小説 > 在田 > 流転と疑惑のミス・フォーチュン > 25

第4話:(ミス)幸運(フォーチュン) ――ページ5


 普段からは想像もできないような混乱が、フロアに溢れ返っていた。
 それまでは穏やかな歓声があったことなど、想像もつかないほど叫び声ばかりにかき消されている。

 再び、轟音と共に爆震が起こって、言葉にならない叫び声が反響する。
 断線やショートを未然に防ぐべく、天井でチカチカと瞬いてた照明が落とされた。甲高い絶叫が耳をつんざき、暗闇が肌を突き刺してきた。

 薄明るく灯った非常灯だけでは、誰も安心など抱けないままでいる。
 あたりに渦巻く不安と焦燥に、胸を打たれているのはディサローノでさえ同じだった。
 思っていたよりも切迫した自分の早口が、体を流れる鼓動のリズムを更に急き立てる。

「下はどうなっているの!?」
『個別に答えるわけにはいかない。非常口の鍵は解除してある。近くにいる者から開くんだ』

 普段から低いヘンドリクスの声が、より頑なな重さを伴って、木槌のように鼓膜を打ちつける。
 その険しさこそが、今の状況をしかと見つめている証だった。むしろ頼りになるほどの厳格さを示す。

 どよめきが途絶えない渦中において、自分こそ冷静であると胸に手を当てても、早鐘を鳴らす鼓動は認めてくれない。

 誰かが発する動転が、ふと気を抜いた別の誰かを乱し、流してしまう。
 その連鎖が動乱の渦を巻き、洪水のように心を巻き込む。より苛烈な混沌が広がっていけば、冷静だと思っていたい自身でさえ翻弄されてしまう。

 誰かが一人でも、状況を冷厳に見届ける者が必要だ。予断を許さぬ的確な指示で、本人の意識を食い繋ぐ必要がある。

『急げ! 誰かに任せるな。自分の命を守るために活路を開け!』

 それこそ、今のヘンドリクスが背負う役目だった。
 自分の言葉一つで、多数の命を失いかねない責任と重圧に抗い続ける。短くも的確で冷静な指示で発破をかけ、動揺する意識を支えながら、正しく誘導する……最も理性を保ち続けなければいけない重責だ。

 尻を蹴り上げられるような一喝に、ディサローノも動き出した。
 カジノという商売を行う以上、チップという莫大な金が動き回ることとなる。都合上、フロアに設けられた非常口は、二重のロックがかけられている。不必要な人の出入りを防ぐために監視室が管理する電子錠と、それぞれのスタッフたちの鍵の二つだ。

「通ります! 道を開けて!」

 だからこそ扉にいち早く気づいた誰かがいたとしても……スタッフが持つ鍵が通らない限り、その努力は徒労になってしまう。
 逃げ出したい一心で、いくら扉を殴ろうとも体当たりしようとも、その程度で開くほど建て付けが甘いはずはない。

 その行動は、より多くの人を招き呼ぶ。そこに逃げ口があるのだと知らしめ、我先にと動き出すためにも陣取り、その瞬間を今か今かと待ち続ける。
 そのせいで、より多くの人集りができてしまう。

「道を! 早く! 通して!」

 体を割り込ませようとしても叶わないほど、ぎゅうぎゅうに敷き詰められていた。
 突き進もうにも押し返されて……鼻孔に焦げ臭さを感じた時には、叫んでいた。

「退けええぇぇーっ!!」

 絶叫は、まるでそれ自体が爆発であるかのように、突き立つばかりの群衆を吹き飛ばした。仰天に目を剥いて、衝撃波に飛ばされるかのように後退った。
 驚いて腰を抜かした者が何人居ただろうか……床に尻を叩きつけた者たちが、薄明かりの下でディサローノを見上げるばかりだ。

 徒労にも体当たりを繰り返していた男たちが、ぽかんと口を開いた。自分が何をしていたかさえ忘れてしまったかのように、虚脱で空っぽになった瞳孔が、ぜえぜえと肩で呼吸するディサローノを覗きこむ。

「今、そこを開けます! だから離れて!」

 掲げられた鍵を見つけた瞬間に、男たちの反応は変わった。扉へ足早に歩み寄るディサローノから飛び退る。
 ようやく鍵を差しこんで、捻る。ガチャリと音と感触が来た途端に、肩の荷が降りたと思うと同時に、どっと疲れが肩にのしかかった。

 ――その瞬間だ。
 爆音が空気を震わせ、フロアに熱気が広がった。あちこちで悲鳴が轟き、薄暗かった視界がにわかに赤く照らされる。

 それが、二度。
 思わず振り返った先で、階段のあった場所に火柱が立ち上っているのが見えた。
 その奥……別の非常扉で、火球が膨らんだ瞬間さえも。

 緋焔に、目と肌がちりちりと焼けつく。その一方で、腹は深い海底へ潜ったかのように、ぐっと重く冷えこむのを感じた。
 階段が燃えたのは想定の範疇だ。階下からドローンが辿り着いた。それだけだ。

 ――非常扉は、どこから燃えた?
 階下から登ってきたドローンが、混乱に羽音を隠して、そこまで辿り着いたのか?

