織音アイリ プロローグ

―――これは、不幸な少女の物語―――



とある辺境の村、その宿屋にて。



「へえ、その年で一人旅を。大変だねえ」

宿屋の主人は少女に語りかける。
少女ははにかみながら頷いた。

「織音アイリちゃんだね。お代もしっかりいただいたよ。ゆっくりしていきな」

アイリと呼ばれたその少女は、薄緑色の髪と目、質素な白いワンピースシャツ、低い身長とそれに違わぬ童顔。
華奢な体とその表情にはどこか儚げな印象がある。
しかし、一番目を引くのはそんな儚げな彼女に似つかわしくない、手に持つ禍々しい杖であった。

「ずいぶん大きな杖だねぇ、そんなの持ってたら大変だろう。ほら、持ってやるよ」
「あ……」

そう言って宿屋の主人はアイリの持つその杖をぐいと力強く引き取ろうとする。
するとアイリも一緒に持ちあげられるように引きずられた。
少しの気まずい空気の後、アイリが口を開く。

「ご、ごめんなさい、この杖、その、大切なもの、なので……」
「お、おっとそうかい、そりゃあ、悪かったね……」

宿屋の主人には杖を大事にしているから、というよりも、まるでアイリの杖と手がくっついているかのように見えた。
だがそんなことがあるわけはないだろうと思って大して気にはしなかった。

そう、その杖と彼女がどのような関係にあるかなど、その時の彼は知る由もなかったのだ。




―――翌日―――

「おはようございます」
「おお、おはようアイリちゃん。早いね」
「あんたが遅いんだよ!ねえアイリちゃん!」

そう言ってアイリの肩を豪快にぱしんと叩いたのは宿屋の主人の嫁だ。
アイリは食べていたパンを取り落としそうにながらはにかみ笑った。
宿屋の主人はそんなに叩いたらその子がつぶれちまうだろ、と言いながら
ふと彼女の足に立てかけられた杖が目に入った。

その杖は今にも倒れそうな角度でありながらも
アイリの膝にしっかりとたてかけられており先程叩かれた衝撃でも全く動く様子がなかった。

(上手い事ひっかける場所でもあるのかねえ)

そう思ったが少女の足元をじろじろ見ていたら嫁にあらぬ疑いをかけられそうだし、なにより失礼だ。
元々それほど気にするようなことでもない。
ただ、昨日の杖を手に持ったアイリの姿と合わせてなんとなく僅かな違和感を覚えさせた。

その時だった。
甲高い鐘のような音が当たりに鳴り響いた。

「こりゃあ……!」

これは村に事件があった事を知らせる鐘の音だ。
何かがあったに違いない。宿屋の主人はそう思った。

「お前はここにいな!ちょっと行ってくらぁ!」

そういうと宿屋の主人はさっと上着を着て外へと駆けていった。








「土砂崩れか……こいつはまずいな……」
「へえ……幸い大きな怪我をした奴はいないんですが……」

宿屋の主人がその場へ辿り着くと、村から他の町へと続く数少ない道が土砂で完全に塞がれていた。
この道は食糧や日用品等の流通ルートとなっており、塞がれると村にとってかなりの痛手であった。
村の人手も多くはなく向こう側の町の住民たちと協力しても除去には相当な時間がかかることは明白だった。

「時間がかかってもやるしかねえな……おい、出来るかぎりの人手と、ありったけのスコップ持ってこい!」
「へいっ」

そうして村の住人が集まり、土砂の除去が始まった。

「男手だけじゃ足りないだろ!あたしらもやるよ!」
「おい、シゲの野郎はどうした!……くそ、あいつ怪我しやがったのか、使えねえ野郎だぜ!」
「向こうの町にも連絡したが今日中には来れねえらしいぞ!」
「スコップまだあるか!」

しかし、想定外の事態に作業は思うように進まず、村中の動ける人間が集まってもなかなか作業は進まなかった。

「ちくしょう、まいったなこりゃあ……」
「あ、あの……」

宿屋の主人が愚痴をこぼしたその時、後ろからか細い声が聞こえてきた。
彼が振り向くと、そこには大きな杖を持った少女の姿があった。

「アイリちゃんか……確か君もこっちに向かいたかったんだよな……
 見ての通りだ、土砂が崩れちまってよ。しばらくこっち側には行けそうにないぞ」
「はい、えっと……」
「ああ、宿代だったら心配しなくてもいいよ。ちょっとくらいならいても構わないさ」
「い、いえ、そうじゃなくて……」

そう言うとアイリは土砂の前に歩き杖を突きたてるように立った。

「あの、みなさん、その……危ないので、少し、下がっていてもらえますか……?」
「アイリちゃん……?何をする気なんだい?」
「土砂を、どければ、いいんですよね……?」

