キリスト論


キリスト論はキリスト教の教理・教義、また神学の細目の一。三位一体の第2位格である子イエス・キリストはどのような存在であるかの定義、付随して先在、受肉、公生涯、十字架、復活、昇天などのキリストに纏わる事象や行為の意味などをキリストとの関わりにおいて考察する神学分野。

旧約聖書に預言されたキリスト

旧約聖書に預言されたキリストは、旧約聖書においてキリスト(ヘブライ語でメシア)のことを指し示していると、伝統的解釈において指摘されている預言である。

原福音(創世記3:15)

アダムとエバが楽園を追われた時、神はこのように言った。

創世記3:14-15
主なる神は、蛇に向かって言われた。
「(略)
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」

「お前」が「蛇」、「女の子孫」が「キリスト」とみなす。つまり、「彼はお前の頭を砕く」とは、「イエスが十字架の出来事でサタンに致命傷を与える」ということになる。
ユスティノスが紀元160年頃やエイレナイオス180年ごろ原福音について最初に言及し、それ以来伝統的な解釈になっている。

誘惑者である蛇と被誘惑者である女との間には、後の世まで戦いがあり、最終的には女の子孫が蛇に致命傷を与えると預言されている。女の子孫は単数形で集合名詞である。ダビデの子孫を指しており、最終的にはダビデの後裔キリストを指している。つまり、伝統的解釈によれば、キリストが蛇であるサタンに致命傷を与える十字架の出来事を預言しているとされている。

第二サムエル7:12-16

ダビデに語られた主のことば。

サムエル下7:4-17
しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。
「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。
(略)
主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。
あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。
わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。
わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。
あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。


ダビデの子ソロモンによる王権の確立も含むが、「王座をとこしえに堅く立てる」とは、究極的にキリストによる王権を指す。

詩編22篇

詩篇にはメシア詩篇と呼ばれる詩篇がある(T・アーネスト・ウィルソンは詩篇2篇、詩篇8篇、詩篇16篇、詩篇22篇、詩篇24篇、詩篇40篇、詩篇41篇、詩篇45篇、詩篇68篇、詩篇69篇、詩篇72篇、詩篇89篇、詩篇91篇、詩篇102篇、詩篇110篇、詩篇118篇をメシア詩篇としている)が、この詩篇もキリストの十字架での苦難を預言している。作者はダビデに帰せられている。

詩編22:2
わが神、わが神
なぜ私をお見捨てになったのか。
私の悲嘆の言葉は救いから遠い。

この冒頭の言葉はイエスが十字架の上で嘆いた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と同じであり、十字架上のキリストの最後の7つの言葉に関連がある。

インマヌエル預言(イザヤ書7:14)

キリストが処女(マソラ本文では乙女)から生まれることを預言。

イザヤ7:10-15
主は更にアハズに向かって言われた。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
イザヤは言った。
「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。

イザヤ書9:5

キリストの誕生の預言。

イザヤ9:1-5
闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

イザヤ書11:1-5,10

キリストが「エッサイの根株」つまり、エッサイの系列であるダビデの子孫から生まれ、どのような者となるか、ということが預言されている。

イザヤ書53章

キリストの受難を預言した箇所。「主の僕」の預言として知られる。

エレミヤ書23:5-6

バビロン捕囚の時代(前586年-)に、ダビデの子孫からキリストが生まれることを預言。

ミカ書5:2

キリストが生まれる場所を預言。

ゼカリヤ書9:9

キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城することを預言。

教派別のキリスト論

以下では、古代の教派により大別される思想毎に順を追ってみていく。

1.グノーシス派(仮現論=キリストの身体性を否定)


精神や霊的な存在は善、物質や身体は悪とする二元論を唱える派閥。
この捉え方からキリストをみるなら、イエスの身体的存在は幻のようなものに過ぎず、イエスの霊的な存在こそがグノーシスの顕現となる。この考え方では、物質的な存在である「父」は悪神とされる。物質や身体を悪とするこの捉え方は、神の「み言葉」の受肉や十字架の贖いの意味の否定につながるとして、教会は、精神的存在だけでなく、物質や身体も本来 聖なるものであると主張した。

2.エビオン派(養子論=人間であるキリストは、神である「父」の「養子」)

イエスが洗礼者ヨハネの洗礼、復活、もしくは昇天の際に神の子として養子になったとする論。Epiphaniusによれば、キリストが養子として選ばれたのは、キリストによる神の意思への罪のない献身の為である。
ユダヤ人キリスト教徒の一部で自らを貧しい者(エビオン)と称した一派の説である。エビオン派はトーラーを守り、禁欲的であったといわれ、3世紀から4世紀には消滅した。イエスはナザレのヨセフとイエスの母マリアとの子で、初めから神性があったわけではなく、洗礼を受けた際にキリストになった、として処女懐胎や、三位一体論とキリストの神性を否定する。
なお、イスラム教はイエスは神ではなく偉大な預言者(つまり神性を持たない人間)だと主張しており、エビオン派と関連が指摘される。

3.アリウス派(「子」=「父」より劣った神)


イエスは神聖ではあるが、あくまで「父」の被造物たる「子」である、とする考え。
アリウス派は、キリストを神とするものの、「父」に劣った「子」たる神であり、三位一体を否定する。キリストは「ロゴス」が受肉したものだが、そもそも「ロゴス」自体が被造物であるため、「御子が存在しない時があった」と主張する。
なお、エホバの証人はイエスは大天使ミカエルだとしており、アリウス派との関連が指摘される。
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-arianism.html

4.アナタシオス派(キリスト=「父」と同格の神=三位一体を肯定)

