天文学とキリスト教

この項目では、地動説が提唱される前の天文学とキリスト教徒の関連について解説する。

天文学とキリスト教の融合

元来、キリスト教は天文学と折り合いが悪かった。
5世紀の聖アウグスティヌスは次のように述べている。
球状の天が宇宙の中心にある地球を取り囲んでいようと、地球のどこかにひっかかっていようと、私にとって何の関わりがあろうか。
そして、教父たちの多くも同じ考えであった。

しかし、13世紀の神学者トマス・アクィナスは、当時折り合いの悪かったキリスト教とアリストテレス哲学を調和させ、スコラ哲学を完成させた。

その成果を基にして、天動説的宇宙観をキリスト教に取り入れた作品が、かの有名なダンテの『神曲』である。

ダンテの『神曲』では、地獄の大淵と煉獄山の存在する地球を中心として、同心円状に各遊星が取り巻くプトレマイオスの天動説宇宙観に基づき、ダンテは、天国界の十天を構想した。地球の周りをめぐる太陽天や木星天などの諸遊星天(当時、太陽も遊星の一つとして考えられていた)の上には、十二宮の存する恒星天と、万物を動かす力の根源である原動天があり、さらにその上には神の坐す至高天が存在する。

天国界の構造は以下のように考えられた。
  • 火焔天 - 地球と月の間にある火の本源。焔が上へ上へと向かうのは、この天へ帰らんとするためと考えられた。
  • 第一天 月天 - 天国の最下層で、生前、神への請願を必ずしも満たしきれなかった者が置かれる。
  • 第二天 水星天 - 徳功を積みはしたものの、現世的な野心や名声の執着を断ち切れなかった者が置かれる。
  • 第三天 金星天 - まだ生命あった頃、激しい愛の情熱に駆られた者が置かれる。
  • 第四天 太陽天 - 聖トマス・アクィナスら智恵深き魂が置かれる。
  • 第五天 火星天 - ダンテの先祖カッチャグイダをはじめとする、キリスト教を護るために戦った戦士たちが置かれる。
  • 第六天 木星天 - 地上にあって大いなる名声を得た正義ある統治者の魂が置かれる。
  • 第七天 土星天 - 信仰ひとすじに生きた清廉な魂が置かれる。
  • 第八天 恒星天 - 七つの遊星の天球を内包し、十二宮が置かれている天。聖ペトロら諸聖人が列する。
  • 第九天 原動天 - 諸天の一切を動かす根源となる天。
  • 第十天 至高天 - エンピレオ。諸天使、諸聖人が「天上の薔薇」に集い、ダンテは永遠なる存在を前にして刹那、見神の域に達する。


そして、トマス・アクィナスやダンテによって天文学がキリスト教に取り入れられると、占星術もやがてキリスト教に受容され始めた。

占星術の歴史

そもそも、トマス・アクィナスの時代では、天文学と占星術は不可分な存在だった。そこで占星術の歴史からキリスト教により受容されるまでを以下で見ていく。

占星術の始まり

今日の占星術のもとになった、いわば「プロト占星術」は、チグリス川とユーフラテス川の間のメソポタミア南部にその起源があると考えられている。そのはじまりのはっきりとした時期は不明だが、紀元前2000年より前には、すでに星を神々の意志を知るためのオーメン(予兆)としてみなす、ごく初歩的な形の占いが行われていたようである。

オーメンの記録の集大成として知られているものとして、ニネヴァのアッシュールバニパル王の古文書館で見つかった『エヌマ・アヌ・エンリル』がある。紀元前7世紀に刻まれたこの最も初期のオーメンのコレクションは、7000以上のオーメンと天の観察が記された70の粘土板から構成されたものである。

バビロニアの天文学では、今日のいわゆる「12星座」のもとになるものの基礎が作られた。前10数世紀頃の天文知識をまとめたものとして知られている記録MUL.APINでは、今日の黄道に当たるものが、並行して走る三つの帯(赤道帯より北の周極星、赤道帯、赤道帯より南)によって表わされ、それぞれエンリル、アヌ、エアといった神々の通り道だと考えられていた。また、それらには18のサインが位置づけられていた。18のサインが、わたしたちの知っている黄道を等分した12サインとなったのは、前5世紀末頃からだと考えられている。その最も早い記録として知られているのは、前419年の粘土板である。

ヘレニズム占星術

ペルシャ戦争後の前5世紀には、バビロニアとギリシャの間の接触は盛んになった。しかしながら、バビロニアのプロト占星術をベースとして、より本格的なギリシャの占星術がはじまったのは、おそらく早くても前3世紀以降ではないかと考えられている。

前330年頃、アレキサンダー大王がギリシャを統一し、エジプト、メソポタミア、ペルシャを含む近隣の地域を征服しました。それによってシンクレティズムが起こり、いわゆるヘレニズム文化の時代がはじまった。

その中心地となったのは、ギリシャの植民地であるエジプトのアレクサンドリアである。そしてこのアレクサンドリアこそ、プロト占星術から、現代の占星術のルーツとも言うべきヘレニズム占星術を生み出す場所となった。

対して、当時のギリシャの思想――エンペドクレスのエレメンツ、ピュタゴラス主義者の数のシンボリズム、プラトンによる惑星の神性、アリストテレスの地球中心のコスモロジー、ストア派の宿命論、及び共感の原理、さらにはエジプトとギリシャ思想の融合とも言うべきヘルメス、あるいはグノーシス派の魔術的=宗教的コスモロジーなどのさまざまな影響が加わり発達していったのではないかと考えられている。そして少なくとも前1世紀頃までには、惑星、サイン、ハウスといった現代の占星術の基本的な要素をもとにしたホロスコープ占星術が確立されている。

