神の性別

キリスト教では、神は「父なる神」と呼ばれ、聖書の中では男性形で現れる。
しかし、聖書にはこのような記述もある。

申命記1:31
(※モーセは言った。)「あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった」

※新共同訳では、「また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」 となっている。

イザヤ書49:14-16
しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
(※主は答えた)「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころ(掌)にあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。

※新共同訳では以下。
シオンは言う。「主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。」
(※主は答えた)「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

イザヤ書66:12-13
主はこう言われる。「見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」

これらのことから、主は確かに「父なる神」として人々の前に現れたが、父性のみならず母性をも兼ねそろえた存在であることがうかがわれる。
最終更新:2016年09月18日 22:48