小説 > 在田 > 流転と疑惑のミス・フォーチュン > 39

幕引:砂上の楼閣


 戦場と化した街から逃げ出した男の体は、全身から汗を吹き出し、疲弊しきった筋肉が痛みを訴えていた。既に戦いは終わったのか……それを知る由もなく、砂を薙ぐ風の音しか聞こえない。

 廃都市の外れ……砂上に横たわる船舶が、錆びに朽ちて原型を失いつつある。その隙間にできた僅かな空間に、ようやく男は体を滑り込ませる。
 元より人気のない街だった。その外れ……船の残骸になどわざわざ顔を出す者などそうそういない。

 そここそがボラッド・マイケーエフの名を持つ男たちの、一同に会することができる唯一の場所だった。

「……いるか?」
「ああ」

 陰りの中に浮かぶ、鏡写しのような似姿の男へ問いかけ、振り返った顔が、自分と全く同じであることを確認して、安堵する。

 そいつが、どのボラッド・マイケーエフなのか……自身もまたボラッド・マイケーエフである男にとっては些細なことだった。
 テウルギアに乗っていた方か、あるいはバンに演算通信装置を積んで補助をしていた方か……まさか、レメゲトンである方が実体化するはずもないだろう。

 男たちは鏡を覗くように向かい合う。

「俺たちの分身が、もうなくなった」

 分身……それは、男たちが自己投影に至るほど親身を籠めて作り上げた、無数の爆弾たちだ。
 彼らにとって、爆弾こそ自分自身のアイデンティティであった。爆弾を作る自分たちがそうであるように、自分の意志を炎に写す爆弾すらも、自分の手足同然となっていた。

 だからこそ爆弾を増やすように、自分たちそのものさえ増やすことができる精神状態へ至ったのだが……

「仕方ないさ。また増やせばいい。俺たちは無限だ。分身だっていくらでも……」
「だが残念だ。また俺が死んだ」
「じゃあまた、写し直さなきゃな……」

 落胆するよりも早く、男は奥にある棲家へ向けて、足を踏み出す。
 一応であるものの、生活に必要な備品が整っている。当然、体を癒やすための寝床も。

 しかし手をかざしたもう一人に、思わず足を止める。

「なんだ」
「もうちょい右だ。右に歩いてくれ」

 自分の足元を指差した相手の皮肉げな笑顔に、思わず肩をすくめて、歩く向きを変える。

「……なんだ? ここにまで分身を仕込んだのか?」
「そんなもんさ。カジノの連中……いやディサローノか。まさか街を丸ごと焼き払うなんてな」

 突然切り替わった話題は、しかし当然だろう。根城にしていた街も、部下も、分身たちも……それまでボラッド・マイケーエフたちが積み上げてきたものが、纏めて潰されたのだ。二言目に愚痴が溢れるのも頷ける。

「ああ、馬鹿げた力だ。でもまた増やせば――……!」

 話を聞き流しつつ、どこに地雷を埋めたのか、探るように横へ歩いていたはずの男は、しかし自分の体を襲った事態に、愕然とする。
 陰で暗くなった砂……その下へと、吸い込まれるように体が沈んだのだ。
 あっという間に胸あたりまで砂に埋まった体と、服に染みこんだ水分が、より重く体の自由を奪う。

 流砂――事態を把握してようやく、沸き上がったのは怒りだった。

 旧アラル海――かつて内陸湖だったからこそ、砂の奥にまだ水が残っているのだろう。流砂は頻発する。
 部下たちの悲鳴が聞こえることもしばしばあり、むしろ貶して笑いあったこともあった。
 いつだったか姿を眩ませた部下が、顔だけ砂に出したまま干からびていたこともあった。
 船の陰だからこそ日差しに焼き殺される心配はないにしても……動きの全てを制限される泥から一人で抜け出すのは至難を極める。冗談めかして笑っていられる場合ではなかった。

