考古学的推察

イスラエル人の出自

ヨルダン川東岸の山岳地帯からカナン地方に進出してきたイスラエル人達の出自は不明である。
イスラエル人たちが始祖とするアブラハムは、旧約聖書によれば「カルデアのウル」からカナンの地へ移住してきたことになっている。この「カルデアのウル」を南部メソポタミアのウルとするのはレオナード・ウーリーによって始められてから考古学者や歴史学者に支持されてきたものの、バビロニアからの移住は考えにくくメソポタミア北西部からの移住だとする見方もある。

彼らの出自としてはこの他にも、カナン諸都市の周辺部に居た半遊牧民達が山地に逃れて定住したとする説、カナンの諸都市の奴隷や下層民が都市を逃れて定住したとする説、アラム地方から移住してきたとする説など様々である。おそらくは多様な出自を持つ人々であり、この中からヤハウェ神信仰を共有する部族がまとまってイスラエル部族連合が形成されたのであろうと考えられている。また、イスラエルという語源はヘブライ語で「秘密+神」を意味し、前1200年前後のエジプト文書においてエジプトに属する一地方の民とされていることから、イスラエル人はエジプト人の一部で、移住後もエジプトであり、民族としての共同体はあっても国家はなかったとする説もある。

3代の族長

旧約聖書の「創世記」には、アブラハムの子のイサク、イサクの子ヤコブが後の古代イスラエル人の祖先であるとしている(ヤコブの別名がイスラエル)。しかし、この3代の族長は、元々は別の部族が保持していた族長伝説が合わせられたと考えられている。アブラハムとイサクの記述には圧倒的に南部ユダ地方に置かれた聖所との関わりが記されているし、ヤコブの記述にはサマリア地方やヨルダン川東岸の聖所が言及されていることから、アブラハムとイサクが南部のユダヤ系、ヤコブが北部やヨルダン川東岸系の部族の族長であったことが推測されるのである。イスラエル部族連合がその結びつきを強固にして、祭祀・伝承・神話を共有していく中で三代の族長の物語が形成されていったのだろうと考えられる。

出エジプト

旧約聖書の中でも大事件として扱われるのが、モーセのエジプト脱走である。それによれば、ヤコブの子のヨセフの時代にイスラエル人はエジプトに移住し、エジプト王の厚遇を得て栄えたが、王朝が代わって迫害が始まり、イスラエル人たちはモーセに率いられてエジプトを脱走し、40年間荒野を放浪して約束の地であるカナンに辿りついたというものである。この放浪中のシナイ山でイスラエル人たちは神と契約を結んで十戒を授かるなど、ユダヤ教の中でも極めて重要なエピソードであり、仮庵の祭りなどの形で現代のユダヤ教にも継承されている伝承である。

旧来の解釈によれば、イスラエル人たちを厚遇した王朝は紀元前1730年頃から紀元前1580年のヒクソス(よその土地の王の意)であり、ユダヤ人を迫害したのはイアフメス1世が建国した第18王朝、モーセのエジプト脱走は諸説あるものの、前13世紀の第19王朝ラムセス2世(在位前1279-1213)の時代である。しかし、文書資料が豊富なエジプト側には一切の記録が無いことから、旧約聖書にあるような壮年男子だけで60万人という大規模な脱走事件が起きた(出エジプト12:37、民数記1:46)という訳ではなく、ごく少数者の脱走事件であったのだろうと推定する学者もいる。

しかしながら、エジプトとユダヤ人との間に関連があった可能性は指摘されている。

古代オリエントで、「強固な抽象的一神教神学」は、ユダヤ人のものと、エジプトのアクエンアテンの唱えたアテン信仰の二つしか知られていない。アクエンアテンの方は歴史的に確実であり、「出エジプト記」の主張する年代は、アクエンアテンの敗北と、アマルナ革命の失敗の時期とほぼ重なっている。また、アテン賛歌がアマルナに残っているが、この讃歌と、『旧約聖書・詩篇』のなかの或る種の古い讃歌(104章)は、様式がそっくりである。ユダヤ人のヤハウェ讃歌を、アクエンアテンが採用したとは考え難く、反対に、ユダヤ人がアテン讃歌を取り入れたと考えるのが自然である。文学作品の様式的な一致はかなり強固な証拠であり、また、年代的に、事件のできごと経過からして、ユダヤ人の一部がかつてエジプトにいたことがあり、アクエンアテンのアテン一神教神学の影響を受けたということは、ほぼ考古学的事実として認められる。

