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第5話:マス・カレイド・スコーピオン ――ページ2


 シャトーは奇跡だと言っていた。

 背後すぐでの爆発。超高温の炎に晒されながら、目立つ火傷さえない。
 何十人もの人混みに踏みつけられながら、骨折も打撲もない。

「運命に助けられた」――そう言い残して、シャトーはここへの扉を開けてくれた。

 壁も天井も、床さえ白い。
 ベッドにかかる布団も、ベッドそのものも、陰影さえつかないほどに白く、まるで霧の中に放り込まれたような感触さえ覚える。

 どこか薄ら寒さが渦巻く中。足元の影が、自分が見下ろしている自分の影だけが、唯一の黒だった。
 穏やかに、布団が膨らんでは萎む。その連続を、ただずっと眺めているだけ。何のために自分が立っているのか。ただここに居なければならないと思っても、それが何を果たすためなのか……わからないままに、逸る感情だけで、ここに立ち尽くすだけ。

 呆然と立っているだけで、何かを果たせるわけではない。
 何かをしなければいけない。それがわかっていても結局、何をすればいいのかが見えない。

 見えるのは自分の影ばかり。真っ白な空間で、ただただ黒くて暗い自分だけ。
 行き場を失った衝動と力が、自分の拳を強く握らせる。
 重く伸しかかるのは、紛れもない無力感だ。

「すまねえ。ディサローノ」

 ぼそりと、口をついて出てきた。
 何を、どうして欲しくて、そう告げたのかわからないままに、ただ返答が来るはずもない言葉が、白い空間を上滑りする。

「予備すら、俺はできなかった」

 すぐ眼前にまで迫ったところで、ドランブイは敵を見逃した。
 ディサローノがこんなことになってしまった原因が、そこに居たはずだ。

 だが果たせなかった。もし乗っていたのが自分ではなくディサローノだったなら、結果は違っていただろう。
 ディサローノのようには、なれない。なれるはずがない。それぐらいわかっているつもりだ。

「……俺、ディサローノが来れないって聞いて、本当は少しだけ嬉しかった」

 それは、〈オールドファッション〉へ乗り込んでいる間のこと。
 ……最初は、ディサローノの涙を見た後は、その理由をわかろうとした。だがシャトーに阻まれた。何もわからないまま……ディサローノが終わらせようとしている。そう見えた。

 そんな時に、カジノが燃えた。
 終わっていない――燃え盛る炎が、爆発で揺れる建物が、そう語りかけている気さえした。
 多くの人が吹き飛んでいようと、あらゆる設備や備品が壊されていようと――ドランブイにとっては、その爆発こそが興奮を煽ってくれた。象徴のようなものでさえあった。

「俺も何か、できるかもしれないって、やっと思った。ディサローノを……出し抜けるって」

 だが無残で情けない結果に、終わった。
 何一つとして成果を残せない自分が、たまらなく、悔しかった。

「ヘンドリクスも、シャトーも……他の何かをやっていたはずなのに……」

 気づけば、膝が床にまで下がっていた。天井の照明から遠ざかり、足元に近づく。
 暗がりの影が、もっと暗く黒いものになって、ドランブイを見つめ返す。

「何も、できなかった」

 声は震えていた。
 カジノが……ドランブイの居場所が燃えているというのに、守ることさえ叶わなかった。
 それどころか嬉しがっている自分がいて、あまつさえ、眠りこけるディサローノを前にしても、どうすればいいのかを見つけられない。

「何も……何も……できない」

 言葉はいつしか、自分への呪いへ変貌する。
 ディサローノへの、届かない言葉のつもりだった。せめて手が届けばいいと思っていた瞬間さえあった。

 でも届かない。叶わない。何も成しえない。
 他の大人たちは、何かをしてきた人間たちだ。

 昨日でさえ、その一瞬だけでも、違う。
 自分は何もしていない。何もできていない。

「ごめん。ごめん……ディサローノ」

 涙が床へ落ちる。ぽつぽつと滴って、暗がりの中から、わずかな光を拾うそれを、見ることさえできない。
 ……震える手が、ベッドにかかる。

「気は済んだ?」

 いつの間にか、降り掛かってきた声に、顔を上げる。
 何も考えられないまま、医務室の扉を開けた時だ。

 壁に背を預けて、腕を組んでいるシャトーの姿を見つける。視線は合わない。
 背中で、扉が閉まったことを確認する。

「済まねぇよ。こんなんで」

 吐き捨てるような声だった。震えていた声と気持ちを隠すための去勢でしかない。
 痒さにうずく目元は拭わない。それを悟られるのが嫌だった。
 そんなみっともない自分を、見せたくないと。

「……わかった。それじゃ、行こうか」
「行くって、どこに?」

 ドランブイが返答するよりも先に、歩き出した背中は止まらない。
 少しずつ遠ざかりながらも、しかしゆったりと語りかける。

「ヘンドリクスとコアントローが、先に進めているけど」

 その二人が今どこにいるのか。それは聞かされていた。だが自分が入れない場所だろうと思って、聞き流していたことでもあった。

 ……ブリーフィングルーム。
 依頼内容を整理し、作戦を立てるための――他の会議室とは種類の違う部屋だ。

 予備でしかない自分にとって、結局何者でもなかった自分にとって、そこは無縁であるはずの場所だと……。
 そう、思っていた。

「君が必要なの」

 少し先で立ち止まったシャトーが、やっとこちらを振り返る。
 決して明るい表情とは言えなかった。無理して作った笑顔だというのは見え透いてしまう。

 だがその仮面じみた表情の奥にあるものはきっと……ドランブイと同じものなのだろう。
 まるで、鏡を見ているような気分だ。

「これで終わって、いいわけない――」

 それでも、改めて他人から語られる言葉は違う。
 終わっていない……だけではない。終わらせたくないと言われるのを、どこかで心待ちにしていたんだと、今更になって気づいてしまう。
 あまりにも気づくのが遅かった自分を情けなく思うよりも、すっぽりと抜け落ちた脱け殻のような胸の奥が、少しばかり重くなった。

 なぜか、それを心地良いと感じていた。

「――君も、そう思っているんでしょ?」
最終更新:2019年04月02日 13:45