第4話:失・幸運 ――ページ2
オフィスに入ろうと伸ばしていた手を、引っ込めた。
中から漏れてきた声に気づいたのだ。
すぐに歩み去る。音を出さないよう慎重かつ早足で。
「……ふふ」
我慢できなかった笑い声を、鼻から溢れさせるシャトー。
廊下に並ぶブラインドを指で開いた向こう……外はすっかり暗くなってしまったことを悟る。
陽光の赤みがまだ残っているのか、空は紺と紫のグラデーションを彩っていた。
その更に奥……遠くで飛ぶV字の編列に、目をみはる。
「この時期に鳥なんて、珍しいものね」
オフィスとは別に休憩できる箇所を思い返しながら……つきっぱなしのインカムから、常に連携を取れるようセッティングされた監視室へ声を飛ばす。
「今、ディサローノは空いてる?」
『ゲームが終わったところだ。次のゲームまでは小休憩がある』
さすがに疲労が祟っているのか、ヘンドリクスの事務的な応答さえ、少しばかりの億劫さが伺えた。
先日、ディサローノの出撃のためにトレーラーを走らせていたのは、主にヘンドリクスとドランブイの二人だ。だいぶ距離のある荒野を進むだけとは言え、常に揺れている車内で満足に睡眠が取れているはずもない。
運転手の付添として見張り役を勤めていたコアントローさえ、疲労回復を理由に休暇を取ってしまった。
シャトーも少しばかり疲れを感じているが、大したことはないだろう。普段の仕事に支障は来たさない。
トレーラーを走らせていた二人ほどでも、見張り役ほどでも……ましてやテウルギアの大立ち回りを行ったディサローノほど、気を張り巡らせる機会は少なかった。
「繋げてくれる?」
『休憩中じゃないのか?』
「反抗期の経過報告ってとこ」
たったそれだけの言葉で、誰のどんな話題をしたいのか悟ったのだろう。ヘンドリクスは手早く告げた。
『手短にしろよ。あと、俺には深入りして良いことだとは思えんが』
「成長を見守る楽しさってあるのよ。ありがと」
礼を告げた直後には、ブツという一瞬のノイズと共に、回線が切り替わる。
途端、洪水のような歓声が飛び込んできて、少しばかり驚いた。
『シャトー? 休憩じゃないの?』
「そのつもりだったんだけどね」
まだ客前なのだろう。口角が上がっている口調を聞き取り……同時に、フロアが違う自分のスケジュールまで把握していたという抜かりのなさに驚き、上擦った声を取り繕った。
「さっきオフィスに入ろうとしたらさ……」
シャトーは語った。
ドランブイの悪態が聞こえたことを。随分と悔しそうにしていることを。
それだけではない。ディサローノが戦っている間の、あまりにもデリカシーのない言葉も。
……ドランブイが苛立っていることは普段通りだ。
だから事務的で機械的な対応を取りたがるヘンドリクスにさえ、反抗期という語句で通用してしまう。
珍しくとも何ともない反抗期がしかし、悩みが明確にあるとその様相を変える。行き当たりばったりな言動がさらに目立ち、もんどり打っては転げ回る。
それを滑稽とは思わない。むしろそれを繰り返してばかりいる愚直さこそ、可愛げがあるとさえ感じている。
感じているままに、シャトーはドランブイのことを語る。
『――貴方のことが、わかりたいんだってさ。彼』
「シャトーの前だと妙に素直ね。あいつも」
唐突なからかいの声を、ディサローノは冷たく払い落とした。
そうしながらも、準備を整える手を緩めない。
先程まで繰り広げていたゲームの痕跡が、そこかしこに散らばっている。
例えばルーレットのハンドルには手汗が乾いた痕が見える。チップにはそれを弄んでいた来客たちの手垢が纏わりついている。ディサローノを初めて見て緊張でも感じたのか、テーブルの縁に汗がかかっている。
白球も丁寧にタオルで磨いて、表面の傷を確認する。外周を走るだけならばともかく、それぞれのポケットに作られた壁や、その間に設けられたひし形のピンにぶつかってばかりいれば、当然傷だらけになる。ミリにも至らないような傷でさえ、放置していれば予期できない場所への跳ね返りをしてしまう。
……まるで彼のようだと物思いに耽って、思わず目元がほころんだ。