また、最近の研究ではモーセとはヘブライ系ではなくエジプト系の人名であり、「これは、古代の架空の人物の命名法としてはうまくできすぎている。それゆえ、エジプトを脱出したグループの指導者にこの名の人物がいたと言うことは、歴史的にも十分ありうることと考えられる。」

シナイ山の伝承

前述のイスラエル部族連合の中に「カリスマ的指導者に率いられてエジプトから脱出してきた」という伝承をもつ部族があって、その伝承が部族連合全体に広がって共有されていったのだろう。さらにエジプト脱出の伝承に、シナイ山における神の顕現に関する伝承が結び付けられて、シナイ山での契約の物語が成立したものと考えられている。

このシナイ山は今日、シナイ半島南部のジュベル・ムーサ(「モーセの山」、標高2244メートル)とされているが、これは紀元4世紀以降にそう看做されるようになっただけであり根拠は無い

カナン侵攻

前14世紀頃には「アピル」と呼ばれる集団がパレスチナ(カナン)で略奪行動を行っていたことがエジプトの文書で確認できる。このアピルは、シリアやメソポタミアの文書では「ハピル」ないしは「ハビル」とも呼ばれており、民族名を指すのではなく、奴隷や傭兵にもなった非土着系のアウトロー的な社会階層を指す言葉である。多くの学者がこのアピルとその後のヘブライ人(エジプト語でイブリー)のカナン進出に何らかの関係があったと考えている。

イスラエル人については前述のように、紀元前12世紀頃からイスラエル人たちは山岳地帯からカナン地方に進出した。これを描いたのが旧約聖書のヨシュア記と士師記である。この進出が敵対的侵攻だったのか平和的な定住だったのかについては諸説あるが、預言者的かつ軍事的指導者である「士師」が相次いで現れてイスラエル人全体を導いたとする旧約聖書の記述などからは敵対的侵攻が多く含まれていたことは確かである。ただし、旧約聖書の描く士師は、神の意志を伝えるシャーマン的な女性、特定地域で住民同士の様々な問題の仲裁に当たった小士師、一部部族の軍事的指導者たる大士師など様々である。旧約聖書の編纂期に、これらの人々が「イスラエル全体を裁き導くカリスマ的軍事指導者」の系列としてまとめられたとみる必要がある。

紀元前1200年頃というのは丁度「海の民」が南西の海岸平野からシリアやカナン地方に侵入してきた頃であり、それを代表するのが旧約聖書にイスラエル人のライバルとして登場するペリシテ人である。イスラエル人はこれと同時期に山岳地域からカナン地方に進出してきてペリシテ人と衝突を繰り返した。最近の考古学調査では、ガリラヤ山地、中央山岳地帯、南部ユダヤのネゲブ北部などに前1200年頃から居住地域が急増し、西部に勢力を広げていったことが確認されている。この動きの中にイスラエル人たちの部族が含まれていたことは間違いが無い。

エリコの考古学史

カナン侵攻の中でも、エリコの戦いは最も印象的な場面である。エリコは死海の北西部にある町であり、古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。世界最古の町と評されることもある。そのことから、考古学的な検証が続けられてきた。

その結果が以下の年表である。

  • 初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万年前~前9000年前まで遡る。テルは丘を意味するアラビア語で、人間の長期にわたる営みの積み重ねによって形成されたものと考えられている。丘の規模は南北350m・東西150m・高さ2.5mである。紀元前9000年頃の痕跡ではまだ住居跡はまだ現れないが、ナトゥフ期(Natufian)の石器・骨器や、祭壇と思われる基壇が現れた。
  • ナトゥフ期の次にケニヨンが「原新石器」と呼んだ時代を経て、「先土器新石器A」(Pre-Pottery Neolithic A)と呼ばれる層(前8350年頃~前7370年頃)からは、広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落が形成された。この壁の1面には高さ8.5mの石の塔も建てられた。この町は前7370年頃に放棄され、それまでとは異なる文化をもつ人々がエリコに定住した。
  • 先土器新石器B(Pre-Pottery Neolithic B)と呼ばれる層は、前7220年頃から前5850年頃まで続く。これは前5850年頃に放棄され、しばらく無人の町となった。
  • 前3300年頃には周壁を備えた都市が形成される。前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となる。
  • 前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大し、さらに外側により高い周壁が建設された。前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となった。ヨシュア記に記されたヨシュアによる破壊が史実に基づくものならば、この頃の話ではないかという推測もある。ヨシュア記では、預言者ヨシュアが人々に命じて一斉に吹かせたラッパの音により、エリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている。
  • 前1550年頃~前1150年頃には、古代エジプトの圧迫を受けた。
  • ヘレニズム時代から『新約聖書』の時代になると、トゥルール・アブー・エル・アラーイクに町が形成された。

