事実を裏付けている。
[出典4-5.]CAMERA1948年7月1日号
以上の事実から
コニカの一般販売は1948年6月末である。
よって宮崎氏が[出典4-27.]で書かれている以下の一節、
筆者の手元には別のソースの記録で、昭和23(1948)年3月の一般発売以降の...
において、発売を3月としたのは誤りである。
ここで触れられている宮崎氏の資料は「戦後日本カメラ発展史」であると推測する。
これまでも幾度か書いてきた通り「戦後日本カメラ発展史」[出典4-21.]における白井氏の記事は根拠となる出典の無い内容なので無視してよい。
また一般市販を境に下写真の小変更が見られる。
左右を見比べて頂くとレンズリングの意匠(刻みピッチ)が一部変更されているのがわかる。
左側が初期のピッチが細かいタイプで、粗い仕様は製造番号1200番台あたりから見られ始め、1600番台あたりまで混在している。
この様な製造番号と仕様の混在はコニカ型では頻繁にあって、未確定情報の項に仮説を書いているので一読願いたい。
さてコニカは生産途中からファインダー内の二重像が補色化されているが、この事は1950年のアサヒカメラ2月号の特集記事において詳細に解説されている。[出典4-13.]
この記事には小西六の松田保久氏が協力しているので信頼性が高い。
つまり実際の搭載はこれより以前に完了していた(1949年末には既に実用化されていた様である)といえる。
また、この補色化はカラーフィルターによる単なる着色ではなく、ハーフミラーを三層コーティング(硫化亜鉛とフッ化マグネシウム被膜による積層)する事で実現しており、[出典4-13, 出典4-14.]光の損失なくハッキリとした二重像を撮影者の目へ届ける事が出来た。
(ただし、ここで語られている3層と後年のマルチコートとは異なる様である)
このファインダーの開発には精機光学研究所(Canon)と共に国から助成金が降りている。
当時のパンフレットには以下の様に書かれている。
二重線が合致しない時は透過光の像は紫色、反射光の像は黄色に見えます。そこで黄と紫は補色關係に在りますから、二重像が合致すれば明快な浮き出した自然色の像と成ります。ですから距離計の精度が高くトツサの距離調節にも誤りをおかす事はない譚です。
因みにこのパンフレットは1950年頃の物であるから、Hexanonはまだ登場していない。
以上の事から、[出典4-24]と[出典4-27]において、補色化された時期を1951年4月のHexanon 50mm F2.8登場時としている記事が見られるがこれは誤りである。
続いて1950年8月には、シャッターにF接点やフラッシュ用ソケット(下写真参照)が設けられ、新レンズHexar 50mm F2.8を搭載した上位機種が23,800円の価格で加わった。[出典4-9, 出典4-22, 出典4-24, 出典4-27.]
ところでケンコー・トキナー(コニカミノルタ)の年表によるとHexar 50mm F2.8仕様の登場は1950年4月となっている。
しかし、アサヒカメラ1950年6月号に掲載されているコニカの広告にはシンクロ接点やF2.8の記載が無く、同年8月号の裏表紙に 'シンクロコニカ' の派手なコピーが見られ、下の記事でも「今後・・・」となっているので、メーカー年表を否定する事になるが4月に発売されていてはこの記事が成立しない。
先にも少し触れている通り
「写真とともに百年」[出典4-22.]の220ページにおいても登場が '昭和二十五年八月' (1950年8月)と記載されているのである。
(ただし同資料では246ページにシンクロ装置が付いて一般向けに発売したのが '昭和二十五年四月' (1950年4月)と記載しているが広告では8月である等、決定資料とするにはいくつかの疑問が残る)
以上の事から、
Hexar 50mm F2.8とシンクロ装置が付いたのは1950年8月である。
[出典4-9.]アサヒカメラ1950年8月号
尚、この記事のHexar F2.8が5枚構成 という表記は誤りで、当時のカタログでもレンズは4枚構成のTessar型となっている
[出典4-14.]し、後にHexanonが登場した際に同誌の記事で従来が '「コーテッド・ヘキサー」(四枚玉)' だったと明記している。
困惑するのは先にも挙げたケンコー・トキナーのサイトにあった年表でもHexar F2.8を3群5枚と誤表記している点である。
これは翌1951年に登場するHexanon F2.8と先の亀井氏の記事とアサヒカメラの情報が混同された可能性が極めて高い。
なぜならばかつてケンコー・トキナーにサイトに掲載されていたHexanon F2.8の登場が1951年8月となっているからである。
三者を比較してみるとよくわかる。
- ケンコー・トキナー年表 1950年4月 Hexar 50mm F2.8(3群5枚) 1951年8月 Hexanon 50mm F2.8(従来の大口経のF2.8にした)
- アサヒカメラの新発売記事 1950年8月 Hexar 50mm F2.8(3群5枚ミス表記) 1951年4月掲載記事 Hexanon 50mm F2.8(3群5枚)
- 写真とともに百年 1950年4月 シンクロ装置 1950年8月 Hexar 50mm F2.8
つまり公式とされている年表のソースが[出典4-9.]や下にある[出典4-10.]をベースにし、亀井氏の記事に押し込んでいると考えれば辻褄があってくる。
また、かつてケンコー・トキナーのサイトにHexar F2.8として紹介されていた写真が後期型であるHexanon F2.8搭載機ある事からも、編集を担当された方があまりよく確認しないまま掲載している事が見て取れる。
コニカの製品にはこの様な誤った公式記事がよく見られるので、1980年台以降の雑誌等に紹介される記事においても誤りが多い。
尚、上の比較で掲載記事を強調したのは、記事上で '五月頃から出る' としているからである。(実際の発売時期は現在未確認)
さて、'コーテッドヘキサー' のコピーで登場したコーティングであるが、この時点ではレンズ内側の空気接触面(4面)のみ施されており、鮮明なブルーコート(硬膜)である。[出典4-14, 実機確認.]
