天動説と地動説

天動説の提唱者コペルニクスや、天動説を確立させたケプラーやガリレオは皆キリスト教徒だった。しかしながら、地動説を強く訴えたガリレオに対し、地動説を強く信じるカトリック教会は異端審問を行い、ガリレオは自宅軟禁の憂き目にあった。

確かに聖書には、大地は揺らがないと書かれている。

歴代誌上16:30
全地よ、御前におののけ。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。
詩篇93:1
主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
詩篇96:10
国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。
また、地は基礎の上に建てられた、という記述もある。

サムエル上2:8
大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。
詩篇104:5
主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。

また、ルターはヨシュア記の次の記述を理由に天動説を支持した。

ヨシュア記10:12-14
主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った「日よとどまれ、ギブオンの上に。月よとどまれ、アヤロンの谷に」。日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。主はイスラエルのために戦われたのである。

そしてルターはコペルニクスに対し、「このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない。」と語った。しかし、よく読めばわかるように、詩篇は、神を讃えるための詩であって、神の言葉ではない。また、ヨシュア記の記述は月も動きを止めているため、むしろ天動説の説明にはなっていない。

むしろ、ヨブ記には次のような記述もある。

ヨブ記26:7-10
神は聖なる山を茫漠としたさかいに横たわらせ
大地を空虚の上につるされた。
密雲の中に水を蓄えられても
雲の底は裂けない。
神は御自分の雲を広げて
玉座を覆い隠される。
原始の海の面に円を描いて
光と暗黒との境とされる。

大地を空虚の上につるすという考え方は、天動説の考え方とは反するものである。
したがって、聖書が天動説を支持しているわけではないと考えられる。

アリストテレス的宇宙観とキリスト教の融合

エウドクソスの同心天球

紀元前4世紀、古代ギリシアのエウドクソスは、地球を中心に重層する天球が包む宇宙を考えたとされる。いちばん外側の天球には恒星が散りばめられており(恒星球)、天の北極を軸に、およそ1日で東から西へ回転する(日周運動)。太陽を抱える天球は恒星球に対して逆方向に西から東へ、およそ1年で回転する(年周運動)。太陽の回転軸は恒星球の回転軸とは傾いているために、1年の間でその南中高度が変わり、季節が説明される。恒星球と太陽の間には惑星を運行させる天球を置いた。地球から見て惑星は星座の中をゆっくりと動くように見える。これは恒星球に対して惑星を運ぶ天球の相対運動で説明されたが、惑星は天球上で速さを変えたり、逆行といって一時期だけ逆に動くことがある。逆行を説明するために、いくつかの回転方向や速度の異なる複数の天球を1つの惑星の運行に用意した。これらの天球は動かぬ地球を共通の中心とする球体であったので、地球からそれぞれの惑星までの距離は変化することはない。エウドクソスの同心天球はアリストテレスの宇宙像に組み入れられた。

アポロニウスの周転円

紀元前3世紀頃のアポロニウスあるいは紀元前2世紀のヒッパルコスは、惑星が単に円運動を描くのではなく、円の上に乗った小さな円の上を動くと考えた。この小さな円を周転円、周転円が乗っている大きな円を従円と呼ぶ。感覚的には、遊園地の乗り物のコーヒーカップがこれに近い。コーヒーカップの取っ手を中心から見ると、2種類以上の円運動が合成されて、進む方向や速さが変化するように見える。これによって惑星の接近による明るさの変化、巡行と逆行の速度の差を大雑把に説明できた。

全ての惑星が同一平面上にある太陽を中心とした円軌道を等速運動しているのであれば、地球から見た惑星の運動は、円軌道と1つの周転円のみで記述することができるはずである。しかし、現実の惑星の運動はそのようにはなっておらず、惑星の運動を天動説で正確に記述するためにはより複雑な体系が必要になる。そのためヒッパルコス以降、プトレマイオスを始めとしてさまざまな天動説モデルが提唱され、最終的には地動説のコペルニクス、ケプラーを経てニュートンの万有引力の法則に基づく宇宙モデルに至ることになる。

プトレマイオスの体系

2世紀にアレクサンドリアで活躍したプトレマイオスは周転円を取り入れつつ、離心円とエカントを導入、体系化した。恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる(離心円)。周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている。

図は比較的簡単な例であるが、これでも図示されている大きな離心円と小さな周転円のほかに、離心円の中心Xの運動、恒星球の日周運動、エカント点を中心とする角度など、この1つの惑星の運行に5つの動きが絡んでいる。
プトレマイオスの体系では地球から惑星までの平均距離にほぼ相当する離心円の径をどう採っても、視方向が同じである周転円を作ることができる。とりあえず各惑星の周転円が重なり合うことを避けるため、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていった。その外側を恒星球が取り囲む。この宇宙像は、エウドクソス、アリストテレスの同心天球の拡張形とも言える。

