神を見る

聖書の中では、神の顔を見ることは非常に恐れられている。
それは、神の顔を見ると死ぬからである。

神の顔をみると死ぬ

主の顔を見ると死んでしまうことが以下の記載からわかる。

出エジプト記3:6
神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

出エジプト記33:20
また(主は)言われた。「あなた(モーセ)はわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

出エジプト記33:21-23
更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」

しかしそれと矛盾するような記述も見られる。

出エジプト記33:9-11
モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。

出エジプト記34:33-35
モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。

結局、神の顔を見ると死ぬのか死なないのかは不明である。しかし、この箇所は明らかに聖書の他のすべての個所と相反するため、神学的には、これは文字通り「顔と顔を合わせている」のではなく、友人に語りかけるように親しく語ったことを意味していると解釈される。

天使を見ると死ぬ

また、聖書では天使と神を同一視して、天使を見ると神を見たことになるから死ぬという話もあるが、天使を見て死んでいる訳ではない。

創世記32:31
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

士師記6:22-23
ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」

士師記13:22
マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言った。

神の顔はなぜ恐れられるか

恐らく、「神の顔を見ることを恐れる」きっかけはアダムとエバが神の顔を避けて身を隠したことに由来すると思われる。(創世記3:8)
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
最終更新:2017年04月29日 08:01