このコーティングによって入射光の損失率が減り、従来品より約20%明るくなり、色調も正確になったとしている。[出典4-14.]
ただし、製造番号等を確認してゆくと実際のレンズコーティングは記事以前より施されており、これはあくまで宣伝効果的な意味での発表だった可能性が高い。[実機確認.]
記事ではF2.8のみにコーティング加工が施された様に記載されているが、実際には最初期を除く全てのレンズにコーティングが行われていた。[実機確認.]
これについては '5-8. レンズのコーティングについて' も参照頂きたい。
一方シンクロ接点であるが、製造番号14xxx番台からコニラピッド-Sの表記とシンクロ接点を装備した個体が出現し始めるのであるが、ところどころに従来のコニラピッド銘でシンクロ接点の無い個体も見られる。[実機確認.]
製造番号が25xxx番台になると、全ての個体でシンクロ接点を装備しているが、コニラピッド表示のままの個体が混在し始める。[実機確認.]
尚、F2.8の新レンズ搭載機には全てコニラピッド-Sの銘板が与えられている。[実機確認.]
製造番号でいえば製造番号29xxxあたりである。[実機確認.]
しかしこの間もHexar 50mm F3.5の個体も混在し、それらの銘板はコニラピッド表記でシンクロ接点有りとなっている。[実機確認.]
これら仕様の不統一は製造番号35xxx番台あたりで収束する。[実機確認.]
またシンクロ接点が追加されたシャッター(たとえ表記がコニラピッドのままであっても)になるとタイム撮影がなくなり、シャッター速度指標の 'T' も消えている。[実機確認.]
この様な混在が発生した理由についてはいくつか考えられるが、岩間倶久氏の著書[出典4-40.]によると従来のコニラピッドにシンクロ接点を追加するサービスが行われた様である。
[出典4-14.]
ところでコニカ 1型に関しては、初期型の一部にF4.5が存在していたかの様な噂が飛び交っていた。
[出典4-23.]
これも発端は「戦後日本カメラ発展史」[出典4-21.]における白井氏の記事と思われ、今日ではこの噂は完全否定されている事を改めて記しておく。
[出典4-11, 出典4-27, 過去の資料に一切記録なし]
「戦後日本カメラ発展史」[出典4-21.]は重厚で立派な本であるが、あくまで後年(1971年)日本写真機工業会に属していた会員によって作成された二次資料だと認識して頂きたい。
さて、新レンズやシンクロ機構を与えられ、いよいよ「コニカ」は「コニカ 1型」となる。
先に挙げた「1型」命名の根拠に加え[出典4-22.]の246ページで「コニカ」と「コニカ I型」を使い分けて記載している事もあり、コニカ 1型への改名(内部的なものだった可能性もある)は1950年8月とする。[出典4-22.]
時代はまさに朝鮮戦争勃発(同年6月)により、経済が大きく回復に向かっていた。
戦争によって開発が妨げられたコニカ(戦前ルビコン)は、戦争によって大量生産が可能となっていった。
これは時代が生んだ皮肉である。
明けて1951年1月30日、小西六の風巻友一氏により口径比1:2.8のレンズが特許出願される。[出典4-14, 出典4-25.]
[出典4-15.]特公昭27-003023より
構図の自由度を高めるべく周辺の収差を減らす目的
[出典4-18]で構成をTessar型からHeliar型(Dynar型)に改良したこのレンズ(特許解説は100mmである)は、Hexanon 50mm F2.8としてコニカ 1型の新たな目となったのである。
[出典4-22, 出典4-24, 出典4-27.]