プトレマイオスの体系は当時としては非常に優れたものであり、地球を中心と仮定して惑星や太陽の運動を説明するには、これ以上のものは無いと言ってもよい。仮に(そんな事はあり得ないが)太陽系の惑星の運動が全て円運動であったのなら、プトレマイオスの体系でほぼ完璧に説明ができたであろう。しかし後に明らかになる通り、実は惑星は太陽を焦点の1つとした楕円運動をしており、それ以降の天動説の発展は、楕円運動を円運動で説明せんがための発展であった。

プトレマイオスの体系をまとめた『アルマゲスト』は、中世イスラム世界を経て中世ヨーロッパへ引き継がれ、およそ1500年にわたって教科書的な権威を持ち続けた。


地動説の提唱

16世紀のヨーロッパでニコラウス・コペルニクスが地動説を唱えた。コペルニクスの説は太陽を中心に地球を含む惑星が公転するという点で画期的であると共に、エカント点を排除して全ての運行を大小の等速円運動で記述した。しかしながらコペルニクスの説も、円運動を前提にしているという点においては、従来の天動説と同じであった。本当であれば楕円運動をしている惑星の運動を円運動で説明するために小周転円が必要だったので、計算の手間はプトレマイオスと大して変わらなかったし、予測精度も大きく上がることはなかった。地球の位置が動くならば恒星の見える方向が変化するはずなのに、当時の観測精度ではそれ(年周視差)が認められなかったことも、コペルニクスの説が直ちには受け入れられなかった理由である。コペルニクスの説を受け継いで、エラスムス・ラインホルトが、『プロイセン星表』を作成したが、周転円の数をプトレマイオスの天動説よりも増やしてしまい、さらに計算を煩雑にしてしまった。

コペルニクス説の影響を受けて、17世紀のティコ・ブラーエは、動かぬ地球を中心にしながらも、月と地球を除く惑星が太陽の回りを周回する宇宙を考えた。ティコの太陽系はプトレマイオスの天動説の発展形とも言える。プトレマイオスの体系でも太陽系というものが全く存在しなかった訳ではない。内惑星である水星と金星の離心円の回転角は、太陽のそれと同じであった。しかし外惑星は別扱いされた。内惑星を地球から見ると太陽からある程度以上は離れることはないが、外惑星は太陽の反対側へも回り込む。

プトレマイオスの体系では、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていた。この配列で水星、金星、太陽を見ると、この順に離心円の径が大きくなる。しかし、ティコはこれらを同じにした。周転円が重なり合うことを問題にしなければこれができ、これに応じて周転円の径を変えると地球からの視方向が同じであるものができる。この系では太陽の回りを水星、金星が回る。さらに外惑星も同じようにできるが、この場合は離心円の径と周転円の径の大小が反転する。しかし、元々 離心円の径 > 周転円の径 であったのは、周転円同士が重なり合わないための要請で、それを取り払うと問題ではなくなる。すなわち、ティコが破ったプトレマイオスの掟は周転円同士の重なりであった。元のプトレマイオスの体系でも離心円同士は重なっていたのだから、周転円同士の重なりを回避するのは不自然な要請だったのかもしれない。

16世紀にニコラウス・コペルニクスが地動説を唱えた後にも、天動説を脅かす事件は続いた。新星が観測されたことは、恒星の中にも変化が見つかったことになる。月より遠方ではいかなる変化も起きないというアリストテレス的宇宙観にとって、これは大きな問題となった。さらに、ティコ・ブラーエが彗星を観測し、この天体が月より遠方にあることを証明した。これは激しい論争を生んだ。多くは彗星を気象現象として考えようというものだった。

地動説の確立

17世紀になって望遠鏡が発明され、天動説に不利な観測結果が次々ともたらされる。しかし当時は望遠鏡を錬金術師が使う非科学的な呪具であると考える者が多く、また依然として残る宗教的圧力によって天動説を捨てる学者はなかなか現れなかった。天動説の優位性は、太陽の周りを地球が公転するなら月は軌道を保てずに飛んで行ってしまうであろうという批判に対し、当時の地動説が反証できなかった点にあった。しかし、1610年にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を用いて木星に衛星があることを発見した。 この発見により、天動説は木星の月が飛んでいってしまわない理由の説明に窮した。

さらに、ヨハネス・ケプラーが惑星の運動は楕円運動であること(ケプラーの法則)を発見する。ケプラーの説は天動説やそれ以前の地動説モデルよりも遥かにシンプルに天体運行を説明でき、しかもケプラーの法則に基づくルドルフ表(天文表)の正確さが誰の目にも明らかになり議論は収束に向かった。恒星の年周視差が未だ観測できないという地動説モデルの弱点は、この大発見の前には些事でしかなかった。

ニュートンは、ケプラーの法則を支持する慣性の概念を始めとした運動の法則、および万有引力の法則という普遍的な法則を導きだした。これらの法則は天動説をとるにせよ地動説をとるにせよ大きな謎であった天体運動の原動力及び月が飛ばされない理由に回答を与えた。さらに、惑星に限らず、石ころから恒星まで、宇宙のあらゆる物体の運動をほぼ完全に予測・説明できる手段となった。これらの圧倒的な功績によって、地球中心説としての天動説は完全に過去のものとなった。

最終更新:2017年07月11日 18:25