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第5話:マス・カレイド・スコーピオン ――ページ4


 その部屋に入って真っ先に感じたのは、足が震えるような寒さと、シャツが肌に貼りつくほどにじめじめした空気だ。
 ……当然それだけではない。
 広く開けた円筒の空間に、照明らしい照明は何一つとして灯っていない。それでも暗さを感じないのは、中心で巨大な柱のようにそびえる、映像郡があるからだろうか。

「来たか。ドランブイ」

 その奥で背筋をピンと伸ばしたヘンドリクスが、憮然と冷厳を纏った重苦しい顔を向けてくる。
 ヘンドリクスを一瞥して、次に視線は床へ向かった。丸くうずくまるように、あぐらをかいたコアントローが、不機嫌そうに見上げてくる。

「ああ、やっと来れた」

 ――ブリーフィングルームに入ったのは、始めてのことだ。
 華やかさに落ち着きを内包したカジノホール。そして普段から見てきた質素なオフィス……それだけでも、同じ建物にあるとは思えない光景だ。

 だがさらに新しい一面がカジノに残されていることが、驚きであり、新鮮だった。それ以上に、今まで知らないままだった自分に対して、悔しさが胸を絞めつけた。
 悔やしさに歯噛みする自分を切り捨てるべく、一度だけ顎から力を抜く。

 そして今度は、眉に力を入れる……悔しさではなく覚悟で、奥歯を噛み締めながら、歩を踏み出した。

「俺が呼ばれた理由は?」

 ヘンドリクスが、一度コアントローへ目配せする。
 それまで何を話していたか……それを整理するためなのか、あるいは知られて都合の悪いことでもあるのか。
 不安が、後者であった場合への妄想を膨らませた。胸の奥に穴を開けて、意識を暗い穴の奥へ引き込もうとしているのがわかった。

 だからこそ、そうではないことを自分に言い聞かせた。
 光を放つ巨大な柱――映像郡の中心に立つ女性が、背中を向けたまま、言い放つ。

『……ボラッド・マイケーエフは、まだ生きている』

 ぎょっと肩を強張らせたのはむしろ、ドランブイではなく、ヘンドリクスとコアントローの方だった。

 二人の視線が、鋭く諌めているものの、しかしストリチナヤは揺らがず、姿勢さえ変えない。
 まるで彼女自身が光そのものであるかのように――彼女こそが、渦を巻く思惑と感情の結節点であり中心部であると言外に主張するほど、毅然と。

『もう一つ。奴はテウルゴスである可能性が極めて高い』

 その背中が、居るはずのない人間を想起させた。
 カジノの女王を支配する女。柔和ではあるものの、頑強な芯を持った、毅然さ。
 不敵極まりない笑みが目の端を掠める。
 しかし今度こそ、捕らわれない。

「やっぱり、そうじゃねえとな」

 前を向いた。どこまでも挑むと固く結んだ覚悟と熱気が、肩を震わせる。

「知っていたのか?」
「どっちでもいいだろ」

 さも当然だと言わんばかりにかぶりを振ったが、聞かされた内容を、両方とも知らないままでいた。

 すでに終わったものだとばかり思っていた。
 本来ならとっくに片付いている依頼であり、事件だ。まだ続いていたという歯切れの悪い不快さを、しかし感じない。それそのものが違和感となってしまうほどに、すんなりと受け入れている。

 ……理屈や事実を抜きにして、望んでいたことだったからだ。
 理想と呼ぶには汚れすぎている。祈りと言うには激情に満ちている。
 それは一つの願いだった。終わってほしくない、という。

 夢が叶ったにも等しい瞬間が来たことを、内心で喜んでさえいた。
 どれだけ現実離れした内容であっても、機会が来たことを、甘んじて許容する。

 ……負けたままで、終わるわけにはいかないと。

 ディサローノを出し抜こうという、比べられる度に沸いていた癇癪ではない。純粋なドランブイ自身の気持ちとして。
 泣き腫らした目尻を、そうと悟られないよう眉尻に剣を張る。

「あいつらの機体はFRAMEシステムのもんだ。同じ部品を使い回す。ぶっ壊れたら使い捨てる。似たような機体ばかり作る。そういうもんだ。
 だからマゲイアもテウルギアも、見た目なんて変わらないし、全部同じようなもんだろ(・・・・・・・・・・・)
「そういう割り切ったバカな答え、僕は好きだよ」

 ゆっくりと腰を持ち上げたコアントローの口の端は、嘲笑と皮肉で釣り上がっていた。
 コアントローの笑顔は、単に笑っている場合の方が少ない。軽薄そうな表情の裏で、必ずと言っていいほどもう一つの思惑が巡っている。

 距離を詰めてくるコアントローの笑顔を、黙って見下ろす。その仮面のような薄い笑顔の裏で、何を考えているのかと。
 コアントローはすぐに、ドランブイの表情を読み取った。

