辺り一面を覆う深い霧。
下手をすれば伸ばした手の先ですら見えなくなるその霧の中、大荷物を背負った男が一人で歩いていた。
時折僅かな風が吹き、目の前を覆う霧が薄くなる。
するとまるで墨で染めたかような墓石の群れが霧の合間から現れ、同時に現世からかけ離れたかの様な光景が男の視界を埋め尽くす。
気味が悪いの一言では片づけられない。
ここはその墓石と同じ数、いや、それ以上の死霊達がひしめく場所。
“墨染墓石群”
薫桜ノ皇国辺境に存在する群島の一つにある魔境。
そしてこの皇国において最も危険と言われる場所であった。
墓石群の中に敷かれている“参道”を進む男の前に、身体を持たぬ亡霊が現われその進路を塞ぐ。
向けてくるのは現世を恨み、生者を自分達の側に引きずり込もうとする濁った視線。
「………」
何度経験しても慣れぬ光景。
男は足を止め、息も止め、こちらからは一切何もせず…。
亡霊は男の姿を暫く見つめ、やがて非常に残念そうな表情を浮かべて道を譲った。
現れたのが亡霊で良かった。
男はそう思いつつ深く息を吐き、萎えかけた気持ちを切り替えて再び歩み始める。
先程のように出てきたのが身体を持たぬ亡霊や骨の武士ならまだ幾分マシな方。
ここに現れる連中の中には腐った肉や臓物を引き摺って迫りくる『ぞんび』も居るのだ。
奴等の放つ腐臭は正直堪ったものではない。
下手をすると纏わりつかれた上に運んできた荷物を盛大に汚し、その結果“あの御方”の不興を買ってしまったら…。
参道を進み、幾つもの分岐を決められた手順で通過していく。
そうして歩み続ける事約一刻半。
すると唐突に霧が薄れ、男の目の前に漆喰の塀と黒い大門が現われた。
思わず「ごくり」と息を呑む。
幾度来ようとも、この瞬間だけはどうしても慣れる事は無い。
男は緊張しながらも門の前に立つ骨の武士に割符を見せ、大扉の横に設置されている通用門を潜って敷地の内へ。
敷地に入るとまず目に入ってくるのは重厚な黒に彩られた巨大な屋敷であった。
それはこの国において最も尊き御方である皇の御殿に勝るとも劣らぬ程の、そして邪悪なれど貴なる存在が住むに相応しい館。
更にこの建物自体に術のような効果があるのか、屋敷の様相を見ているだけで魂が囚われそうになる。
事実、気をしっかり持っておかねばそのまま魂が抜けてしまう事だろう。
これは“あの御方”による他愛もない戯事の一つであった。
男が来る度にわざわざ正面の門から入らせ、試しているのである。
男は両の手で震える己の肩を抱き、ひたすら耐えた。
これを耐えさえすれば“あの御方”に謁見する為の資格を得る事が出来るからである。
短くも、永遠に続くに等しい試練。
そして不意に先程までの圧が消えうせ、うずくまる男の視界の端に『見知った者』の足先が現われた。
男はゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは一人の亡霊の女であった。
(………)
この亡霊女は屋敷の公人(くにん)の一人であり、屋敷内の“あの御方”の下へと男を案内する役割を与えられている者。
つまり迎えだ。
だが亡霊とは言え、見知ったその姿に男は安堵した。
そして思わず声を掛けようとし、口を開きかけた所で男は思いだす。
それは男がここで厳守すべき幾つかの決まり事の一つ。
敷地内では許可なく声を発する事が許されてはいないのだ。
それを破ればどうなるかは男が一番よく知っている。
男は『ぎゅっ』と口を閉じ、漏れそうになった言葉を飲み込んだ。
亡霊公人の女はそれをつまらなそうな目で見つめていた。
恐らくはもう少しでこちら側に引き込めたものの…とでも言いたげな。
やがて興味を無くしたのか、女は踵を返して御殿の裏手の方へと歩き始める。
それを見て男も慌てて立ち上がり、背の荷物を担ぎ直してその後ろを追いかけ始めた。
進む先にあるのは下働き用の勝手口。
流石に玄関から入る事は許されてはいないのであった。
長い、鬼火の行燈に照らされた廊下。
その廊下を男は亡霊公人の先導の下、決して離れぬように注意深くその後をついていく。
道中には幾つもの部屋があるものの、男には余所見などをする余裕は一切無かった。
屋敷の外観もそうであったが、その内部にも妖しげな術による仕掛けが多々施されているのだ。
方向感覚を狂わせる迷いの術に始まり、無限に続く廊下や部屋、突如牙を剥いて侵入者を喰らう襖等々…。
数え上げたら切りがない。
もしも亡霊公人から逸れ、取り残されようものなら命が幾つあっても足りないだろう。
そしてこの亡霊公人の女には男を助ける義務は一切無いのだ。
案内という役割は与えられているものの、そう言った気遣いをする事はないと“あの御方”によって明言されているのである。
(逃げたい)
男はここに来る度に何度もそう思った。