王政の成立

しかし部族ごとの軍事行動は効率が悪く、周辺民族のようにイスラエルも王制化に踏み切って成功する。ことにダビデは政治力を発揮して、南部部族と北部部族の中間に近いエルサレムに首都をおいた。エルサレムは元来モアブ人の都市であり、どの部族の聖所とも無縁だったので中立政策を立てやすかったのである。さらにダビデはヤーウェ宗教の統合の象徴ともいえる「契約の箱」をエルサレムに運んで安置し、エルサレムをヤーウェ宗教の中心地にした。さらにソロモン王は神殿を造営してそれを確固たるものとした。

カナンの地は交通の要衝を占めていたので、ダビデ・ソロモン王朝は交易で富を得たと考えられている。しかし、旧約聖書で繰り返し描かれるソロモンの栄華も、当時の外国の資料で言及しているものは発見されていない。
カナンへの定住と、首都エルサレムの建設は、イスラエル人の文化に大きな変化をもたらしたと考えられる。都市の生活と周辺の地中海文明との接触は、知識階層を生み出し様々な文書が書かれる事になった。旧約聖書に収められた箴言やコヘレトの言葉などの知恵文学の成立にしても、神話や伝承、歴史の編纂、詩篇や雅歌の編纂が始まったのも、都市文化の成立が背景にある。

しかしながら、イスラエル人の神は元来「奴隷の家から解放する神」であり、人間が人間を支配することを認めない神であった。また、モーセの律法はもともと半遊牧生活を前提としたものである。そこに持ち込まれた王政と都市生活はヤーウェの宗教に緊張関係をもたらした。この時代以降、預言者が現れてその時代ごとの王の政治を批判するというパターンが繰り返されることになる。

バール信仰やエル信仰

ダビデ・ソロモン王朝は繁栄を極めるが、小作農と地主・貴族階級との分離が進み社会矛盾が噴出するようになった。また、周辺国家との軋轢は継続し、外患は絶えなかった。そのような中で、預言者たちが現れて民に代わって王たちの政治を批判するようになる。また、預言者たちは、カナン土着信仰が持ち込まれることでヤーウェの宗教が冒涜されているとして、鋭い警告を発するようになる。

カナンの土着信仰とは男神バール信仰、女神アシェラ信仰であったり、エル信仰などであるが、これらは農作物の豊穣を約束する神であり、定住して農業と交易で生活するようになったイスラエル人にとっては、ごく自然な混宗であったろうと想像される。イスラエル部族神としてのヤーウェは戦いの神としての性格が強く、豊穣を約束する神では無かったからである。しかし、預言者たちはそうした混宗を認めず、ヤーウェ信仰の純化を厳しく王と民衆に求めた。

預言者たちの活躍にもかかわらず、ユダヤ・イスラエル人たちは苦渋の歴史を歩むことになる。紀元前721年に北イスラエル王国はアッシリアに攻められて滅び、紀元前586年に南ユダ王国はバビロンに征服され、捕囚とされる。そのような苦難の中で、救済史観が形成されて行くことになる。すなわち、イスラエル民族の苦難は神との契約を裏切った結果であり、人々が神との契約に立ち戻ることによってイスラエル民族は救われるとする。

「悪魔」の成立

もともとイスラエル人は、この世にある善も悪もすべて神から発するものであるという一元論的な立場を取っていた。これはヨブ記の記述からもわかることである。しかし、バビロン捕囚を通して、善悪二元論であったゾロアスター教の影響を強く受け、善を行い施す神から悪の部分が独立し、神に対抗する悪魔という存在が成立したのである。


最終更新:2018年02月09日 16:53