「でもダメだ。話題そのものが違う。標的が生きていた理由にならない――」

 自分の頭を人差し指でつつく。可愛さで包んだ悪戯げな笑みというフリをした、底意地の悪いウィンクまでしてみせた。

「――それとも、ドランブイの頭ん中だと、そこも一括りなのかな?」

 ウィンクの横で五指が開かれた。ひらひらと風に揺れるように落として、腰にあてる。

 ドランブイの並べた話題と、それまでコアントローたちが行っていたやり取りは、全く別のものだ。
 だからコアントローは、ドランブイを押し黙らせようとしたつもりで振る舞った。

 いつもならば、そこで躍起に噛み付こうと表情を一変させ、すんでのところで自制心が口を横一文字に縫いつけるだろう。
 だが、今は違った。

「ああ。似たようなもんだ(・・・・・・・・)
「……は?」

 苛立ちに上擦った声を吐いたのは珍しく、コアントローの方だった。

「どこが、似ている?」
「似てることばかりじゃんか。
 あいつらの機体は全部似たような機体だし。武装も全部同じだし。ドローンばっかり使うことも同じだ」

 あっけらかんと、ドランブイは言い放つ。
 頭をひねっている他の一同を、むしろそこまで悩んでいる理由がわからないと言わんばかりに、何も考えていないまっさらな顔で告げる。

「ディサローノが殺した奴と、昨日カジノに来た奴の顔も、めちゃくちゃよく似ている」
「……」

 その言葉に、ヘンドリクスもコアントローも、ストリチナヤでさえ、返す言葉に困窮した。
 いや実際に困惑していたのだ。理解に苦しむと。何を言っているのかわからないと。

 だが次の一言で、理解せざるを得なくなる。

「――ボラッド・マイケーエフって名前が、FRAMEシステムの一つみたいだ」

 ストリチナヤが、驚いたように見つめてくる。

 FRAMEシステムは、互換性のある規格の元で、膨大な部品を組み上げることで大量生産を可能にする運用理論であり、製造基盤でもある。
 機体で破損した部位をそれごと取り替えてしまえば、整備にかける時間を要さずに済む。

 壁にもたれかかっていたはずのシャトーが、ようやく口を開いた。

「まさか……テウルゴスまでも部品だ(・・・・・・・・・・・)って言いたいの?」
「そうだ。ボラッド・マイケーエフって名前と顔をした野郎が何人もいれば、間違っちゃいない」

 非現実的極まりないことを、平然と言い放ってのける。

 背中からシャトーが困惑に眉を下げる。真正面のコアントローが気色ばんで眉を吊り上げる。奥のヘンドリクスが憮然と腕を組む。中央のストリチナヤが泰然と目を向ける。
 誰もが、真っ直ぐ歪まない背筋で、荒唐無稽を吐くドランブイを注視していた。

「テウルゴスって部品だ。いくつもあって、全部が全部、替えが効く」

 視線を集めている自覚は、当然ある。しかしやめるつもりはなかった。
 宙に浮かぶ表示枠へ、目が引かれた。

 ボラッド・マイケーエフと呼ばれている男の顔が、そこにはある。
 禿頭、鷲鼻、薄く釣り上がった唇……顔でさえ一つ一つの部位が、あまりにも特徴的だが、しかし典型的すぎる悪者顔。
 ――どこにでも居そうな顔。

「そう言える根拠は?」
「ねぇよ。ただ、なんとなく……思っちまったんだ」

 顔の部位こそ完全に違うが、しかしドランブイがそれを、鏡かと見紛った。
 どこにでも居そうな存在。代替が効く個人。誰かの予備にしかなれない自分。まるで鏡写しの自分そのものであり、虚像であると。

 結局、誰のこともわかれない虚無。鏡の向こうに奥行きばかり見えるくせに、しかし手を伸ばせば透明で冷たい壁に阻まれる、悲愴。
 何者にもなれない、何者でもない。同じように手を伸ばした鏡の向こうの自分も、最後は透明な壁を通り抜けることは叶わない。

 鏡写しとなって自分自身であり、誰かから見られない限り決して何も映すことのない、鏡そのものだと。

「……俺は、ディサローノの予備だから」

 気づけば、視線は下を向いていた。
 鏡から目を反らそうとしてなのか、自分の声が震えていたからなのか……わからない。
 わからないことにして、目を背けていたかった。

 だからこそ気づけなかった。
 背後まで歩み寄ってきた、その人物を。

 突然に肩を引っ張られて、視界が激しく横に揺れた。
 次の瞬間には、目の先で火花が明滅し……鈍痛が、じんわりと後頭部から、頭蓋を反響している。

 そこでようやく、誰かに倒されたのだと知った。
 腹の上にどっかりと尻を乗せた誰かが、ドランブイの襟を掴んで引っ張り上げる。

 やっとの思いで目を開いた時に、思わず愕然で、呼吸さえ忘れてしまう。

 唇をきつく噛み締めて、柳眉を逆立てている。
 大きく見開かれた目の奥で、烈火が揺らめき、瞳が潤んでいる。
 襟を握り締める手は、力のあまりに震えていた。

「……ディサローノ」
最終更新:2019年04月02日 13:58