この新レンズについては、山田幸五郎氏が[出典4-25.]において取り上げて解説している。
風巻友一氏は...(略)...f/2.8の写真レンズを設計した。これは35mmカメラ用としてf=50mmのものがヘキサノン(Hexanon)という名称で小西六写真工業株式会社から発売され一時好評を博した。これはレンズの配列の点においてフォクトレンデルのディナー(Dynar)f/5.5に似ているがガラスの独特の選択によってf/2.8の設計を行うことができたのである。
また[出典4-19.]において、松田二三男氏は以下の様に書いている。
レンズの新鋭ヘキサノンF2.8、5センチレンズは初めて
コニカII型に採用(同時にI型にも付けられた)された3群5枚構成、全面コーテッドで、F2.8級では最高の解像力を持ち...
取り敢えず
コニカ II型の登場はさておき、このレンズに関しては以下の記事で裏付けする事が出来る。
[出典4-10.]アサヒカメラ1951年4月号
この記事にもある通り、Hexanon 50mm F2.8で初めて5枚玉となったのであり、以前に書かれた記事が5枚玉というのが誤りであった事が分かる。
1型Hexanon仕様の発売が1951年5月(紹介記事が4月号)、コニカ 2型の登場が同年12月
[出典4-22.]([出典4-16.]では7月頃発売となっている)と若干のズレがある様に思われるだろうが、単に発売するタイミングの問題であり、採用決定が同時であったとしても不思議ではない。
また、この時期に全面コーティングへ移行している。
一方、Hexanon 50mm F2.8の登場を1950年(昭和25年)2月とする資料
[出典4-11.]も存在しているが、些か他の資料と時期がずれているのでこちらの信頼度は低い。
(この資料
[出典4-11.]はルビコンの登場時期も1年早いので、年号を読み違えている可能性はある)
尚、過渡期であるHexar 50mm F2.8を搭載している個体は、製造番号293xx番~546xx番に見る事が出来るのを管理人は確認している。
(管理人は製造番号23xxxでHexanon銘を確認したが、年式から後年のニコイチ機と思われる)
また、50000番台にはHexar 50mm F3.5も散見され、ラインを切替えながら平行生産されていた様であるが、F3.5のHexar仕様は1953年末に生産を終了した。[出典4-17.]
[出典4-27.]では終了を1954年としているが、1953年に発売されている[出典4-17.]で終了したと過去形で表記されている事を根拠とした。
製造番号から見ると、55xxx番以降は殆どの製品がHexanonに切り替わっている。[実機確認.](極一部にHexarが見られる)
生産数に関しては明確に判明していないものの少し参考資料の補足をしておきたい。
宮崎氏が[出典4-27.]で書いている以下の内容である。
コニカの社史「写真とともに百年」では約5万台が市場に出荷されたと記されているが、これは過小である。5万台は、II型の発売が開始された昭和26(1951)年までに販売された台数であり、I型は
II型と併行し以降も生産・販売されたので、総生産台数はもっと多くなる道理である。今日見られるI型の機体番号で最も大きなものは10万台であり、途中欠番があったとしてももっと多いことは間違いない。
これは「写真とともに百年」[出典4-24.]において亀井氏が「コニカ」と「コニカ I型」を区別している事実を宮崎氏が見落としている為に生じた誤解である。
そこに注意して246~247ページを読めば「コニカ」と「コニカ I型」と2つの記述があり、区別すれば全く矛盾の無い事がわかる。
この「コニカ I型」は約五万台、市場に送られた。
お分かりだろうか?
亀井氏は全てのコニカではなく改良されたコニカ 1型は5万台ほど市場に出たと書いているのである。
この様に資料のいくつかは「コニカ」と「コニカ 1型」を明確に区別しなければ正しく理解出来ないし、読み間違う事で正史が誤って引き継がれていく。
Hexanonレンズを持ったコニカ 1型は製造番号55xxx番付近で現れるので、確かに5万台前後の生産数で辻褄が合うのだ。
[出典4-29.]
最終的にコニカ 1型は、F3.5仕様をTessar型、F2.8仕様はHeliar型(Dynar型)の構成となった。
尚上図は、当時の印刷物を管理人がトレースしたものなので参考程度として頂きたい。
1951年12月に
コニカ 2型が登場した後、しばらくは
コニカ 2型の下位グレードを補う役割を担って生産は1954年末迄続けられた。
[出典4-12, 出典4-24, 出典4-27.]
コニカ 1型の最終販売価格は、物価の上昇もありHexanon 50mm F2.8仕様が30,000円、Hexar 50mm F3.5仕様が25,000円になっていた。
[出典4-19.]
尚、粟野幹男氏は[出典4-23.]の2ページで、
百年史には「26年12月、
II型に切替えられた。」とあり、26年12月でI型の製造は打ち切られたとされていますが本当なのでしょうか?