イエスの誕生と占星術師

イエスが生まれた時、東方の三博士は占星術を元にイエスの生誕を予想したことが書かれている。(マタイ2:1-2)
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者(マギ、東方の博士)たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

東方の三博士だけでなく、ヘロデ王もまた占星術の学者に確認させている。(マタイ2:7)
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

ただし、次の記述が天文学的に理解不能である。(マタイ2:9)
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
これは文字通りには解釈できないので、東方からみて西方に見える位置に輝いていた、という意味だと解釈される。

これは現在ベツレヘムの星と呼ばれている。なお、この時代に占星術が発達していたのはバビロンであったことから、この東方の三博士らはバビロンからやってきたと考えられている。

衰退期

コンスタンティヌス帝(在位306-337)が、312年にキリスト教に改宗してから、ローマ帝国はキリスト教化していき、そしてその後、キリスト教が公認の宗教となり、その権力が確立されると、イエスの誕生は占星術師によって予測されたにもかかわらず、今度は教会による反占星術的な態度が強まっていく。

テルトゥリアヌス(160-220)やオリゲネス(182-251)といった初期のキリスト教父たち、そしてなんといっても聖アウグスティヌス(354-530)による占星術への攻撃は、その後の教会のアンチ占星術の典型的な態度を形作っていった。

教会が占星術を攻撃した理由としては、人間の自由意志を占星術の宿命論的な考え方が脅かすという思想上の問題があった。しかしそれだけではなく別の大きな要因として、当時の教会にとって大きな脅威となっていた異教、あるいは異端的なセクトと占星術が結びつけて考えられたということがある。実際、当時の占星術に対する厳しい非難は、しばしばグノーシス主義やマニ教などへの攻撃とセットになっていた。そしてその結果、占星術師は厳しい非難を浴びせられるようになっていった。

ルネサンス復興期

11世紀後半から13世紀半ばにかけて、ヨーロッパの学者の手によってアラビア語、及びギリシャ語の占星術の多くの著作が、天文学、医学、数学、哲学などの他の諸学問とともにラテン語へと翻訳された。

長らく失われていた古代ギリシャの学問を復興しようとする知的潮流が続く16世紀までは、占星術の威信は揺らぐことなく大きく繁栄した。キリスト教からの占星術に対する反対がなかったわけではないが、それは占星術がその教義を脅かすと考えられる場合に限られた。

たとえば、偉大なスコラ学者トマス・アクィナス(1225-1274頃)は、キリスト教の神学と和解させることが可能な範囲の占星術を認めていた。アクィナスは、占星術を天の星が地上の事物へ物理的な影響を与えるという意味での「自然占星術」と、個人の運勢を判断する意味での「判断占星術」とに分け、前者を肯定し後者を否定するという考えを見せた。

こういった考えはアクィナスに限ったことではなかった。占星術の理論や細かなルールなどの矛盾を指摘し、それを激しく攻撃する学者でさえ、「星の地上への影響」という「自然占星術」的な考えを完全に否定することはなかった。実際に15世紀後半にジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ(1463-94)によって書かれた最も重大な占星術批判の書『予言占星術論駁(Disputationes adversus astrologiam divinatricem)』ですら、「自然占星術」的なものにはほとんど触れることはなく、その徹底的な攻撃の矛先は、あらゆる種類の「判断占星術」的なものへと向けられていた。

第二衰退期(地動説提唱後)

16世紀から18世紀に向かって、コペルニクス(1473-1543)を代表とする科学者たちによる諸発見、及び新たな宇宙観は、占星術を支えていた宇宙像(すなわち、地球を中心として宇宙を考えるアリストテレス的な宇宙モデル)を、もはや認めることのできない古い誤ったものとして葬り去ることになっていった。この経緯については天動説と地動説を参照されたい。

そもそも占星術の理論体系はいかなるものであれ、アリストテレス的な宇宙モデルを前提としたものであった。したがって占星術も、もはやその時代には通用しない過去の遺物として知識人たちの間では、省みられることがなくなっていかざるを得なくなった。

しかしながら、この時代においても占星術や神秘思想は強く支持されていた。
例えば、ガリレオはホロスコープを作っていたし、ティコが天体観測を行ったのもホロスコープの制度を高めるためである。
ケプラーの時代には天動説が一般的となっていたが、ケプラーはプロテスタントとして終生キリスト教信仰を持ち続け、それを神秘思想と結び付けた。ケプラーはまだ若いころ、地動説をキリスト教の三位一体説と結び付けて、中心の太陽に「父なる神」を、惑星を動かす天球に「キリスト」を、天球の間を満たしている空間に「聖霊」を当てはめている。また、ケプラーは太陽系の惑星の軌道と正多面体に関連性を見出した時、神の栄光を帰すことができたとして次のように書いている。
私は、これを発表しようと思います。自然という書物の中において認められることを望みたもう神の栄光のために。・・・私は、神学者になるつもりでした。私の心は、長い間落ち着きませんでした。しかし、今こそ天文学においても、神に栄光を帰すことができたのです。
さらに、ケプラーは、天体の軌道が完全5度(2:3)の音程を奏でているという音楽論から、「ケプラーの第三法則」(公転周期の2乗は平均半径の3乗に比例する)を見いだした。

第二復興期(近代科学以降)

19世紀末になり、近代オカルティズムの潮流の中で、特に「神智学」の形而上的な宇宙観という新たな後ろ盾を得ることで、占星術はこれまでとは異なる「秘教的」な衣装を身につけ、やがて新たな次元を切り開いていくことになった。

最終更新:2017年07月20日 23:13