「……おいお前!」
「おお悪く思うな、俺」

 お手上げとばかりに両手をひらひら振った男はしかし、助けようという素振りさえなく、踵を返した。

「良い話があってな。俺一人なら(・・・・・)、良いところでやり直せるとな。お前じゃなくて俺なら(・・・・・・・・・・)、だ」

 話を聞く間にも、頭に登った血が、熱い激情をもたらしていた。

「お前! それでも――」

 しかし流砂に沈む男の声は、かき消された。
 鳴り響いた銃声……しかし軽快なものではない。鈍重に、腹に響く音。

 ……つい今の瞬間まで嬉しそうに歩いていた、自分と同じであった男の頭が、真っ赤に爆ぜる。
 血と脳漿と、骨の欠片が飛散し、頭のなくなった身体が砂へ倒れて、痙攣にのたうち回る。
 やり直せると言っていた男は、すでに亡き者となった。

 その瞬間を、ただ見つめるしかできない。
 暗がりの奥……先程まで自分が歩み行こうと思っていた船の奥から歩き来る姿にさえも。

「一度生まれた顔と名を捨て……さらにもう一度やり直せる? つくづく都合の良い頭だ」

 低い声だ。女の声とは思えないほどに、凍りつくような冷たさに憎悪をこれでもかと織り込んで、しかし静かな黒い声音。
 対して隙間風に揺れる長い銀髪は、僅かな光でさえ拾い上げて、暗闇の中から浮かび上がる。

 ようやくその顔が、見える。
 珈琲色の肌。刻まれた切傷痕と、半分を埋め尽くすような火傷痕。その隙間から鋭く射抜くような瞳。

 ……フェオドラ・ジノーヴィエヴナ・シャムシュロヴァ。
 その目が、怨嗟に満ちた視線が……砂に埋まる男へ差し向けられた。

「やはり、虫唾が走るものだな。一度殺した顔が、まだ生きているというのは」

 手にした帽子を被り、両手で整える。
 その間にも、口を開いたまま時間の止まった男へ、語るのをやめない。

「さて、質問に答えてもらおう。ボラッド・マイケーエフ……貴様は、私を覚えている(・・・・・・・)貴様か?」

 はっと、忘れていた呼吸を取り戻したボラッドが、どこかで聞いた知識を並べて取り繕う。
 彼女の姿を見ることさえ、男にとっては初めてのことだ。

知っている(・・・・・)さ。フェオドラ・シャムシュロヴァ、SSCNの鍍金の女王――」

 言葉の後半に、フェオドラの眉根がぴくりと動いたが、ボラッドは見つけられない。

「いや。調べが正しければ貴様は、私を覚えていないはず(・・・・・・・・・)だ」

 一番近くの外壁まで寄ったフェオドラがそのまま、背を預ける。体だけはボラッドを向いたまま、顔は暗闇の奥を見つめている。

「私の覚えている蠍男(ボラッド)という男は、私に、一人で流砂から抜け出す方法を教えてくれた男だ」

 それを聞き入れた途端、胸中に歓喜が沸いた。
 流砂から抜け出す手段をこそ、ボラッドは求めている。
 フェオドラは女性。それもかなり細身だ。大の男を泥から引きずり出せる膂力など期待できない。
 しかし一人でとならば話は変わる。なぜ別のボラッド・マイケーエフが彼女に教えたのか、理由も因縁も読めないが……だが教えている限りは、恩義があり、そこに漬け入る隙があるに違いない、と。

「だが流石だ。鍍金の女王と呼ばれるぐらいにまでなるなんて……」

 まずは機嫌を損ねないようにと選んだ言葉が、致命的なまでに、彼女の眉間にしわを作らせる。

「よくそこまで、のし上がっ――」

「流砂から抜け出した後、そのまま五時間走らされた」

 ボラッドの言葉を遮り、ぼそぼそと呟くように話し始める。
 必死に耳を澄まし、ごおごおと音を立てる隙間風の間を縫うように、どうにか拾い上げる。
 ……しかし耳に入れる度、ボラッドは、初めから漬け入る隙は愚か、恩義などという希望を抱くことが、どれほどの愚行だったかを思い知らされることとなる。

「最初の数分はなんてこともない。何故走らされているのか、不思議でならなかった。
 だがしばらくして痒くなった(・・・・・)。抜け出したばかりだから砂が擦れているのだと……。
 気づいて、ぞっとした。その後、どのくらい走るのか知らなかったから」