と書いているが、これは粟野氏が「26年12月、
II型に切替えられた。」の一節を読んで「26年12月でI型の製造は打ち切られた」と思い込んだに過ぎず、百年史、つまり[出典4-22.]にその時点で終了したという記載は何処にも無い。
カメラコレクターズニュースは、あくまでコレクターによるコレクターの為に書かれた本でありカメラ史ではない。
皆さんが読まれる際にはその点だけは留意願いたい。
ただし、粟野氏による想像をガイドラインとし当時の資料を求め探求した結果、意外な真実を確認するといった事が今回2件もあったと氏の名誉の為に付け加えておく。
また、現在程情報が豊富でなかった時代に研鑽された氏の功績が色褪せるものではない。
[出典4-12.]写真工業1955年2月号
コニカ 2型登場後(1型生産終了後)の新価格
代表的な機種も併せて切り出してあるので比較されると良いだろう。
如何にNikonが高価でChiyotaxが安価であったか、それに対するコニカ 1型の立ち位置は興味深い。
未確定情報
- コニカ 1型登場を1947年3月とする資料もあるが、シャッターフェイスが黒いコニカから銀色のコニカへ移り変わった時期の事を指しているとすればおおよそ合致する。
この頃のコニカは月産20~40台程度と言われている為である。
- 製造番号は4001番から101000番台まで続くが当然出荷不適合品も有る為、正確な生産数は不明だが、100000台前後と言われている。[出典4-27.](コニカカメラの50年, PP.22.に製造番号101273番の個体写真あり)
- 製造番号14xxx番台から35xxx番台までによく見られる仕様の不統一性は、軍艦部に刻印された製造番号と実際に生産された時間軸が異なると考える方が自然である。
例えば製造番号の刻印された軍艦部が一つの場所にまとめて保管された状態で、先入れ先出しの管理方法を取っていなかった可能性である。
また製造途中で何らかの不都合があり、一旦ラインから外された個体が不都合箇所を修正した後にラインへ戻されるという事は、製造現場では極当たり前に見られる。
この様に考えれば仕様が混在していたとしても不思議ではない。
同様にシャッタープレートが黒から白に変更される区分けや、 'MIOJ' の刻印が軍艦部から底革押印に変更された区分けも製造番号で行う事が出来ない。
以上はあくまで管理人の憶測なので未確定情報とする。
現状、軍艦部の番号、レンズ番号、シャッター番号、ボディ番号においても、それぞれ組み合わせはバラバラで数字が前後している。
- コニカ社内資料の一部に 'コニカ I NH Hexanon 50mm F2.8' という表記が見られるが、他に見られない為、不明とする。
資料
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- [出典4-3.] 北野邦雄(1948.1.5). 明るい今年のカメラ界 カメラタイムズ カメラタイムズ社, PP.4-5.
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- [出典4-6.] (1948.6.5).コニカ市販六月末より カメラタイムズ カメラタイムズ社, PP.7.
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- [出典4-23.] 粟野幹男(1986). コニカI型 Camera Collectors News カメラコレクターズニュース社, 9月号. PP.1-10.
- [出典4-24.] 菱田耕四郎(1987). 戦後のカメラ クラシックカメラ専科-10 小西六カメラの歴史 株式会社朝日ソノラマ, PP.60.
- [出典4-25.] 山田幸五郎(1966/1990.5.1). 第11章写真レンズ 工学の知識 東京電機大学出版局, PP.168-169.※1990年版を採用
- [出典4-26.] コニカ25記念誌グループ(1988.7). 年表 コニカ八王子工場25周年記念誌, PP.68-79.
- [出典4-27.] 宮崎繁幹(2003). 35mmレンズシャッター・カメラ コニカI型 クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年 株式会社朝日ソノラマ, PP.18-24
- [出典4-28.] 宮崎繁幹(2003). 35mmレンズシャッター・カメラ コニカI型 クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年 株式会社朝日ソノラマ, PP.23.
- [出典4-29.] コニカパンフレットを管理人がトレースしたもの
5. 全コニカ 1型に関連すること
5-1. オプション類
レンズフード
角型
丸型(上)と角型(下)がメーカー純正として供給されている。
ベビーパールと同径(フード内径32mm)なので共有可能。
右ACE製品の様にサードパーティ製も多く使える。
レンズキャップ
コニカ 1型用はキャップ内径32mmかぶせ式。
純正品は本体上部の刻印と同じ書体で「Konica」の意匠があり、表面処理も大変美しい。
レンズフィルター
フィルター径は19mmでコニカ純正でKonifilterの名前で供給された。
[出典5-3.]フィルター表(1950年)
1950年ころまでは、上図のラインナップだったが後に整備され、UVフィルターに、Y1, Y2, R1、カラー用フィルターとしてB2, B7, B9, A6, A9が登場、NDフィルターも供給されていた
フードケース
外側にKONIFOODの刻印がある専用のフォードケースで、カメラストラップに取り付けて使用した。
フードだけではなく、ご覧の様にフィルターも収納可能。
オートアップ
レンジファインダー時代に広く普及した接写用レンズアタッチメント。
考案者はマミヤ光機の島田貫一郎氏で小西六写真工業の純正品扱いとして販売された。
装着する事で0.5mまで被写体に寄る事が可能。
[出典5-3.]
