夜が明けるまであと僅かな時刻。
ラタス洋のほぼ中心、
ポツン島の遥か沖合を一隻の船が航行していた。
船は
オルディア公国に所属する貨物船であり、名は『ルニウス号』という。
そんなルニウス号のマスト上にある見張り台。
周囲の監視という仕事を与えられた若い船員は欠伸混じりに夜の海をひたすら眺める。
天候は夕刻頃から徐々に雲が増え始め、今は月も星も見えない闇の中での航海。
しかしそんな空模様であるが風は殆ど無く、海は不気味な程に静まり返っていた。
話で聞いただけの、遥か遠くのサイレヌス海に迷い込んだかのような錯覚さえ覚える海。
空の闇と海の黒が混じり合い、境界すら分からなくなった漆黒の世界では足元に置いたランタンの小さな灯りのみが心の拠り所であった。
マスト上の彼は今日何度目かの不満を頭の中で反芻する。
ここは広大なラタス洋のど真ん中であり、暗礁すらも存在しない海域だ。
そんな所で一体何を監視しろと言うのか?と。
嵐、海賊、海の魔物…。
実際数え上げるとキリは無いのだが、彼の長いとは言えない船乗り人生での危機と言えば数ヶ月前に発生した魔物の襲撃ぐらいである。
だがその時は熟練冒険者が船に乗っていた事に加え、その魔物も雑魚と言っていいような相手であった。
つまり彼は今まで一度たりとも、本当の危機的状況に遭遇した事が無いのである。
周囲には何も見えず、風も波も殆ど無く、油断と退屈に支配された彼に睡魔が訪れるのは最早必然であった。
眠りに堕ちたのは三分にも満たない僅かな時間。
だが彼は、そのたった三分を激しく後悔する事となる。
甲板から響き渡る船員達の怒号で微睡みの時間は終わりを告げた。
そして直後の凄まじい衝撃で彼は眠りから完全に引き戻される。
「うわああああああ!!!!!!」
衝撃によって見張り台はマストごと傾き、彼は振り落されそうになるのを必死に堪える。
マストの高さは甲板から数十メートル。もし振り落とされようものなら落ちたその先が海面だろうが甲板だろうが結果は酷い物だろう。
しかし身体のあちこちをぶつけて痛めたものの、彼の命は間一髪で船に繋ぎ留められた。
衝撃からして何かにぶつかったのは確かだ。
だが、こんな海の真ん中で一体何にぶつかった?
混乱する思考の片隅で衝撃の正体を考え、まず脳裏に浮かんだのは船同士の衝突。
しかし僅かな居眠りの間に水平線の向こうから現れ、尚且つ突撃してくるような速度の船なんて聞いた事も無い。
次に浮かんだのが暗礁だったが、今居る海域には暗礁なんて存在しない筈である。
ならば一体…?
彼は意を決し、傾いた見張り台から立ち上がって周囲を確認してみる。
マストの下、霧に覆われた甲板ではランタンを持った他の船員達が右へ左へ大騒ぎしている光景が見えた。
(霧…?)
さっきまで霧なんて発生していなかった筈だ。
だがそう思っている間にも霧は次第に濃くなっていく。
彼は痛む身体でゆっくりと目線を甲板から海へと向け、そして自分達の現状を知る。
夜明けの霧の中、ルニウス号は朽ちた難破船の群れに囲まれていると言う光景を。
船長による怒りの鉄拳制裁は奇跡的に一発だけで済んだ。
単純にそれどころでは無かっただけである。
簡単にではあるが調べた結果、幸運にもルニウス号の損傷は軽微であり浸水も無し。
だが水面下にある難破船の残骸に乗り上げている為、コレを取り除かないと脱出する事が出来ないという状態であった。
傾いたルニウス号の船倉から様々な道具を引っ張り出し、船員総出で残骸を解体する為の準備を開始する。
しかし見れば見る程に異様な場所であった。
立ち込めた霧の中、数え切れない程の難破船が無造作に積み重なったその光景はまさに残骸の島。船の墓場としか言いようが無い。
そんな光景を見て、誰かが呟いた。
『サルガッソー』と。
それはラタス洋を行き交う船乗り達の間で囁かれる噂の一つ。
美しき悪霊の姫が潜むという死の島であり、その腕に抱かれた船乗り達は尽く屍となって囚われてしまうという話だ。
ただの噂と思っていた物が目の前に存在し、牙を向けている。
得体の知れない恐怖が徐々に伝染し、船員達は徐々に騒めき始め…。
「「落ち着けィ!!」」
そんな船員達の動揺を粉砕するかのように、船長の一喝が甲板上に轟いた。
「サルガッソーなどただのつまらんお伽話だ!俺達は時として海の魔物すら退かせる海の男だろうが!」
「ここは潮流に乗った難破船が集まっているだけの場所だ!!それ以上でもそれ以下でもない!」