父なる神と子なる神であるキリストは同本質(同質とも。ホモウシオス、ギリシア語: όμοούσιος)であると主張した派を指す。
すなわちアタナシウス派が、三位一体を主張する。
アタナシウス派の中に、ネストリウス派、単性派、カルケドン派がある。
さらにカルケドン派の中に、カトリック、プロテスタント、正教会(オーソドックス)がある。

4-0.アナタシオス派における各派閥の差

アナタシオス派ではイエスが神であり同時に人間であることを認めるが、人格の数、本性の数、意志の数、また意志の数が一つなら、神性と人性がどのように合一しているのか、こういった詳細についての意見が対立していた。
  • 1P1N1w(1つの人格,1つの本性,1つの意志):単性論
    • 1つの本性に不完全な人性と完全な神性が存在:アポリナリオス主義
    • 1つの本性に神性と人性が合一して存在:エウテュケス主義
    • 1つの本性に神性と人性が独立して存在:非カルケドン派(合性論)
  • 2N(2つの本性):両性論
    • 2P2N2w(2つの人格,2つの本性,2つの意志):ネストリウス派
    • 1P2N2w(1つの人格,2つの本性,2つの意志):カルケドン派
    • 1P2N1w(1つの人格,2つの本性,1つの意志):単意論

4-1.単性説

単性説(Monophysitism)あるいは単性論とは、キリスト論において用いられたキリスト教用語で、受肉したイエス・キリストが単一の性(natura)のみを有するという説・論。カルケドン公会議で採択された、キリストは神性と人性という二つの本性を持つという立場(両性説)によって否定された立場である。
単性派は、キリストは、人間として生まれ、神性を帯び、聖霊の使命を与えられ、三位一体となった後、人間性は、神性に吸収され、神性だけの存在となったとする。単性派では、キリストが磔刑にかけられたことも、復活したことも、キリストが見せた幻であったとしている。

4-1-1.アポリナリオス主義、単性論(1P,1N,1W:人性=肉+魂のみ、神性∋理性〔ロゴス〕)

キリストには、人間の体と人間の魂(=人性)はあったが、人間の理性(ギリシア語: νοῦς, ヌース)は無く、神性・神言葉(かみことば・ロゴス)が人間の理性的霊魂の場を占めていたと主張した。アポリナリオス主義の主張を言い換えれば、イエスの人間性は完全な理性的人間ではないこととなる。(=人性が不完全)

4-1-2.エウテュケス主義、単性論(1P,1N,1w:キリストの人性→神性に融合して消滅)

キリストの人性は二つの性から成るが、受肉による合一以降、人性は神性に融合し、摂取され、単一の性になったとする。つまり、「一滴の蜜が大海に溶け込むように」キリストの人性は神性によって吸収されてしまったと考える。(=人性がない)

4-1-3.非カルケドン派=合性論(1P,1N,1w:キリスト=1本性=人性+神性、人性≠神性)
非カルケドン派による主張内容。合性論(Dyophysite)においては、イエス・キリストの一つの位格の中で神性と人性は合一して一つの本性(フュシス)になるが、二つの本性は分割されることなく、混ぜ合わされることなく、変化することなく融合する。
つまり、イエス・キリストは1つの位格しかないが、しかし、この唯一の位格の中に互いに融合もせず、混合しない2つの本性、すなわち完全な神性と完全な人性がある、と考える。
正統派はこれが単性論であるとして教義から退けたが、非カルケドン派は一つの本性とはいえども、神性と人性が完全に独立していると解釈していることから、合性論が単性論に含まれるとは考えていない。

4-2.両性論(2N)

両性論(Dyophysite)はキリスト教用語で、キリストが神性と人性を持つという考え方で、現在の正統派である。キリストは人性と神性という二つの完全な本性を持つとするもの。つまり、両性説はイエス・キリストは神性を持つ(すなわち完全に神である)と同時に人性も持つ(完全に人間である)という考え方である。

4-2-1.ネストリウス派・景教(2P,2N,2w:キリスト=人→神へ)

キリストは、人間として生まれ、神性を帯び、聖霊の役割を担う三位一体の存在となった、と考える。したがって、キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考える。それは、救世主(キリスト)の神格はイエスの福音書に宿り、人格は消え去った肉に宿っていたことを意味する。
そのため、キリストの人性を第一として神性を弱めることになる。また、聖母マリアは、単に人間の子(人性のみのキリスト)を生んだだけであるので、キリストを生んだマリアが神の母(テオトコス Θεοτοκος)であることを否定する。
景教として一時 中国で栄えた。

4-2-2.カルケドン派=両性論(1P,2N,2w:キリスト=2本性=人性+神性)

キリストはただ1つの位格を持つが、そこには神格と人格が分離されることなく独立して存在するという説である。
451年のカルケドン公会議で単性説を退ける形でカルケドン信条が正式に採択され、「両性は混合せず分離せず」と表記されたが、以後もこの問題に関しての議論が絶えなかった。

4-2-3.単意論(1P,2N,1w:キリストの意志はただ1つ)
単意論(Monothelitism)もしくは単意説とは、キリストは人性と神性という二つの完全な本性を持つが、キリストの人格にはただ1つの意志があるのみとする説である。681年の第3コンスタンティノポリス公会議(第六全地公会)で単意論が異端とされた。
この議論が出てきたのは、単性論者から、両性論者と単性論者の双方が納得するものを企図して出されたものが、帝国の統一維持を志向する東ローマ帝国の帝権の要請に合致したという背景があった。


最終更新:2020年10月04日 16:55