拙者は深度が浅くなる為、通常の接写にはF4.5~F6.3、書類等の複写にはF6.3~F12.5まで絞る事を推奨している。
[出典5-3.]
[出典5-6.]レンズ関連アクセサリー取り付け順序
コニカ1型~3型まで同じ構造であるが、オートアップにフィルターは上図の様に取り付ける本体と径が異なるケースがある(2型以降)為要確認。
ボディレリーズ
流石にレンズシャッターに付いているレリーズノブは使い勝手が悪く、サードパーティを含めてボディレリーズが作られた。
上は純正のボディレリーズ。
ブレスした位置でロックしておく事が可能で、バルブ開放のままロックさせておく事が可能。
中央写真用品株式会社製の 'トリガーレバー' 。(中央写真用品株式会社ではトリガーレバーという商品名)
構造は純正と同じ。
差別化として押し込んだ位置に指あてが付いている。
同じく中央写真用品株式会社製の '新型トリガーレバー' 。
[出典5-5.]広告
上記広告でも説明されている通り、ボディレリーズにロック機構を備える事で二重露光を抑制する。
巻き上げノブに付いている針金が回転すると、レリーズロックを解除する仕組みになっている。
[出典5-4, 出典5-5.]
針金である故に動作精度は不安定であるが、経時変化によるものか今となっては確認出来ない。
テレコン、ワイコン
35mmと100mmのコンバージョンレンズ。
ねじ込み式のアルミ鏡胴でノンコーティングに見える。
これがコニカ専用で作られた物か、他機種の転用かは不明である。
Hexar 50mm F3.5のレンズへはそのままねじ込んで取り付ける事が出来るが、F2.8仕様ではフィルターサイズが異なる為、上の写真の様なレンズへ付いているリングを介して取り付ける。
テレコンにはフラッシュソケットへ付けるファインダーマスクがあるが、35mm側はどうやってフレーミングを行っていたのかは不明である。
5-2. Made in occupide Japanモデルについて
公式な呼び名ではなくあくまで俗称である。
'MIOJ型' と略される事もある。
'Made in occupide Japanモデル' と呼ばれる製品群は、終戦翌年の1947年2月20日の指令 'SCAPIN-1535: MARKING OF EXPORT ARTICLES' によって生まれる事となった。
[出典5-6.]
[出典5-1.]
指令の内容は全ての輸出品に対して 'Made in occupide Japan' の表示を義務付けるものであった。
サインしているのはマッカーサー付副官の John B. Cooley 大佐である。
[出典5-1.]
この指令は1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約まで効力があった為、厳密には
輸出された殆ど全てのコニカ 1型がこれに該当する。(コニカ 1型は1954年まで生産された)
また、コニカ 2型の初期までもが含まれる事になり、事実初期に輸出された個体には 'Made in occupide Japan' の刻印が底部に見られる。
[実機確認.]
一般にコニカ 1型で 'Made in occupide Japanモデル' と呼ばれるのは、本体の軍艦部に刻印がある個体を指す。[実機確認.]
尚、これらの刻印幅は写真の通り約33.6mmで統一されている。
[実機確認.]
この刻印は、製造番号が10000番台(早い個体で8000番台)中期より軍艦部上面から本体底の貼革部分に移動する。
[実機確認.]
移動理由については色々と書かれているが憶測であり、現時点で正式な資料が無い為に不明である。
中でも製造番号5xxx~11xxx番台の範囲で、軍艦部に 'Made in occupide Japan' の刻印が無く、底革の一部を切り欠いて 'Made in occupide Japan' と押印された別の革をはめ込んだ個体をいくつか確認している。
[出典5-7, 実機確認.]
これらの個体は連続して存在するのではなくポツリポツリと広範囲に渡り点在するので、集中的に作られた物なのかイレギュラーとしての措置なのかは不明であるが、粟野幹男氏が[出典5-7.]の3ページで取り上げた製造番号5714の個体がそれに該当する。
[出典5-7.]に掲載されている粟野氏所有の個体
製造番号11928の底部
※撮影時の角度が異なる為、長さが違う様に見えるが錯覚。
これらの個体はあまりにも点在して存在する故に、後の底革押仕様までの過渡期仕様とも現時点では断定出来ていない。
一般的な底革押印
ただし、後に記す 'Central Purchasing Officeモデル' の場合は、ロット番号に関わらず軍艦部上面に刻印が見られる。
[実機確認.]
