元少年A

元少年Aは神戸連続児童殺傷事件の加害者。男児の生首を校門に置く手口で世間を震撼させた。犯行声明などでは酒鬼薔薇聖斗と名乗ったため、同事件は「酒鬼薔薇事件」と呼ばれた。

概略

1982年7月7日、神戸市で生まれる。3人の男兄弟の長男。当時の名前は東真一郎。神戸市立多井畑小学校を卒業後、神戸市立友が丘中学校に進学。在学中の1997年5月24日に知的障害のある小学六年生の土師淳くんを殺害したほか、1人の女児を殺害、3人に重軽傷を負わせた。同年6月28日に逮捕。家庭裁判所の審判を経て関東医療少年院に送致される。2004年に仮退院し、翌年には保護観察を終えて本退院する。現在の名前については女性セブンが持田という仮名を報じている。

生育歴

母親による厳しいしつけ

母親は元少年Aを厳しく育てた。元少年Aの母親は元少年Aを生んでから1年で次男をもうけ、そのときから突き放すようにして育てたという。元少年Aが3歳のとき、三男が生まれ自立を求められた。母親は「いらついていた」と言う。
小学3年生のころには『お母さんなしで生きてきた犬』という作文を書いた。これは学級通信に載せる際「ぼくもお母さんがいなかったらな。」という文を含む一節が担任教師の手で削除されている。また、母親は怒ると頭にツノが生え「百たたき」をするという『まかいの大ま王』(魔界の大魔王)という作文を書いた。このころ「(以前住んでいた)社宅の台所が見える」「お母さんが見えなくなった」などと意味が分からないことを言ったため母親に病院に連れていかれた。病院で「軽いノイローゼ」と診断され「お母さんの叱りすぎ」と諭されたという。こののち、同級生が首から背中にかけてみみずばれのようなあざを発見。元少年Aは家族とけんかしたと説明したという。

非行に走る

元少年Aが小学5年生になった直後に祖母が死去。仲間たちとの非行が激しくなる。ナイフの万引き、公園で女子に向けてエアガンを発砲するなどの事件が起こる。しかし友人は「あいつがリーダー格だったことは一度もない」と証言している。教師に目をつけられており何かあるとまっさきに疑われていたというのである。中学生になると卓球部に所属。母親が卓球好きだったため、卓球台を庭に置いて自宅の庭に置いて休日には家族そろって試合をしたという。この光景を見て「母親が一生懸命に子供を立ち直らせようとしているんだろう」と感じる人もいた。その一方で問題行動は先鋭化していく。スプレーに火をつけて「火炎放射器」遊びをしたり、ナイフ、のこぎり、鎌、ライター、ガソリンなどを万引きした。仲間と一緒になって女子生徒の運動靴を燃やしたり、鞄を男子トイレに隠した。逮捕後に行われた取り調べで、こうした問題行動について「(教師が)一方的に僕が悪いと決めつけました」と不満を述べたという。
元少年Aは学校から児童相談所のカウンセリングを受けるよう勧められた。母親も元少年Aの執念深さが気になり、発達行動小児科学の専門医に相談しようと考えた。検査や問診を経て「注意欠陥・多動性障害の疑いがある」と診断された。診察した専門医は、母親に対して「少年の自立性を尊重して、過度の干渉をやめ、ほめて育てましょう」とアドバイスした。学校側への報告は母親から行われ「それ以上は踏み込めなかった」と教師のひとりは語った。

将来への絶望感

学校の成績は芳しくなかった。父親から「進学しないなら、新聞配達か自衛隊に入れ」と言われ、母親に「高校には行きたくない」と言った。ノストラダムスの大予言を引き合いに出しながら「俺の将来はない」と言った。進路指導の作文で、死体が腐る様子をリアルに描きながら、火葬場の番人になりたいと書いた。卓球部をやめ、授業が終わるとタンク山で草の上に横になった。

性への目覚め

元少年Aの精神鑑定書は事件の重要な要因としてサディズムを指摘している。鑑定書では、母親から受けた体罰と、弟たちに対するいじめによって「虐待者にして被虐待者」という幼時を送ったと指摘したうえで、ある時点で動物への虐待が性的興奮と結びついたとする。朝日新聞には、小動物の虐待や殺人の空想にふけるときに性的な興奮を感じると話して「おかしいんと違うか」と言った友人がいたと書かれている。これに対し、元少年Aは『絶歌』のなかで祖母が死去したのちに祖母の部屋にある電気按摩器をペニスにあてたところ、精通を経験したというエピソードを紹介している。「僕のなかで”性”と死”が”罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した」と書く。

