エピローグ:ミス・フォーチュン ――ページ1
宙にぶら下がるいくつもの照明が、寝静まったように沈黙する。
いつもなら忙しなく動き回る人の姿と、綺羅びやかな喧騒で溢れかえっている。夜も耽った今では、青年の指がテーブルを打つ音でさえこだまするほど、仄暗い静寂が広い場内を満たしていた。
頭上に、唯一つ灯された照明。
未だ垢抜けない顔には、億劫そうな陰が色濃く落ちている。
席に着いた青年――イーヴァリ・マルッティラは台に両肘を置き、手元に置かれたチップの山を見下ろす。
育ちの良い……とは、決して言い難い出で立ちだ。
起き抜けのような乱れた頭髪。ひょろりと細長い痩せ型の体躯を、しわだらけのシャツと、生地が潰れて光沢したジャケットで囲っている。袖口のボタンの数さえ不揃い。
典型的な、悪い着慣れ方だ。
「いいのか? 本当に」
「いいのよ。早いところ、この台のクセを掴んでおかないと」
向かい合うように背筋をぴんと張る女性の格好は、青年とは対照的に……ともすれば余計に見窄らしく見えてしまうほどに、洗練されている。
綺羅びやかな照明の下に立つことを意識して光沢を抑え、撫でつけられたアッシュブロンド。首元を包む深紅のスカーフにはシワも折り目も見せず、髪色と合わさって、闊達な印象を光に振りまく。
袖口の端に至るまでピンと伸ばされたシャツ。埃一つさえ払いきったベスト。
女性――ヴァネッサ・ミラネージが、傍らに置かれたルーレットへ手を添えた。
新品そのもの。ホイールも、ハンドルも、内側に置かれた突起さえ傷一つなく、鏡のように光を反射する。
悪戯に溌剌さを覗かせる眉尻と、落ち着いた甘さを伴った目尻が、陰の色が濃くなる一方の青年をのぞむ。
「リハビリも兼ねてだし。まともに張り合ってくれそうなの、あんたぐらいだから」
「張り合う、って……」ひょいと手元の山からチップを摘んで、女性の姿を隠すようにかざす。つまらなさそうな目「俺は賭博師じゃねえし、このチップもお遊びなら、張り合えるほど本気になれるわけが――」
「あら。気づいてないの」
「何がだよ」
今度こそ、隠していたヴァネッサの顔を不機嫌に見上げた。
小さく顎で示された、手元に積み上がるチップの山。
曲がりなりにも、イーヴァリはこのカジノの経理を勤めている。役柄こそ重責はないにしろ、ゲームそれぞれに合わせて姿を変えていく、チップ一枚ごとの金額一覧は、既に暗記している。ようやくその頭がチップの総額を計算し始める。
嫌らしいほどに親近感のある金額であると知って、ただでさえ陰っていた顔が青くなった。
「おい、まさか……」
「そう。それ、あんたの来月分ね」
「てめえ!」
「はい。席料いただきますねー」
「おい! 話を聞けよ!」
怒鳴り散らすイーヴァリの手につままれたままのチップが、ひょいと奪い去られ、更に声を張り上げる。
暗くなったかと思えば青くなり、今度は赤へ、ころころと色合いを変えていく青年の顔をじっと見つめながら、どこ吹く風とばかりに、ヴァネッサが腰へ手を当てる。
「何言ってんの。指名料取らないだけありがたいと思ってくれなきゃ」
「俺が! てめえに! 付き合わされてんだよ!」
「はいはい。神聖な賭け台を叩かない」
「だから話を聞け!」
聞き流す。
奪い去ったチップを台の下へ仕舞い、ヴァネッサの手は、傍ら――ハンドルを緩く握り、撫でるように回す。
手元の音さえ立たない穏やかな動きからは想像もつかないほど、ルーレットは勢いよく回転する。
間断なく、指に挟んでいた白球を指先へ押し出し、外縁をなぞるように放つ。からころと軽快な音が響く。
くすりと口元に小さく浮かべた笑みを、ぐっと近づけた。
「まさか、ここで逃げ出すあんたじゃないでしょ?」
「……」
苦々しげにひきつった顔を隠そうともせず、しかし目だけは怒りを訴えたまま……。
イーヴァリは、チップの塔へ手を添えた。
実に面倒臭い男だ――という言葉を、喉奥で飲み込む。
嫌であると感情でわかっている。理不尽への怒りも沸かしている。しかしなぜか安っぽい挑発でさえ乗る。
変なところで生真面目なのか、逃げ方を知らないのか……。
見つめる先で、イーヴァリの手がたどたどしく動いている。
ちょうど半分に分け、二箇所に置く。
盤面の数字ではなく、複数枠――奇数と、偶数。
当然、どちらとも配当は二倍。
「……うわ。つまんない」
「給料かかってんだよこっちは!!」
思わず胸の内に仕舞うことさえ忘れて、こぼれ出る冷え切った言葉にまで、必死に叫び返した。
律儀か、丁寧か、懸命か……どちらにせよ馬鹿なのは変わるまい、とかぶりを振ってから、再度口を開く。
前置きに、大げさな溜息。
「せっかくイイ思いさせてあげようと思ったのに。これじゃあ弾むものも弾まないわ」
「うそつけ」
露骨な、仰々しい舌打ち。
「あっそ。じゃ、もういいわ」手をひらひら振った「私、知らないから」
「は? 投げたのはそっち……」
「いやあ、忠告のつもりだったんだけどねえー」
「……? どういう」
聞き流す。
にまにまと緩みそうな頬に、力を張る。
半目の視線はルーレットへ注がれた。今、その呆けた青年の顔を見てしまえば、吹き出る笑い声を堪えきれないだろうから。
速度の緩んだ白球が、突起に叩かれ、数字のポケット壁に蹴られて……それでもポケットに、収まる。
ルーレットの盤面には、どうしても賭け台に並ぶ複数枠では賄いきれない数字が存在する。
奇数でも偶数でもない。あるいは、赤でも黒でもない。
1~36の自然数だけではない、37番目の数字が。
――唇を舌で濡らし、賭け台を指差した。
「0」
力みすぎず通りの良い声が、静かなフロアに響き渡る。
「……」
残響が耳をくすぐる中で、イーヴァリの視線も、言葉も、動きも――完全に静止した。
陰で見えない黒目が、点のように小さくなっている。小さく開かれたままの口が、閉じていない。
「……」
「……」
「……はい回収」
「給料ぉー!!」
一瞬で賭け台の表から、ヴァネッサの元へ移ったチップへ伸ばす手も、ぺしりとはたき落とされる。
最終更新:2019年05月27日 14:20