また本体に刻印がなくても付属の速写ケースに刻印があるもの
[実機確認.]を指して 'Made in occupide Japan
モデル' と言う人も居る。
いずれにせよ現在では、刻印により個体を大まかな生産時期で分類する目的(ただし生産時期に関して、私は製造番号を記録してデータベース化しているので、もはや刻印の有無はあまり意味がない)や、販売業者が個体を高く売ろうと希少性がある様に宣伝しているのが現状である。
[2018年調査(ショップ価格調査、オークション相場、ebye価格)]
例えば2018年8月1日のヤフオク出品価格で見れば、通常のコニカ 1型の出品価格が1,000~6,800円に対し、革底MIOJ押印モデルでは、10,260~19,800円と大幅に差があった。(著しい損傷の個体を除く)
これは 'Made in occupide Japan' と打刻された個体が少ないという定説に由来しているが、それはあくまで軍艦部へ打刻されたものに限った話しで、
革底に 'Made in occupide Japan' と押印された個体は相当数に達していて全く希少ではないので注意が必要である。
製造番号でいえば、8000...9000...10000~56000番台の個体殆どに 'Made in occupide Japan' 押印が見られ(約40,000台)
[実機確認.]、これは総生産数を100,000台と仮定した場合の半分弱となる。(最初の約6,000台は軍艦部に刻印のある仕様の為除外)
考えてみれば戦後で外貨を呼び込む事が重要だった時代の製品であるから、この結果は当然といえば当然なのだ。
尚、刻印の有無だけなので機能的な違いはない。
因みに性能で語るならば、こういった刻印の無い後期モデルの方が改良が進んでいるので完成度と安定度は増している。
特にシャッターとレンズ、コーティングの改良は直接性能に影響する部分なので実用目的ならば後期型を強く勧める。
イレギュラーなのか軍艦部の刻印で極少数のみ、異なるフォント(下側)の個体を確認している。
[実機確認.]
特に 'a' の跳ねや 'p' の形状に大きな差が見られる。
5-3. Made in Japanモデルについて
国内販売モデルにもいくつかの違いが見られ、革底に 'Made in Japan' と押印されたもの以外に写真の様に裏蓋のロック機構へ打刻されたものもある。
このロック機構への刻印は、
製造番号54xxx~58xxx番台のみしか存在が見られず、実はこちらの個体が希少モデルである。
[実機確認.]
これらのバリエーションも製造番号に明確な区切りはなく仕様の混在があり、総生産数は2,000台~3,000台に収まる。
5-4. Central Purchasing Officeモデルについて
コニカ型(※1型ではない)の一部には巻戻ノブ上面に 'C.P.O' の刻印が入ったモデルがある。[実機確認.]
これは中央購買局という意味でコニカ型の場合、直接アメリカ軍へ納品された個体に刻印されている。
このモデルに関しては、製造番号が進んでも 'Made in occupide Japan' の刻印は軍艦部にあると書いていたが、底革押印の個体を入手した為、統一性は無い事が判明した。
こちらも刻印の有無と機能には何ら関係はない。
アルファベット表記が62xx番台と76xx番台に、カタカナで 'シーピーオー' と刻印された個体が111xx番台と16xxx番台、19xxx番台にある事を確認している。[実機確認.]
また、革ケースにも 'C.P.O' 、 'シーピーオー' の押印がある。
[実物確認.]
5-5. U.S. Army Signal Corpsモデルについて
米国陸軍(United States Army)の戦闘支援部隊である信号兵団向けに製造されたモデル。
略称はUSASC。
軍艦部に 'U.S. Army Signal Corps' の刻印がある。
このモデルの性質上、中央購買局を経由しない為 'C.P.O' の刻印は無い。
生産数はわずかで、製造番号78xxx付近で数台確認されているに過ぎない。[実機確認.]
製造番号から納品されたのは1951~1952年頃と推測出来る。
また本体底革には 'MADE IN JAPAN' の押印がある[実機確認.]為、1952年の講和条約以降に生産されている可能性が高い。
5-6. レンズのリバース刻印について
コニカ型にはレンズの刻印が天地逆となったものが僅かに存在する。
[出展5-4. 実機確認.]
個体数が少なく記録が確認出来ない為、何故天地逆で刻印されたのか不明であるが、シンクロ装置が付いている個体と付いていない個体がある。
[出展5-4. 実機確認.]
製造番号もその時期と一致している。
5-7. レンズの距離指標について
コニカ型、コニカ 1型の目視用距離指標は現在以下4種類のバリエーションが確認出来ている。
- m表記
- リングに距離を直接刻印。(最初期)
- 距離を刻印したプレートをリングにビス止め。(最終期)
- feet表記
- リングに距離を直接刻印。(第2期)
- 距離を刻印したプレートをリングにビス止め。(第3期)
雑誌やウェブサイトに '輸出する為、m刻印のモデルにfeetプレートを取り付けた' という表記がされているのを目にするが、これも憶測が拡散流布された完全な誤りである。[実機確認.]
