メソポタミアの洪水

メソポタミアの人々が体験した「大洪水」の記録は、「ウーリーの穴」とか「大洪水の穴」とか呼ばれる発掘穴で考古学的に証明されている。この穴は、1929年から30年にかけて、ウルの都を発掘していたチャールズ・レオナルド・ウーリー(Charles Leonard Woolley)によって掘られたものだ。

この2m四方の竪穴、ウルの町に「最初に人が住み始めて」から「現在」までの歴史の辿れる深い穴が、「ウーリーの穴」、「大洪水の穴」と呼ばれているものだ。


※図中で「起源の島」と呼ばれているのは、人がその地に住み始めた最初の時点で存在した地表(人が手を触れていないという意味で「処女地」)。そこから堆積物が溜まって現在の地表が作られている。

人の暮らした文明の痕跡を中断させている分厚い粘土層は大洪水の跡。その厚さは最大で3.5mにも達する。ウルの町は過去に少なくとも2度の洪水を受けており、最高水位は8m、メソポタミア流域の、長さ500km、幅150kmの広大な地域を丸ごと水没させる大規模なものであったと推測されている。

ウルの住民が体験した「大洪水」は、地層からして紀元前4000~3500年頃だったとされる。(まだエジプトは初期王朝も始まっていない時代だから、エジプト側の記録は残っていない)

しかし洪水は、この2回だけではない。厄介なことに、ティグリス・ユーフラテスの両河川は、大規模な洪水を起こすと流れを変えてしまうことがあった。河川の経路が変わったために、水不足で滅びたと思われる都市すらある。

だから、その時々の流れによって、被害を受けた地域は異なる。実際、他の都市でも同じように竪穴を掘ってみたら、異なる時代に洪水跡が見られたという。ニネヴェの町はウルと同じ年代に洪水の跡が見られるが、ウルより河の上流なので体積層が少ない。ウルクやラガシュ、シュルッパクなどは現在は川に面していないが、紀元前2800年くらいに洪水による粘土の堆積が見られるという。


ニップル出土のシュメールの粘土板に書かれた洪水は次のとおりである。

暴風雨はすさまじく一束になって襲いかかり
大洪水は一挙に祭祀の地を一掃する
七日七夜
大洪水は全土を覆いつくし、
大きな船は風雨のために大浪にうちあたりたるのちに
ウツの神があらわれて
天と地に光をそそぐ
ジウスドラは大きな舟の窓を開く
英雄神ウツはそれに光をそそぐ
王ジウスドラはウツの前にひれ伏し
ウシをほふり、ヒツジを殺す

この洪水の記憶は、後にギルガメシュ叙事詩に洪水伝説として記憶されることになる。

最終更新:2017年02月15日 09:42