だが“あの御方”から逃げる事は許されない。
それが自分の選んだ選択の結果だからである。
他の部屋に比べ、一際豪奢な襖の部屋の前で亡霊公人の女はその歩みを止めた。
ここはこの屋敷の最奥であり、そして“あの御方”の座する場所。
亡霊公人によってその襖が開けられ、男はその部屋へと一人通される。
男を案内した亡霊は部屋の中には入ってはこなかった。
つまり案内はここまでなのだ。ここから先は自らの足で進まなければならない。
男の背後で襖が閉められ、退路が断たれる。
一人残された男はゆっくりと振り返り、部屋の様子を伺った。
数百畳はあろうかという大広間だ。
所謂、謁見の間と呼ばれる部屋であり、上座に向けて三段の段差がある。
そしてその最も上段の向こう側。
襖で閉ざされている先には更にもう一つ部屋があり、その奥にこそ…。
男は意を決し、ゆっくりと遥か彼方に見える最後の部屋へと向けて歩みを進めた。
「羽助で御座います」
男は最後の部屋の前。
閉ざされた襖の前で正座をして頭を垂れ、ここで初めて自らの名を口に出す。
ここまで来ればこの男、羽助に科せられていた決まり事は無用となっていた。
「入るがよい」
枯れた声と共に襖が開き、奥の間へと通される。
羽助はなるべく前を見ずに部屋へと入り、襖ギリギリの畳の上で下座の姿勢。
「この度は拝謁の栄誉を賜り至極…」
「構わぬ、楽にするがよい」
(…無茶を言わないで貰いたい)
かと言ってその言葉に反する事はそれ以上の結末を迎えてしまう事だろう。
覚悟を決めて頭を上げる。
寝殿造りの広間の正面、そこに一人の竜人の男が立っていた。
この竜人に名前は無い。
彼はただの“屍人”であり、あの御方の意志を声にして伝える為の単なる道具だ。
そしてこの屍竜人の向こう側。
薄い帳台に覆われた上座におわす御方こそがこの屋敷、いや、死霊犇めく墨染墓石群を支配する者。
屍の竜“ヨモツマガツチノミコト”であった。
私は過去、『斎宮松之丞 羽定』と名乗り、軍勢を率いて“この御方”に刃を向けた。
その目的は屍竜将軍と呼ばれる災禍を討ち取り、皇国に我が名を上げるが為。
死霊や屍人で溢れる墓石群を突き破り、屋敷の大広間へと少数の精鋭と共に乗り込んだのだ。
だが結果は我々の完膚なきまでの敗北。
我々の刃はヨモツマガツチノミコトに届く事は無く、目の前の屍竜人にすら敵わなかったのである。
軍勢が、そして家臣や友が次々と倒され死霊や屍人に変わっていく中、私はヨモツマガツチノミコトにとある選択を迫られた。
《ここで屍と成り永遠に我に仕えるか、生きて死す時まで我に仕えるか》
死の恐怖に飲まれた私は無様にも後者を選んだ。
そうして家も名も捨て、生者のままこの御方に仕える事となったのである。
「して、首尾はどうであったか?」
屍竜人を介して私にそう聞いて来るヨモツマガツチノミコト。
『どう』とは、私の持ってきた大荷物の中身に関してである。
「は、此度は海の向こうの国より渡って来た『ぷろてくしょんりんぐ』なる物を仕入れてまいりました」
私は大荷物を解き、厳重に梱包した箱の一つを開けて見せた。
「どうぞ、お納め下さいませ」
屍竜人に箱を渡す。
受け取った屍竜人はそれを持って帳台の向こう、ヨモツマガツチノミコトへ…。
「ふむ、守りの力が込められた装具であるか…。我には少し小さいが人のモノである以上仕方はなかろう」
軽く見分し、一目で魔法具の能力を見極める。
「…よかろう、此度も良き働きであった。見合った褒美を与えようぞ」
「は、有難き幸せ!」
そうして謁見は終わり、大広間に戻ると待機していた屍人の女官が金や銀の入った袋を渡してきた。
女官が下がると同時、私はその中身を確認する。
正直に言う。袋の中身は働いた労力以上と言える報酬額であった。
だがこれには次の仕入れに使い、そしてその都度ここへ持って来いと言う圧力があるのかも知れない。
私は廊下を歩きながら次に仕入れるべき品を考える。
屋敷を案内してくれた亡霊公人はここには居ない。帰る際は一人で出ていかなければならないのだ。
(…?)
前方から死霊武士の一団が歩いて来る。
私は顔を伏せつつ廊下の端に寄り、彼等の進路を妨げないよう道を譲り…。
「………!?」
彼等の中に、かつての仲間だった者の顔があった。
押しつぶされそうな感情が私を襲う。
そしてその場で跪き、心の中で必死に念仏を唱え懇願する。許してくれと。
だが彼等は既に私の事など覚えてはいないだろう。
その存在全てがヨモツマガツチノミコトに囚われ、共にある事を定められているのだ。
私は彼等の矜持や誇りを裏切って生き永らえている。
様々な魔法具を都の商人から手に入れ、我が主であるヨモツマガツチノミコト様へと献上する為の存在として。
最終更新:2021年11月03日 23:32