考察・思念体の安全性について
! このページは考察記事です。個人の意見の反映が強く、信頼性が保証されるものではありません。
思念体の存在については、しばしば解離性障害や統合失調症などの精神疾患との関連や、魔術的な危険性について語られる。
しかし一方で、思念体は神秘的なものとの関連や、成長に関わる存在、精神の防衛機能として肯定的にも捉えられている。
では思念体の安全さ、危険さの境界は一体なんだろうか。
しかし一方で、思念体は神秘的なものとの関連や、成長に関わる存在、精神の防衛機能として肯定的にも捉えられている。
では思念体の安全さ、危険さの境界は一体なんだろうか。
心理学・精神医学から見た思念体
細かい定義については各項目の解説に譲るが、病気に含まれない状態は大まかに以下の通りである。
- 記憶の欠損が生じていない
- 宗教的な行事など、精神変容が生じている場が限定されており、日常に進出していない(不適切な場でそれが生じない)
- 自我同一性が保たれており、混乱が生じていない
- まとまりのなさや思考の混乱、異常に強固な確信などを含む妄想が生じていない
- その他社会生活を送る上での困難が生じていない
また、これらが長期間続くことについての懸念については諸説ある。解離性障害、統合失調症において、症状が長期間続くことは鑑別の基準の一つとなる。一方で、イマジナリーコンパニオンが長期間存在することについては、病的とする基準がない。ただし、イマジナリーコンパニオンが成人期まで続く場合、愛着障害など別の精神疾患を疑う場合も多い。
しかしながら、イマジナリーコンパニオンそのものは病的なものとは明確に切り分けられている。解離そのものは人間に備わる防衛機能であるという考えが支持されている。そのため、適切に発生している間はそれ自体は病的ではない。催眠療法や一部の精神療法では、これらを生かし一時的な解離を引き起こして治療を行うこともある。
また、幼児期にイマジナリーコンパニオンが存在した子供は、その後の社会性の発達が優れていたとも言われている。解離傾向は芸術家や作家などに見られる場合も多い。
医師の治療方針によっては、健全な思念体、不健全な思念体を、問題行動を起こすかどうかで分ける場合もある。自傷行動を行ったり、怒りをぶつける、泣いてばかりいるなどのネガティブな行動を起こす思念体は、何らかのネガティブな思考の表れであるという考えである。
2018年には、WHOの発表したICD11により、部分的解離性同一性症(Partical dissociative identity disorder)が規定され、主となる人格の行動を妨げる侵入的な人格を治療対象とする方針が示されている。
オカルトから見た思念体
多くの魔術やスピリチュアルの手法では、「思念体との邂逅」の場は切り分けられている。
例えば、スクライングでは専用の道具を必要とし、儀式の場の外で思念体を呼び出さない。または、「しまう」方法が提案されている。
例えば、スクライングでは専用の道具を必要とし、儀式の場の外で思念体を呼び出さない。または、「しまう」方法が提案されている。
また本来のタルパや、陽神などは、最終的に自身と統合する手順に向かい、永続的な保持を行わない場合が多いようである。
このことから、オカルトの上での思念体は、ある程度の期間に限定して関わり合いを持つことが推奨されていると思われる。
このことから、オカルトの上での思念体は、ある程度の期間に限定して関わり合いを持つことが推奨されていると思われる。
これを示すように、過度に継続して行ったり、道を外れた行法を行うことで魔境や禅病などの精神疾患様の症状が現れることも語られており、これらを防ぐために師や同士など、複数人で極めていくことが推奨されている。
思念体を高次元の存在と定義した場合、「相手が雑霊である場合もあるため、過度に盲信せず、内容を精査する」ことが推奨される場合が多い。また、思念体の声を聞き不適切な言動を起こす場合、「雑霊に憑かれている」と称す場合があるようである。
いずれにせよ、「ある程度のコントロールをもって思念体と触れ合う」ことが重要とされている場合が多い。
思念体の安全性とは社会における健全性である
これらのことから、まず思念体と交流を行うにあたっては、「社会的な健全性を損なわない」ことが第一にあると思われる。
例えば病的な妄想では、当人の生育した文化と著しい乖離がないかが判断基準として用いられることがある。
有名な妄想の代表例として「宇宙から電波を受信した」というものがある。ある日突然そう思われるようになったのであれば、病的と扱う可能性があるが、自発的にスピリチュアルの書籍を読み、変性意識に入り、内的な声を聞いて「宇宙からの電波」と解釈したのであれば、そこに文化的かつ、当人の思考の上での一貫性があるため、病的とは扱わない可能性がある。
すなわち、思念体と交流を行う状況を、文化の枠の中で適切な範囲にとどめておく必要がある。
有名な妄想の代表例として「宇宙から電波を受信した」というものがある。ある日突然そう思われるようになったのであれば、病的と扱う可能性があるが、自発的にスピリチュアルの書籍を読み、変性意識に入り、内的な声を聞いて「宇宙からの電波」と解釈したのであれば、そこに文化的かつ、当人の思考の上での一貫性があるため、病的とは扱わない可能性がある。
すなわち、思念体と交流を行う状況を、文化の枠の中で適切な範囲にとどめておく必要がある。
無論、当人が一貫していると考えていても、過度にそれを盲信することで、社会生活に問題が生じることがあれば、それは適切な範囲と言えないので注意が必要である。
第二に、「自己のコントロールを保つ」ことである。
解離では文化的なトランスなどでは病的と扱わないと書いたが、文化的な範囲においても、記憶の欠損や憑依状態が永続するのであれば問題視する。
それはもはや自己や自己の一部が失われているに等しい状態だからである。思念体との関わりは、自己を明確にした上で、それを維持しながら行っていくのが望ましいと考えられる。
解離では文化的なトランスなどでは病的と扱わないと書いたが、文化的な範囲においても、記憶の欠損や憑依状態が永続するのであれば問題視する。
それはもはや自己や自己の一部が失われているに等しい状態だからである。思念体との関わりは、自己を明確にした上で、それを維持しながら行っていくのが望ましいと考えられる。
思念体は守護天使、イマジナリーコンパニオンにも見られるように、時には我々を導く隣人である。
しかしながら、自己の全てを思念体に明け渡し、失うことのないように心がけたい。
しかしながら、自己の全てを思念体に明け渡し、失うことのないように心がけたい。
執筆者:藤代