猫の殺害

朝日新聞で触れられている猫の殺害と『絶歌』に書かれている猫の殺害の重なり合いながらも異なる点がある。なお、同じ事件であるかどうかは不明である。
朝日新聞によると、元少年Aはごみを漁りに来た猫に石をぶつけたという。通りがかった近所の主婦が気づいて動物病院に連れていったが、死んでしまった。事情を知らない主婦に「こうなったのは僕のせいでしょうか」と言い、それを聞いた主婦は「優しい子だと思った」という。
『絶歌』では、最初の猫の殺害はサスケの餌を漁っていた猫にコンクリートブロックを投げつけたほか、猫の目にカッターを突き刺したという。朝日新聞の「ごみを漁りに来た猫に石をぶつけた」という記述は通りがかった主婦の証言によるものと思われるから、同じ事件のようにも見えるが、『絶歌』では主婦が猫を動物病院に連れていった描写はごっそり抜け落ちている。

土師淳くんとの関係

元少年Aと淳くんが知り合ったのは、元少年Aの祖母が亡くなったころだという。「その時から僕は淳君の虜だった」と元少年Aは書いている。小学校卒業を控えた2月、元少年Aは土師淳くんを小突く騒ぎを起こした。元少年Aは担任に連れられて淳くんの家に謝罪に出向いた。その帰り道「このままだと、何をするかわからない。」と話した。家に帰ると、末弟の物哀しい表情に胸を締めつけられたという。
土師守さんはこれ以外にも元少年Aが陰で淳くんを殴ったり蹴ったりしていたが、知的障害があり先生に訴えることができなかったと書いている。また、そのころに学校にいくのを嫌がったことがあるのはそうしたいじめが原因ではないかとも推測している。
一方で、事件当日、淳くんは元少年Aから「亀がいる」と言われて子どもの遊び場になっている通称「タンク山」に誘い出された。

事件までの言動

阪神大震災

元少年Aは1995年の阪神大震災で被災した。このとき当時の村山富市首相の対応を「すぐに活動しなかったので、はらが立ちます」と非難したうえで「死刑になることがわかっていても、何をしたか分かりません」と書いた。この文章は『知人の心配』と題して小学校の卒業文集に掲載されたものである。

ヒトラーの『我が闘争』

1996年ごろ、母親に『わが闘争』を買って欲しいとねだったため、母親は文庫本を買い与えた。テレビでヒトラーの生い立ちや戦略的なことを見て共鳴したからだという。元少年Aはヒトラーを扱った番組を録画し、自室で何度も見たという。父親は「物事に対する考え方で、別に変わっていると思ったことはありません」と証言したという。
一方で、逮捕後から元少年Aに関わったという人物が匿名で高山文彦に語ったところによれば、良心の呵責なく「大勢の人間を殺したところがすごい、そんな言い方」だったという。

バモイドオキ神

猫の殺害事件を起こしたころに「バモイドオキ神」なるものを考えついた。バモイドオキ神について元少年Aは、夢に現れたという一方で「姿は見えない」とも述べている。イラストとして描いた絵は、あとで浮かんだイメージだという。3月の通り魔事件と前後して「バモイドオキ神」に報告する形の日記を書いたほか、4月には『懲役13年』という作文を友人にワープロで清書させた。

『等価思想』

詳細は社会・教育への影響を参照
元少年Aはナイフの所持を教師に咎められた際、人間の命は「アリやゴキブリと一緒」と反論した。これは元少年Aがナイフを「護身用だ」と説明したあと教師から「こんな刃物で刺したら、相手が死んでしまうぞ」と言われた際に出てきた言葉である。
元少年Aは友人に「すべてのものに優劣はない。善悪もない。尊重すべきものはなにもない。」という思想を語った。元少年Aは「等価思想」と呼び、精神鑑定のなかでどこからつくりあげたか問われると「僕のオリジナルです」と答えたという。