声を張り上げて鼓舞するそんな船長の姿に船員達の動揺が収まっていく。
「いいか!俺達は海の男だ!俺達の航海を邪魔するモノがあるならそれら全てを正面から打ち砕く!そうだろう!」
この船長、聞いた話ではグリル帝国海軍の出らしい。
グリル帝国の兵は非常に精強であり、レッサードラゴンすら屠ると言われている。
そんな船長の姿に若い船員は安心感を覚えた。
現に今この状況すら打破するかのように声を張り上げ、部下である船員達を鼓舞しているのだ。
たとえそれが何らかのスキルの効果だったとしても、それを的確に使うだけの実力と判断力を船長は持っているのである。
もう何も怖くはない。
鼓舞された船員達は力強く拳を振り上げ、状況を打破する為に一斉に動き始めようとしたその瞬間。
『…メ… … …チ』
遠く霧の向こうから。
『…メ…沈メ…沈ム…骸タチ…』
透き通るように美しい。
『…哀レ…伸バシタ手ハ…誰ニモ…届ク事ハ無ク…』
だが、魂の奥底に冷たく突き刺さるような歌声。
『深ク静カナ…水底ヘト…誘ワレタ…』
やがてその歌声がはっきりと聞こえた途端。
その場に居た全ての者の身体中に鈍痛が走り、全員が崩れ落ちるように倒れ込む。
「ぐああああああああ!」
「な…なんだこれは…!」
甲板のあちこちから悲鳴が上がり始めた。
若い船員も状況が全くと飲み込めないまま、全身を襲う痛みと平衡感覚の狂いにのたうちまわる。
そして偶然にも、歌声が聞こえて来る方向へと視線が泳いだその瞬間。
「!?」
突如吹き荒れた風によって周囲の霧が散り、海面を割って無数の船の残骸と骸で出来た島が浮かび上がって来る光景を目にしたのである。
『サア始メマショウ…忘レ去ラレタ私ノ…ソシテ忘レ去ラレル貴方達ノ…』
その島の頂に佇むのは、一人の美しい白き姫の姿。
姫はルニウス号に向けて両手を広げながら笑みを浮かべ…。
『終ワラナイ怨嗟ノ宴ヲ』
詠唱にも似た最後の一節が終わると同時、水面下より大量の死霊が現われ船に殺到し始めたのだった。
悲鳴すら上げる事を許されず、死霊の軍勢に飲み込まれる船員達。
そんな中、船長から受けた鉄拳制裁の痛みによって辛うじて狂った平衡感覚からの解放に成功した若い船員はこの場から逃れようと船尾の方へと這うように進む。
「なんだよこれ!俺のせいなのかよ!なんなんだよあいつは!」
彼は涙目で後ろを振り返る。
そこには船長だけがただ一人、手にしたサーベルで殺到する死霊達を薙ぎ払っている姿が見えた。
だがそんな死霊達の間からイソメやゴカイのような形状の魔物が新たに現われ、それらが次々に船長へと襲い掛かる。
船長はそんな魔物相手にも暫くは持ちこたえていたものの、やがてその姿は飲み込まれるように見えなくなってしまった。
「…お…、俺は…!俺はまだ死にたくない!」
若い船員は船尾に設置してあった小舟に潜り込むと雨除けの布でその身を隠す。
そして布の下で震える中、また歌が聞こえ始めた。
『私ヲ愛スルト誓ッタ貴方ノ笑顔ト抱擁ハ…』
悪霊の姫が両手を空に掲げる。
それに呼応するかのように周囲の残骸や躯が寄り集まり、巨大な腕を形成を始め。
『私デハナイ他ノ誰ニ向ケラレテイタノデショウカ…』
骸の腕がルニウス号を抱きしめ始める。
『ケレド私ハ此処デ貴方ヲ待チ続ケマショウ』
『アノ日誓ッタ貴方ノ言葉ヲコノ胸ニ抱イテ』
歌詞が終わると共に、破砕音がこの大海原に響き渡った。
オルディア公国のとある港町。
夕闇に包まれつつある桟橋の上で、一人の老人が遥か彼方のラタス洋を見つめていた。
「よう爺さん!今日も日課の見張りかい?」
老人を見知った船乗り達が声をかける。
「うむ…、見張りは大切じゃからのぅ…。あの日もワシは海を見張っておったのじゃ…」
老人はボケているのか、会う度に同じ話を語りだす。
あまりに毎度の事なので船乗り達もまともに話を聞いていない。
「はいはい、気を付けて帰りなよ?じゃないと怖いお姫様がやってくるからな!」
「ワシが見張っておったら…アレは現れなかったのじゃ…」
それは今から数十年も昔の事。
漂流の末に助かったルニウス号たった一人の生存者であった老人は、あの日の事を後悔しながら今日も海を見張り続けていた。
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最終更新:2023年04月16日 05:43