メシャ碑文

メシャ碑文(19世紀には「モアブ碑」として知られた)は黒い玄武岩の石碑で、紀元前9世紀のモアブのメシャ王によって作成され、1868年に発見された。34行から成るこの碑文は、古ヘブライ文字で記述されたものとしては、古代イスラエルから回収されたもののうち最大のものである。それはメシャによって、紀元前850年ごろ、彼のイスラエルに対する反乱における勝利とモアブの独立を記録し記念するものとして、彼の元主君であったアハブの死後に作成された。

石は、高さ124cm、幅71cmで厚みもあり、上部は丸くなっている。それは古代のディボン、現在のヨルダンのマダバ県ディバン(英語版)において、1868年8月にエルサレムのイギリス人宣教師、フレデリック・オーガスタス・クラインによって発見された。しかし翌年、所有権をめぐる争いで、地元住民によって石碑は破壊されてしまった。しかしながら、シャルル・シモン・クレルモン=ガノーによって破片の多くは回収され、また既に得られていた拓本によって欠損部を補って碑文は復元された。拓本(未公開)及び復元された石碑(多くの出版物や百科事典で公表されている)は、現在ルーヴル美術館に存在する。

碑文の記述

  • 著者がメシュであると述べられている。
  • イスラエル王オムリによってモアブが虐げられていた。
  • 神ケモシュの怒りの故に、メシャはオムリの息子に挑み、イスラエルは敗北した。
  • イスラエルの支配していたガドのアタロト、ネボ、ヤハツの人々を殲滅し、奪還した。
  • 彼の公共事業。要衝の地にある要塞を修復し、宮殿と貯水池を造営する。
  • 彼のホロナイムに対する戦争。(詳細は失われている)
本文はwikipediaの「メシャ碑文」を参照されたい。

この日文は、列王記下3:4-27を証明するものとされる。
モアブの王メシャは羊を飼育しており、十万匹の小羊と雄羊十万匹分の羊毛とを貢ぎ物としてイスラエルの王に納めていた。しかし、アハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に反旗を翻した。ヨラム王は直ちにサマリアを出て、イスラエルのすべての人々を動員し、出発した。(略)モアブの人々は皆、王たちが攻め上って来たことを聞いた。剣を帯びる年齢に達した者がすべて召集され、国境の守備に就いた。彼らが翌朝早く起きると、太陽が水面を照らしていた。モアブの人々は目の前に血のように赤い水を見た。彼らは、「これは血だ。王たちは自分たちどうしで争い、討ち合ったにちがいない。モアブよ、今こそ奪うときだ」と言い、イスラエルの陣営に突入したが、イスラエルは立ち上がってモアブを迎え撃ち、モアブは敗走した。イスラエルは彼らに襲いかかり、モアブを討った。彼らは町を破壊し、すべての肥沃な耕地を皆がそれぞれ投げ込んだ石で満たし、すべての泉をふさぎ、すべての有用な木を切り倒した。残ったのは、キル・ハレセトの石だけであった。それも投石器を持つ者に囲まれ、攻撃された。モアブの王は戦いが自分の力の及ばないものになってきたのを見て、剣を携えた兵七百人を引き連れ、エドムの王に向かって突進しようとしたが、果たせなかった。そこで彼は、自分に代わって王となるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた。イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルはそこを引き揚げて自分の国に帰った。

しかしながら、それらに対する大きな意見の相違もある。
  • 聖書ではモアブを征服したのはオムリの子アハブであり、反乱はアハブの子ヨラムに対するものである。しかしメシャ碑文では、モアブを征服したのはオムリ本人であり、反乱はオムリの子に対するものである。
  • 聖書では、主がヨラムに勝利を与えるが、メシャ碑文では、メシャが主(YHWH)の祭器をケモシュに捧げたことでケモシュがメシャに勝利を与える
  • 列王記によれば、メシャが自分の息子を(神への)生贄とし、それを見て動揺したイスラエルが撤退したことになるが、メシャ碑文には詳細な記述はなく、メシャは神ケモシュによって土地を取り戻したことになる。
最終更新:2016年09月21日 11:21