記憶、種族の壁(青の地平のトーラ Lv1 後日談)



 夜が明けて間もない頃、人々は活動を始める。
 しかし、トコシヱ隧道には陽の光が入らない。常に点灯している街灯は夜明けの目印になるはずもなく、いわゆる目覚まし時計を使って起床時間の管理をしている。

「ふわぁ……何だか、少しだけ疲れが残っている気がするわ」

 今の時間は午前七時。早いと言えば早いが、店の経営者にとっては遅いと考える人も少なくない。それに、まだ開店時間には十分に余裕があった。
 そもそもこの時間に起きること自体が珍しい(いつもはもう少し早い)沙紗だが、ただ単に寝不足、というわけではない。
 ややぎこちない動作で沙紗は朝の準備を済ませる。独り身になって既に五年経つというのに、家事の手際の悪さは相変わらずだ。沙紗がいつも使っているスペース以外は埃が少し溜まっているが、それを気にする様子もない。
 朱のジャケットに身を包んだ沙紗は家を出て、街灯が照らす道を歩いていく。
 ふと、少し前、トーラと名乗る女性に会った時のことを考えた。

『私はトーラと言います』

 何でもない、いつものように仕事を終え、いつものように散策をしていたあの日のこと。帰り際に数匹のモンスターと対峙する彼女と出会い、それぞれの事情が絡み合った結果なのだろうか、初めてとなるダイブをすることになった。
 沙紗はダイブの内容を今もなお鮮明に覚えている。もちろん他の人には全く話していないが、沙紗の記憶にはしっかりと刻まれていた。何故なら、彼女の精神世界で触れた問題は、沙紗自身にも思い当たる節があったからだ。
 記憶。生きている限り蓄積し、ある記憶は定着し、またある記憶は忘れ去られていく。彼女はあまりに長い生の中で、残したかったはずの記憶を埋もれさせてしまっていた。
 対して沙紗は、彼女に比べればまだまだ短い人生だ。無意識のうちに、その記憶の中で取捨選択をしている。もう既に忘れ去られた記憶も少なくないだろう。
 記憶を捨てないようにするには、きっかけが必要だ。印象に残ることがなければ、それは単なる情報として流れてしまう。

『この場所に、なにか楽しいものを、一つ作って残してください。そうすれば、きっと、忘れないでいられるから……』

 精神世界の中で彼女に頼まれたことだ。彼女は「記憶のきっかけを精神世界の中に残す」ことで記憶の定着を図ろうとしたのだろうか?

『あたしはトーラさんのこと、ずっと覚えていたいし、貴女にも、あたしのことを覚えていて欲しい』

 精神世界の中で、沙紗はたしかにそう言った。だからこそ、記憶を辿った。彼女と出会ってから、ダイブするまでのほんの僅かな記憶を、だ。

「さて、と。まずは確認しないといけないよね」

 その中で思いついたのが、今到着した沙紗の店、「鋼の庵」だ。沙紗と彼女が出会った要因の一つであろう鍛冶屋としての姿を、あの場所に残した。
 ただ、事の発端——蒼天の道で出会い、彼女の槍を修理すること——それがなければ、ただの日常として過ぎ去っていたのかもしれないと思っていた。


   * * *


 業務を終えたのは、午後五時を過ぎた頃。営業の終了を知らせるプレートをドアノブにぶら下げ、今日こなした依頼を確認する。
 小さな依頼から大きな依頼まで、合わせて八つの依頼。依頼の多くは武具の点検で、次点で装飾品の製作及び修理で、稀に軍属も来る。クラスタニア、アルキア、大牙、三つのコミュニティが協力し合うこの時代に軍を必要とするのは、空賊への対策や、未だ不安定な地表の街での外敵対策である。

(そういえば、トーラさんも軍の人だったっけ……)

 そういう意味では、珍しい客かもしれない。経緯からすれば沙紗が強引に連れてきたようなものだが……。
 今日の依頼主に、軍属はいなかった。惑星が再生する前は大牙軍や、噂を聞きつけたアルキア軍が三日に一人の頻度で訪れるほどだったが、今では一週間に一人来たら多い方である。ソル・クラスタが平和になった証だろう。

(でも、それも見かけ上なのかしら)

 今でも、人間とレーヴァテイルの溝は残っている。大規模なものにはなっていないものの、小規模な諍いは日常茶飯事のように起きているらしい。それでも……

『今貴女達レーヴァテイルがあたし達人間をどうしたいのか、それが大切だと思うわ』

 彼女に言ったこの言葉は、立場を入れ替えて考えてみても大切であることには変わらない。結局、双方に意識改革は必要なのだ。
 沙紗には、人間に対してもレーヴァテイルに対しても同様に接している自負がある。客は客、そこに種族の違いはない。その亡き父の言葉を実践しているに過ぎないのだが

『私はあなたという人に興味があります。どうしてそういう風に人間とレーヴァテイルに分け隔てなく接することができるのか』

 これは、ダイブを承諾した時に彼女から発せられた言葉だ。長く生きてきた彼女が言うのだから、あまりない考え方なのだろう。

(……今日は、採取はやめておこうかしら)

 思考が止まらないままでは、採取に集中できないどころか、警戒も緩んでしまう。やめるという選択肢を出せるだけマシかもしれない。
 蒼天の道へのトロッコへ行きかけた足を、自宅がある方角へ向けた。
 この思考の続きを、近い未来に考えざるを得なくなる時が来るとは知らずに……




Lv1本編



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最終更新:2017年08月13日 17:46