最初に作られた個体全てがm指標でレンズのリングへ直刻印されており、feetのプレートが乗った個体は海外にも存在していない。[実機確認.]
このm指標の個体は製造番号77xxx番まで存在している事を確認している。
ただし製造番号72xx番台からはfeet直刻印の仕様が例によって混在している。
この事からも '輸出する為にm刻印のモデルにfeetプレートを取り付けた' という事は有り得ないのである。
それではfeet刻印のプレート仕様はいつ登場したのかといえば、製造番号88xx番台あたりである。
理由は明らかにされていないが、コニカ 2型登場後数年が経過してからという事になる。
これは国内販売モデルであっても、全てがfeet指標となっている。
m刻印のプレート仕様は、長らくケンコー・トキナーに掲載されているコニカ 1型の写真でのみ存在を確認していたが、一般市場に流通していた事が判明した。[実機確認.]
5-8. レンズのコーティングについて
初期の一部(下の写真)以外すべてのレンズにはコーティングが施されている。
これは[出典5-2.]吉川速男氏が著書「私のコニカと幻燈」においても各所で触れており、この本が1948年9月10日に初版という事からも、コニカが一般に販売された頃には既にレンズコーティングされていた事の裏付けとなる。
コニカ型、コニカ 1型のレンズのコーティングは以下の種類に分けられる。
一番左が比較的初期に見られるタイプで、撮影した個体は製造番号が5xxx番台前半のものである。
保存状況によって色の濃さに多少の差があり、一見すると無色透明に見えるが、光を当てて角度を変えると薄っすらとコーティングを確認出来る。
先の吉川氏のカメラも著書掲載の写真で意匠確認をすると、間違いなくこの頃に製造された個体に該当している。
[出展5-2.]
これが製造番号1xxxx番台辺りになると左から2枚目のような鮮明で美しい青色のコーティングに変化する。
生産数で言えばこのタイプが最も多く、製造番号6xxxx番台初期まで見ることが出来る。
時期でいえば1950年~1951年である。
続いてが一般的にパープルコーティングと呼ばれるもので、後半の殆どがこの紫である。
(1950年2月の段階でファインダーの補色化が既に完成しているから、その技術は当然レンズにも活かされている)
製造番号から 'コニコード・ヘキサー' となった時期に当たる。
これが製造最終に近づいてくるとアンバー色が見られ始める。
俗に言うアンバーコーティングであるが、これも最前面のレンズがアンバーなだけで、多種のコーティングが施されている。
製造番号8xxxx番台頃から見られるものの、すべてが切り替わったのではなく、あくまで散見されるといった類だ。
尚、例によって各仕様の切り替わり製造番号は入り乱れている為、明確な位置づけが出来ない。
また、先に雑誌で書かれたコーディング時期を書いたが、あくまで紙面上で発表された時期であり、実機を確認するとコーティング変更時期はやや遡っている様である。
資料
- [出典5-1.] (1947). SCAPIN-1535: MARKING OF EXPORT ARTICLES(輸出品のマーキング) 国立国会図書館蔵, 1947.2.20.
- [出典5-2.] 吉川速男(1948.9.10).私のコニカと幻燈 株式會社六和出版部, PP.23-24, PP.38-43.
- [出典5-3.] 小西六寫眞工業株式會社(1950). コニカ 1型パンフレット.
- [出典5-4.] 中央写真工業社(1953). 28年度の新製品と改良新型並に29年度の展望 写真工業 株式会社写真工業出版社, 12月号. PP.357.
- [出典5-5.] (1954.5). トリガーレバー 中央写真工業社広告 CAMERA 株式会社アルス, 5月号. PP.22.
- [出典5-6.] 渡辺等.吉川喬(1957). コニカのアクセサリー コニカIII型の使い方 アミコ出版社, PP.65.
- [出典5-7.] 粟野幹男(1986). コニカI型 Camera Collectors News カメラコレクターズニュース社, 9月号. PP.1-10.
- [出典5-8.] 宮崎繁幹(2003). 35mmレンズシャッター・カメラ コニカI型 クラシックカメラ選書-28 コニカカメラの50年 株式会社朝日ソノラマ, PP.18-24.
6. コニカスタンダードについて
コニカ 1型にはスタンダードと呼ばれるタイプが存在するという。
検証
そこで調べると初出は下に示したアミコ出版社 コニカグループ編 'コニカIII型の使い方' の6ページではないかと思われる。
後に同社出版の改定版とも呼べる 'コニカIIIMの使い方' にも機種追加の上同様の表記がある。
[出典6-2.]