『そこまでじゃないでしょ。でもある意味で、とーっても素直ってだけ』
声だけでも、シャトーのにんまりとした笑顔が思い浮かんだ。とても嬉しそうに、そして面白そうにドランブイを語っている。
「“裏の裏は表”ってところかしら?」
『そんなところ』
すぐさま表情に勝ち気さを取り戻して、顔を上げる。
先日の戦闘を終えた後――揺れる車内とはいえ、他のメンバーより多くの休息時間をもらっている。
この場に自分が立つためであり、ゲームをするためだ。
オラクルボードという場所に載っているせいで、ひと目見ようと集まってくる客も当然いる。
ただの準備時間だと言うのに、取り囲むように人だかりができているのはそのせいだろう。
好奇の視線を浴びることにはとっくに慣れた。一瞥すれば、目の色で野次馬か挑戦者かなど、すぐに分別できる。
求められる成果は、彼ら全員の目を飽きさせない、演技。
勝つことではなく、勝負を支配すること。次なるゲームへの意欲を湧かせて、最終的な採算を搾り取ることだ。
――人目に晒されている中でも、自分の服装に綻びがないかを余念なく確認する。
覗き込んだ手鏡では、褪金髪の跳ね毛は見えない。
首に巻いたスカーフのシワ。それを留めるブローチの角度は当然。タイトに絞めつけているベストがズレていないかさえも。
最も見目に美しく、あらゆる視線に晒されようとも、満足へ至らせられるものだと知っているから。
それこそがディサローノの、ディーラーとしての顔だ。どこまでももてなすための努力を惜しまない真摯さの塊だ。
「裏表だけなら、素直かもしれないわね」
まるでチップの二面のようだと、ディサローノはため息をついた。元々、白球のようにレールの上を走れるタイプではなかったことも思い出す。跳ねっ返りの威勢が良いだけだ。
『でしょ? あの子はわかりやすいのも一つの取り柄みたいなものだし』
「本人に言ってみたら? どうせいつもの逆ギレよ」
客を前にしていても、一瞬の間だけ顔色が変わった。
シャトーに見せる言葉と顔は、ディーラーのそれではない。
シャトーは来客ではなく同僚であり、気の置けない間柄でもある。だからこそ見せられる顔がある。
ヘンドリクスに対してもそうだ。頭上から自分だけでなくカジノ全体を見渡す監視室を取りしきっている。しかしあまり愛想は良くない。だから見せるべき顔を変える。
誰に対してもそうだ。適切に対応するために表情を変え、言葉を変える。まるで仮面のように付け替えて、自分を最適に見せる。
だが人に対してだけで、ディサローノの仮面を数え切れるはずもない。
テウルゴスとしての顔もあるのだ。
シャトーやヘンドリクス、コアントローへ、テウルゴスとして向ける顔がある。レメゲトンであるバランタインやストリチナヤとのやり取りのための言葉もある。
それでも数え切れない――普段見せている顔もあれば、見せない顔もある。
鍍金の女王を相手にした時がそうだ……普段の来客とはあまりにも違いすぎる振る舞いと人格を相手に、ディサローノの装うべき仮面さえも変わり、歪んでしまった。
ディサローノという名を使わない――ヴァネッサ・ミラネージという本来の名前を使っているところは、カジノの誰もが知らない部分だ。
……同様。ドランブイに対しても、それ用の表情がある。
見せようとしている顔と、見られる顔、見せない顔と、見られたくない顔。
ドランブイの願望とやらは、どこまでを指しているのか……きっと考えが至っていないだけだろうと悟ってすぐに、考えるのをやめる。
「まあどっちにしろ、自分の魅せ方がわかっていないだけね――それじゃ」
『素っ気ないのね――じゃあ、また後で』
準備を終えてすぐさま、通信を切らせた。
周囲に渦巻く、好奇心と野心。にわかな闘志とわずかな下心の空気を感じ取りながら、ゆっくりと視線を這わせる。
「お待たせしました――」
それは肌を焦がすような熱さの、甘い挑発――ディサローノが最も得意とする、表情。
五指を揃え、万端の準備を終わらせた彼女の領域へ誘う。
「――では、勝負を始めましょう」
最終更新:2019年03月03日 12:50