キリスト教と同性愛

キリスト教の影響を受けた欧米諸国では伝統的に、同性愛は性的逸脱であり、宗教上の罪(sin)としてきた。一方、近年の医学の発達により、同性愛も異性愛と同様に生まれつきの性的指向であり、不当な扱いをされるべきではないとの認識が広まっている。

まず、今回の項目を書くにあたり、当サイトが「聖書無謬説」を採用していないことを宣言する。聖書は人による神の記録であり、聖書自体は神ではないからである。

旧約時代の律法における同性愛(男色)の禁止

旧約聖書では、創世記のソドムとゴモラの逸話において、神が同性愛(正確には男色)を理由に、ソドムとゴモラを滅ぼしたとされている。

ソドムとゴモラの破滅の経緯は、創世記18:20-21にかかれている。
主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
その故に滅ぼすと、二人の御使いは言っている。創世記19:12-13より。
二人の客(二人の御使い)はロトに言った。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」
これについての明確な説明はないが、創世記19:4-9の記述から、男色などの姓の乱れが原因とされる。
彼ら(二人の御使い)がまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」男たちは口々に言った。「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。

そして、後に神による律法としてまとめられたレビ記18:22に次の記載がみられる。
女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。

このように、主は同性愛(正確には男色)を罪だとしていると解釈されてきた。

しかし、ここで留意すべき点が二つある。

一つ目は、ソドムとゴモラについては、レビ記の記載と合わせ、伝統的には「同性愛がはびこったゆえに滅ぼされた」とされてきたが、実際には天使にも性交渉を迫ろうとするほどの乱交や、エゼキエル書で示されているような高慢さを原因だと解釈するのが自然である。

エゼキエル16:46-50
お前〔エルサレム〕の姉はサマリアであり、彼女とその娘たちはお前の北に住んでいる。また、お前の南に住んでいるお前の妹はソドムとその娘たちである。お前は彼女たちの道を歩んで、忌まわしいことを行ったばかりでなく、やがて、すべての道において、彼女たちよりもいっそう堕落した。
わたしは生きている、
と主なる神は言われる。
お前の妹であるソドムも、その娘たちも、お前とお前の娘たちが行ったようなことはしなかった。お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである。

二つ目は、レビ記において否定されているのは「男性同士の性交渉」のみであり、同性愛そのものが否定されているわけではないことである。


それに加え、そもそも律法は旧約の時代にのみ有効とされるものだという点も問題となる。

新約の時代の律法

ユダヤ人に対して宣教をしていたグループが書いたとされるマタイ福音書には、確かに新約の時代であっても律法は守らねばならないという趣旨のことが書かれている。(マタイ5:17)
(イエスは言った。)「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

しかしながら、イエスは律法を文字通り守らなければならないとは言っていない。
たとえば、律法では安息日には仕事をしてはならない、と書かれている。(レビ記23:3)
六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である。

安息日規定については律法だけではなく、最も重要な戒律である十戒にすら書かれている。(出エジプト20:8-11)
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

しかし、安息日の労働の逸話でもわかるように、イエスは律法至上主義に見られるような形式主義を批判しており、律法は人のためにあるのであって、人を批難する道具としてあるわけではないことをはっきり明言している。

パウロの見解

このような経緯を組んだのか、異邦人にたいして宣教をしていたパウロは、「ローマの信徒への手紙」の中で、律法は旧い契約であって、新約の時代に守る必要はないことが宣言されている。(ローマ10:4)
キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。

このことから、イエスによる神との新しい契約により律法は終わらされたため、ユダヤ教の者はともかくとして、イエスを信じる異邦人(この場合ユダヤ人以外を指す)は、律法を守る必要はないということがわかる。

パウロの考える同性愛

パウロは、以下の二つの書簡において、同性愛について語っている。
一つは、ローマ1:20-28にある。
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼ら(不義によって真理の働きを妨げる人間)には弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
ここではパウロは明らかに、「神を信じない」ことと「自然の関係でない情欲を行うこと」とを混同していることがわかる。すなわち、「神を信じるものによる同性愛」という観点が存在していないのである。では何をその根拠としているのか。

このことは、1コリント6:9-10でよりはっきりとする。
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼(μαλακοὶ)、男色をする者(ἀρσενοκοῖται)、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。

※μαλακοὶ(malakoi)(pl.)とはμαλακός(malakos)(sg.)の複数形であり、「男娼」の意味。
※ἀρσενοκοῖται(arsenokoitai)(pl.)とはἀρσενοκοίτης(arsenokoites)(sg.)の複数形であり、「他の男性たちと性行為に励む男」の意味。

この箇所をイエスの言葉と比較してみる。

マタイ15:17-20
すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。

イエスが語る「人を汚すもの」と、パウロが語る「正しくない者」の対応は具体的には次の通りである。
イエス パウロ
「人を汚すもの」 「正しくない者
悪口 人を悪く言う者
姦淫 姦通する者・みだらな者
みだらな行い みだらな者・男娼・男色をする者
盗み 泥棒・人の物を奪う者
悪意 なし?
殺意 なし?
偽証 なし?
なし 偶像を礼拝するもの、強欲な者、酒におぼれる者