※尚、IIAの発売年は誤植と思われる
同誌ではコニカ改名後の最初期ロット(ロゴがKonica)の写真を 'スタンダード(F3.5付き)1947年8月' として掲載しているが、コニカの広報資料にその様な呼び名は見られない上に発売時期すら先に挙げた当時の資料と全く一致していない。(コニカでは戦後初期型等の名称が使われている)
上のコニカ 1型の項で記載した通りコニカ型の発売時期は1947年の1月である。
[参照. '4. コニカ型, 確定情報'.]
或いは発売時期を一般市場へ投入した日としたのなら、先のコニカ型[出典4-7.]にある通り1948年6月末であるし、その時代のコニカは 'コニカIII型の使い方の6ページ' に掲載されている写真と外観が異なる。
それどころか、アミコ出版社から先に発売されている 'コニカの使い方' においては
スタンダードという呼び名は一切登場していないのである。
更に目次には、
6ページについて誰が担当した記事なのか掲載されていない。
他の記事には(小西六の)誰が担当したのか名前が明記されている。
この事から6ページの内容は小西六の公式資料でない。
それではここに記されている1947年8月の根拠は何処かと探してみるとピタリと一致するのは商標登録日である。[出典3-3.]
商標登録日を発売日に書き違える事からも小西六による資料とは考えにくいのだ。
ただ、このページをよく見るとIII L1部分にパンチ穴の痕跡がある事に気付く。
[出典6-2.]
このパンチ穴により、私は該当記事そのものが何かの転載かと考えたのであるが、後年に発売された 'コニカIIIMの使い方' と比較するに、たまたまパンチ穴の開いた原稿を使用した様である。
ところでアミコ出版社は小西六写真工業株式会社の敷地内に事務所を構える...言ってしまえば家元お抱え出版社の様な存在で、小西六関連商品をフォローする本を多く出版している会社であり、本来なら信頼性が高い筈である。
しかし一方では、小西六に気を使ったのか、 'コニカの使い方' を読めば不必要な誇張や曖昧な表現が多かった。
興味のある方は古本を探して読まれると良いだろう。
ただし、本編はコニカグループ編という事で、内容の多くが小西六のコニカ開発に関わった精鋭による正確なデータを根拠として解説されており、はぐらかしも一切なく実に素晴らしいのである。
その様な本であるから、バイブルとされた方も多かったのであろう。
いずれにせよ
スタンダード表記は現在目にする公式な資料に掲載されておらず、また広告にもその様な名称が見られないのだ。
また、目次においても該当箇所の監修者が明かされてない事や、これが
コニカ 3型の本である上にコニカ 1型発売から既に10年経過している事、発売日表記がいい加減である事を踏まえると、紹介の便宜上(それほど調査せず)分類表記したものと私は推測している。
また同じページでコニカ 1sなる機種も紹介されているが、これも
小西六の記録には出てこないこの記事だけに見られる独自名称である。
1950年8月に登場したコニラピッドS搭載機種の事だろうと推測されるが、アミコ出版社の本では発売時期が少し異なり1950年4月となっている。
これは後の「写真とともに百年」で書かれているシンクロ装置が付いた時期
[出典6-4.]と合致しているのが興味深い。
実は「コニカ八王子工場25周年記念誌」巻末資料に書かれている年表のコニカ 1型発売時期は、この資料を参照している様で1948年3月としている。
が、これは小西六八王子工場勤務の有志によって作成された年表であるが故、あまり鵜呑みに出来ない。(鵜呑みにしては大変な事になるだろう)
あくまで彼らは写真産業のプロであり、歴史家でもなければ、研究家でもないのだ。
また、アミコによる上記の年表では、
コニカ 2型の発売年月が10月になっていて、これもどの資料とも整合性がない。
この本が発売された年代も踏まえるとそこまで細部を重視していなかった可能性もある。
そもそも小西六の研鑽で有名な菱田氏と宮崎氏のご両名が、著書においてコニカスタンダードの名に全く触れていない。
尚、菱田氏の著作「小西六カメラの歴史」においてスタンダードコニカなる表記が見られるが、あくまでコニカの標準機というカテゴリ名として取り扱ったのであり、コニカ MR-70LX ニュー望遠王までをまとめて分離したに過ぎないのである。[出典6-4.]
最後に。
スタンダードの意味は標準(~の規格)を指し、わずかに存在する初期型ではなく一般普及型に用いる事が通常である。
資料
- [出典6-1.] 秋山青磁(1952). コニカの使い方 アミコ出版社.
- [出典6-2.] コニカグループ編(1957). コニカIII型の使い方 アミコ出版社, PP.6.
- [出典6-3.] 亀井武(1973). 生産と販売の再開~カメラブームの到来 写真とともに百年 小西六写真工業株式会社, PP.246.
- [出典6-4.] 菱田耕四郎(1987). 戦後のカメラ クラシックカメラ専科-10 小西六カメラの歴史 株式会社朝日ソノラマ, PP.70.
最終更新:2023年06月08日 13:53