 あるいは……。
 ほんの少しだけ開いた隙間から、扉の向こうを覗き見た。
 何の変哲もない廊下。ドローンの羽音も、内側のどよめきも感じられないほど、静寂に満たされた場所……。

 反対側の壁に設えてある手すりを見るまで、そう思っていた。
 何ら特殊なものではない、むしろどこにでもあるものだろう。銀色の金属パイプのような手すりだ。

 そこに映り込んでいる、赤い光点以外は。

 何の赤色か――少しだけ頭を回せば、すぐに理解が追いつく。ぞっと背中が凍りついた。

 非常扉が内開きで良かったと――もし外開きなら、もうディサローノの命はなかっただろうと思い至る。
 爆弾は、すぐ頭上にある――扉の上。天井ギリギリに貼りついて、人が通る瞬間を待ち望んでセンサーを張り巡らせている。

 分厚い鋼鉄製の扉越しに爆発させても、まともな威力を示さないとわかっているのだ。
 だから手をこまねいている。逃げ惑う人々が、愚かにも自らを守る扉を開け放ち、爆弾の下へ身を曝け出す瞬間を待ち望んでいるかのようだ。

 慌てて、閉じようとした。その場にいる全員へ、別の場所へ逃げるよう声を張り上げるべく、振り返った。

 ……だがその光景を見た瞬間に、ディサローノの決意は風前の灯火だと思い知る。

 スクリンプラーが遅れて作動し、降り注ぐ水が火柱を押し潰す。フロアにある全てを、人集りさえも。

 爆炎を見た人間は、ディサローノだけではない。
 全員が、巻き起こった火炎に煽られ、まともな理性は焼き尽くされていた。

 生き延びるための唯一の道が、そこにあると信じた……扉へ殺到する表情が、咆哮が、物語っていた。

 恐慌が、人の体をした洪水となって襲い来る。
 ギリギリで保っていた自我を、雨で洗い流されてしまったかのように、狂騒に染まった手が、扉へ向かう。
 それが生き残るための最善だと信じて、死が待ち受ける暗闇へ……。

 もはやディサローノでは、それを止められない。
 誰も彼女の姿など見ていない。誰も彼女の声など耳に入らない。

 愕然に、全身から力が抜けていくようだった。
 それまでの自分の行動は、死力を振り絞った喚呼は、泡沫に帰すと。

 次の瞬間には、ディサローノは走り始めていた。
 誰も止まってくれることはないとわかっていながら、それでも人の濁流をかき分けて、反対側へ……。

 誰かの肩が、彼女の顔面とぶつかった。にわかに暗くなる視界の向こうで、誰かの肩を掴んで体を起こした。だが間に入った別の体が、彼女の腕を弾き飛ばす。
 それでも手は、次に掴むものを探した。また誰かを掴んで、体を進めようと腕に力を籠めた。また別の誰かが、体の動きを阻む。
 人の体をした奔流が、ディサローノをもみくちゃにした。非常扉へ――その奥でぽっかりと口を開けて待っている暗闇へ押し流そうとする。

 それでも前へ進もうとした。前へ……混乱の渦中の、その中心部へ。唯一の、逃げ延びるためではない、生き残るための場所へ。
 狂乱の坩堝へ飛び込むことこそが、最も冷静な最善だと信じて。

 ――その隙間に、それが見えた。
 先程までゲームを繰り広げていたルーレット。内側から水を溢れさせて、白球が床に流れ落ちている。

「……許さない」

 全身を濡らす雨に、体温を奪われ、凍てつくような寒さを覚える。
 だが胸中に湧き上がったのは、真っ赤な炎だ。
 先程の絶叫とは比べ物にならない感情の昂りが、憎悪を燃え上がらせた。

「絶対に――っ!」

 背中で、再び膨れ上がった爆炎と灼熱が……意識を、人々を、吹き飛ばす。
最終更新:2019年03月12日 13:19