 そこで一拍を置いて、フェオドラの目はボラッドを伺った。流砂に埋もれたままであることを確認したのだ。

「その後は、地獄だった。
 走るごとに、砂で肌が擦れるのだ。
 足を止めようとすれば、すぐに銃弾が飛んでくる。走り続けるしかなかった。
 だが走れば走るほど、肌が削れていく。特に股と脇がひどかった。痛みに耐えながら、それでも走った。
 日差しが今日のように眩しい日のことだ。しばらく経った頃には、表面の砂は乾いて、ぽろぽろ落ちた」

 フェオドラの両腕が、自分の体を抱きしめる。服がしわくちゃになるのも構わず、力強く。

「貴様には想像ができるか?
 汗と血でずぶ濡れになった服を見ながら、足を止められない恐怖を」

 限界まで力を籠めた手は、そして撫でるようにさすった。

「最後ともなれば全身だ。
 服を濡らすのが、汗なのか血なのか、見境がつかない。
 肌という肌が、全部、砂ごときで擦れ切っていた。
 走っているのか藻掻いているのか、わからなくなって……だがやめた時にはもっと痛い銃弾が飛んでくる。それが怖くて、逃げ惑うように走り続けた。
 滑稽だろうな……みっともなく悲鳴をあげて、むせび泣きながら、無様に走り続けている女を眺めるのは。
 ――私の覚えている(・・・・・)ボラッド・マイケーエフとは、そんな私を見て、ゲラゲラ笑っているような男だ。
 走り終えた私を裸にして、擦り傷だらけの私に氷水を浴びせて、さらに笑い出すような男だ」

 また、フェオドラの目はボラッドを向く。
 しかし様子を伺うだけではない。今度こそ、正真正銘の憎悪に染まった眼を。

「とても……とても、痛かったよ」

 射竦められる。フェオドラの瞳、その奥で燃え盛る炎に。
 初めから流砂に飲まれていなくとも、この瞬間、男は動くことなどできないだろう。
 残された手段など、虚勢を張り、自分が――同じ顔を持っていながら、ボラッド・マイケーエフではないと主張することしかなかった。

「ふ、復讐のつもりかあ!?」
「復讐だと?」

 途端、弾けるような笑声が、その喉奥から昇った。
 腹が捩れて、息が詰まるほど長い間、フェオドラは笑い続ける。
 残骸となった船の内側。声はその壁面のあらゆる箇所を反響し……やがて隙間風に飲み込まれて、消えた。

「すでに私の覚えている蠍男は死に絶えた。叶わん話だ。
 これはただの私用(・・・・・)だ。くだらない――心底くだらない八つ当たり(・・・・・)に過ぎん」

 帽子がずれたのか、フェオドラの手がそのツバをつまんだ。何度か横にずらし、調整する。

「だが、まあ、聞こえのいい言葉だ。復讐。復讐……。
 そう思っておきたいなら、そう思っておくがいい」

 つまんでいた帽子を、頭から離す。
 それこそが合図だった。
 残骸の、暗闇の奥……そこから飛び出した銃弾が、今度こそ、流砂に埋もれた男の頭を吹き飛ばす。
 首から赤い血を霧のように噴出だけとなった死体を眺め……嘆息しながら立ち上がる。

「ボラッド・マイケーエフなどという男は、初めから存在しなかった(・・・・・・・・・・・)
 何者にも成ることのなかった有象無象どもが、顔を切り揃えるために創り上げた虚影に過ぎない」

 自身の顔に焼けつき……二度と剥がすことのできない火傷痕を、なぞる。

 男たちが生まれ持っていた顔を捨て、新たな名を得たということが……その顔が、よりにもよって自分の憎むべき男の顔であったことが、彼女には、許しがたいことであった。

 だから頭を吹き飛ばさせた。
 奥に控えていた、彼女の部下たちが、役目を終えて姿を見せる。
 一人だけではない。十人、それ以上が、暗闇に息を潜めていた。

 見つけてすぐに、フェオドラも歩み出す。

 結局男は、最後まで気づくことさえなかった。
 船の残骸……その裏側で、息絶えたように横たわる、黄土色のテウルギアに。

「いくらテウルギアとて、弾の切れた、整備不良の旧式……わざわざマゲイアを用意するまでもない」

 新たに積み上がった残骸を一瞥し、立ち去る。
 足元に転がる二つの死体など構わず。

「さて……あと十一人、か――」

 晴れやかな笑顔が、そこに浮かんでいた。
最終更新:2019年05月20日 14:42