これを見ると、イエスが語ったはずの「悪意」と「殺意」と「偽証」については触れられておらず、代わりに「姦淫」や「みだらな行い」の内容ばかりが占めることがわかる。パウロの時代は福音書はまだ無く、イエスの言行録のようなものはあったかもしれないが、いずれにしてもイエスの説教は人づてにしか聞いていないため、そもそも細かい内容は知らなかった可能性はある。しかしながら、悪意や殺意や偽証に関する内容が一つもないにもかかわらず「みだらな行い」だけが三項目にも分かれているのは、パウロが性に関する問題ばかりを重視していたということを暗に示しているだけである。

また、なぜ「男色をする者」が「みだらな行い」であるのかの根拠は不明である。パウロがそう思ったということ以上の根拠はない。「自然の関係でない」から、「恥ずべき情欲」だから、という主観のみによって説明しているのであり、何ら神学的な根拠に基づいていないため、「なぜ自然でないのか」「何を以て自然であるのか」「何をもって恥ずべきなのか」という説明は皆無である。パウロは神ではないため、神学上の根拠なしに「パウロが否定するから認められない」という帰結にはなりえない。

そもそも、ここでパウロが指摘しているのはいわゆる「神殿男娼婦の腐敗」であり、「同性愛一般への否定」ではないという意見も存在する。

なお、福音書には、イエスが同性愛を否定したとする記述は見られない。

パウロの言葉は必ずしも正しくない

また、パウロが非常に男尊女卑的な思想を持っていたことも知られている。(1コリント11:3)
ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。

それどころか、女性には発言権すらないと述べている。(1コリント14:34-35)
婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。
イエスが律法を終わらせたと言っておきながら、まったく矛盾した発言である。この時点でパウロの言葉の正当性はかなり疑わしいものとなる。なぜなら彼は、律法の都合の悪い箇所は守る必要がないが、(彼にとって)都合のよい箇所は守れと言っているからである。

しかしながら、イエスは男女を差別するかのような発言は一切ない。特に、外典「トマスによる福音書」には次のようなアグラファが載っている。(トマス114)
シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハム(マグダラのマリア)は私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである。」イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るだろうから」
外典ではあるものの、近年の研究から、イエスの言葉を実際に記述した可能性が高く指摘されている福音書であり、イエスが男女平等を訴えていた強い根拠となるだろう。このことからも、性に関するパウロの言葉の正当性というものは極めて疑わしいものである。

字義的には異性愛もよくない

そもそもキリスト教では、異性愛自体がよくないことであるとされている。
以下に例を示す。

マタイ5:29-31
(イエスは言った。)「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲(エピスミア)をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。」
※エピスミアとは、ギリシャ語で「恋愛で相手に会いたいという感情」を意味する。

マタイ19:12
(イエスは言った。)「天の国のために自らを去勢する者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
※ローマ教皇が童貞に限られるのはこれが理由である。

これを字義的に読むと、異性愛も本来よくないものであり、去勢した方がよいという意味にさえなってしまう。

また、イエスの弟子ヨハネ、もしくはその影響を強く受けた「ヨハネ教団」の作によるとされるヨハネの手紙一には、次のような記載さえある。(一ヨハネ2:15-17)
世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。

つまり、あらゆる俗世的な情愛の全てが本来はよくないということになる。同性愛だけを恥ずべき情愛だと訴えるパウロによる手紙の内容は、イエスの教えを正確には反映していないことがはっきりわかる。

ダビデとヨナタン

ところで、男性同士の性交渉を禁じている旧約聖書には、後に王となるダビデと、サウル王の息子ヨナタンに関する逸話が書かれている。

サムエル記上18:1-4
ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。

その後、ヨナタンはサウロ王がダビデを殺そうとするたびに、ダビデを逃がすために手助けをした。

ヨナタンが戦いによって亡くなった時、ダビデは次の様に言っている。

サムエル記下1:25-26
ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた。
ヨナタンはイスラエルの高い丘で刺し殺された。
あなたを思ってわたしは悲しむ
兄弟ヨナタンよ、まことの喜び
女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。

こういった記述から、ダビデとヨナタンの間にあった愛は、わざわざ「女の愛」という表現を用いていることからも、単なる友情を超えた愛、すなわち同性愛関係であると解釈される場合もある。
旧約聖書の記述では、性交渉を含めた同性愛行為が認められるということはないが、ダビデとヨナタンの例が好意的に聖書で取り上げられていることからわかるように、神の目で見てプラトニックな同性愛は必ずしも否定されていない。

神の判断に委ねる

したがって、次の結論が導かれる。
  • ソドムとゴモラが滅びた理由が高慢さであることの根拠はあるが、同性愛が理由であるとの根拠はない。
  • 律法では「性交渉を伴わない男性同士の同性愛」も「性交渉の有無を問わない女性同士の同性愛」も否定されていない。
  • ダビデとヨナタンのように、男性同士の強いプラトニックな愛が認められる場合がある。
  • 新約聖書では、律法の形式主義はイエスにより破棄されており、律法を根拠に「男性同士の性交渉」を常に否定することはできない。
  • 新約聖書では、そもそも異性愛・同性愛を問わず、肉欲自体が肯定されていない。
  • 複合的な理由から、パウロによる男性同士の同性愛の否定は根拠にならない。

このことから「同性愛である」という理由で罪になるとは言えず、それが許されうるモラルに適った関係か否かの判断につながるのである。その意味で、罪にならない行いを心がけ、その判断は神に委ねるのが正しいと言える。
最終更新:2019年05月22日 22:10
添付ファイル