彼女の表情は真剣だった。
その様子に宿屋の主人をはじめ、他の村の住人達も静かに後ろに下がっていた。
アイリは静かに息を吐き、杖に力を込めているようだった。

「……う……うぅ……あああ……っ!!」

すると、杖の先から何かが伸びてくるのが見えた。
―――茨だ。
数本の茨が杖の先から伸びている。
その茨は次々に土砂へと向かっていった。

「おいおい……」
「なんだありゃあ……」
「噂の魔人ってやつか……?」

村人の囁きが聞こえているのかいないのか、彼女は時々呻き声を上げながらも必死で杖を振り上げた。
茨は次々に伸び、土砂を次々と器用にどけていく。

村人の反応は様々だった。
素直に感嘆する者もいた。その異様な力に若干の恐怖を覚える者もいた。

そんな中、宿屋の主人は杖を持ったアイリの腕から黒い茨のような模様が侵蝕していく事に気がついた。
よくみるとアイリの目は薄い緑色から赤い色に輝いている。
その息は切れ、額からは大量の汗が伝い、非常に苦しそうな様子だった。
もしかしたら、この力を使う事は彼女にとって非常に負担となっているのかもしれない。

「は……ぁあ……う……ぐぅ……く、あぁぁああ……ッ!!」
「お、おい、アイリちゃん!無理はしないでくれ!」

そう考えた宿屋の主人はアイリに近付き、静止する。
だが、アイリは今にも倒れそうになりながらも土砂の除去を、茨を出す事をやめようとはしなかった。
黒い茨の模様はどんどんと広がっていき、アイリの体を蝕んでいるように見えた。

「だ……だいじょうぶ、です……み、みなさん、困ってる、から……わ、私……なんとか、します、から……っ!」
「あ、アイリちゃん……!」
「ぐ、ああぁ……う、くぅ……い……痛……い……ッ……あぁ……」

アイリの体は震えていた。杖にもたれかかるような体制で顔を伏せていた。
茨によって土砂は除去されていくが、その作業量と比例するようにアイリは苦しみを増しているように見えた。
これ以上無理をさせたら本当に死んでしまうのではないか。
そう思った宿屋の主人はアイリから杖を引きはがそうとした。
しかし、杖はアイリの手から全く剥がれようとしない。

「ぐ……っ!!」

それどころか、鋭い棘が刺さったような痛みが杖を握った宿屋の主人の掌を襲った。
もしこの痛みを全身に受けているのだとしたら……その苦しみは想像もつかなかった。

「アイリちゃん!!もういい、もう十分だ!!あとは俺達でなんとか出来る!だからもう……!」
「あ……あ、う、い、痛、痛、痛い……っ……」

直後、アイリはばっと顔を上げ、一言大きく叫んだ。




「気持ちいいぃ……ッ……!!」
「えっ」




その顔は紛れもなく、恍惚に満ち溢れた表情だった。
口からはよだれが垂れ、足を杖に絡ませながらもじもじと動かし、アイリは叫び続けた。

「いばりゃ……っ……いばりゃぁっ、しばりゃれて、きもちいのぉぉぉぉっ!
 いたくてっ、くりゅしくってぇっ、とってもっ、きゅんっきゅん、しちゃうのぉぉぉぉっ!!」

宿屋の主人は無言でアイリから少しずつ距離をとった。
アイリはそれを気に掛ける様子もなく、茨を出しながら叫び続けた。

「らめ、らめなのぉお!!ひとだすけなのにぃいっ!!いたいのにぃ!!
 きもちよくなりしゅぎちゃってりゅのぉぉお!
 いばりゃっ、だしゅのっ、いたきもちよすぎてっ、やめりゃれにゃいのぉおお!」

少女の喘ぎ声と共に土砂はみるみる片付けられていった。
村人の反応は、一部の特殊な人物を除けば概ね引いていた。

「いたいっ、いたいっ、でもっ、きもちぃっ!!つえっ、つえのいばりゃっ、もぉ、だめって、おもってりゅのにぃ!!
 こんにゃ、おおぜいの、まえでもっ、やめりゃれにゃいのおぉぉっ!!」

気付けば土砂は殆ど片付けられていた。
アイリがひときわ大きな声を一瞬上げた後、茨は杖の先へとしゅるしゅると戻るように消えていった。
体に刻まれた黒い茨も消えていき、元の肌色に戻っていく。
あとには、息を切らした少女と、それを遠巻きに見つめる村人たちだけが残った。

「……」
「……」

アイリと宿屋の主人の目があった。その瞳は元の薄緑色に戻っていた。
アイリは困ったような顔でほんの少しだけはにかむように笑うと、何も言わずにそのまま町へ続く道へと歩き出した。

宿屋の主人は何も言えなかった。
お礼の言葉すら出て来なかった。
何を言えばいいのかわからなかった。
ただ、気まずい空気のまま少女を見送る事しか出来なかった。
アイリという少女は、ただ村の危機を救ったという事実だけを残して、去っていった。



―――これは、不幸な少女の物語―――


「……皆さんのあの冷たい目……どうしよう……ちょっと、どきどきしちゃってます……はぁあ……」


―――それほど不幸でもないのかもしれない―――
最終更新:2016年03月29日 23:26