少年審判

元少年Aは1997年6月28日に逮捕された。元少年Aは物的証拠があるのかを取調官に尋ね『犯行声明』と中学校で書いた作文の筆跡が一致していることを告げられると泣きながら自供を始めたという。当時、兵庫県警刑事部長だった深草雅利は、昼頃までにはすべての事件を認め「思ったより、あっさりと自供」したと語っている。
しかし、同年8月1日に開かれた第1回の少年審判で「類似点は多いが、同一人の筆跡かどうかを判断するのは困難」という鑑定結果を知った元少年Aは認否を留保した。
この後、弁護団の請求により警察官が作成した供述調書すべてが証拠から排除されたが、検察官による調書は適切な手続きによって作成されたとして事実関係が大きな争点になることはなかった。
医療少年院送致が言い渡されたあと、弁護団は元少年Aについて「決定の意味するところは理解している」としながらも「非常にコミュニケーションを取りにくい子供」と述べている。
冤罪説も存在するが、2015年、ホームページ開設後にフリーライター渋井哲也氏からどう思うか尋ねられたとき「興味がなかった」「ピンとこない」と回答している。

少年院での矯正教育

関東医療少年院では法務教官や精神科医が元少年Aの「疑似家族」を形成し「育て直し」が行われた。元少年Aは当初「死にたい」と言っていたが「無人島で、一人で生きたい」に変化し、やがて「社会のなかで生きてみたい」になった。関東医療少年院の院長を務めた杉本研士は「他者への共感を十分に醸成できたはずだった」と語る。一方で「特別にアスペルガー障害の治療は行われなかった」と語る法務省の職員もいる。関東医療少年院に収容後「アスペルガー障害」という診断が下されたが、少年審判で使われた精神鑑定書には発達障害の診断名はなかった。
元少年Aは1997年10月に関東医療少年院に収容され、2005年1月に本退院している。元少年Aが事件を起こすまで少年院の収容期間は最長2年だったが、97年9月には新たな処遇課程が設定され、2年以上の収容も可能になった。元少年Aはこの課程の最初の適用者である。関東医療少年院に勤めた精神科医、青島多津子は「五年間の施設入所を科せられるのは、成人の二十年にも三十年にも匹敵する」とし「人生の一番多感な時期、一番多くを学べる時期に、社会から隔離され、通常の高校・大学での教育機会を奪われることは、人生設計を大きく変える」と書いている。

『絶歌』騒動

詳細は『絶歌』出版の経緯を参照
2015年6月10日、手記『絶歌』が出版されると週刊誌などで大きく取り上げられた。発売日当日に『朝日新聞』が報じるまで元少年Aの手記が出版されると情報は伏せられ、出版取次にはタイトルのみで著者名を伝えなかったという。
野口善國は『週刊文春』の取材に対し「全くの嘘を書いているとは言いませんが、真実を余すところなく書こうとしているとは」思えないとしたほか、NPO法人が発行する雑誌に「主観的で装飾的表現が多い」「いかにして内省を深め、成長したかについては不十分な内容」としたうえで「この出版をするに際し、本当に信頼できる人々に相談できたのだろうか」と述べている。

『週刊文春』記者への対応

『週刊文春』(2016年2月25日号)に「元少年Aを直撃!」という記事が掲載された。これによると『週刊文春』の記者は2016年1月26日に東京都内のショッピングモールで元少年Aに声をかけた。元少年Aは現在の姓で呼ばれた際に「違います」と答え、その後、神戸連続児童殺傷事件の犯人、容疑者であるかどうか問われ「お引き取りください」と言った。『週刊文春』の記者が手紙と名刺を渡そうとすると「いらねえよ」と言って自転車を地面に叩きつけた。記者はその日の取材をあきらめて車に戻ろうとしたが、元少年Aは1kmにわたって追いかけてきたという。

出典

『暗い森』(朝日新聞社 1998年)
『「少年A」14歳の肖像』(高山文彦 1998年)
『絶歌』(太田出版 2015年)
『ざ ゆーす』(2015年10月号 非行克服支援センター )
『少年と罪』(中日新聞社会部 2018年)
『となりの少年少女A』(草薙厚子 2018年)

事件の概要を知りたいのなら、朝日新聞社の『暗い森』と、高山文彦の『「少年A」14歳の肖像』の2冊がおすすめ。出所後の生活については、本人が語ったもの以外で丁寧に取材しているものは少ない。『絶歌』出版の経緯については『週刊文春』の記事に詳しい。
最終更新:2019年03月14日 11:10