聖遺物

産着、下着、肩帯、帯、サンダル、弟子の足を洗ったたらいと足をぬぐったタオル、奇跡によってパンをふやした一二のパン籠、サマリアの女にあったときの井戸の縁石、アブガル王にあてた自筆の手紙、自印聖像、最後の晩餐のさいのテーブル、ゴルゴタの丘で脱がされたチュニカ、遺体を包んだかたびら、小びんに保存された血、その他受難のさいのほとんどすべてのもの、すなわち聖十字架、それをつくるときに使った槌、鋸、ねじ、十字架に打ち付けられた釘、いばらの冠、スポンジ、槍の穂先…など。

聖十字架

聖十字架は、聖遺物のうち、イエス・キリストの磔刑に使われたとされる十字架。 その断片は各地の正教会をはじめとした東方教会とカトリック教会に祭られ、他の聖遺物とともに信仰の対象となっている。
中世の伝説には、エデンの園の命の木(『創世記』2:9, 4:22)で作られているというものもある。

エルサレムは2度のユダヤ戦争によって破壊され、135年ごろにはローマ風の都市へと再開発されている。このため、30年ごろの出来事とされるイエス・キリストの磔刑の舞台、ゴルゴタの位置は分からなくなってしまっていた。 伝えられているところによれば、コンスタンティヌス1世の母フラウィア・ユリア・ヘレナ(聖ヘレナ)が326年にエルサレムを訪れ、当時はウェヌス神殿となっていた地をゴルゴタと特定した。これを取り壊し、建てられたのが現在の聖墳墓教会である。
このとき十字架3つと聖釘などの聖遺物も発見されたという。3つの十字架のうちのひとつに触れた女性の病が癒されたので、これがキリストが磔にされた聖十字架と分かった。ヘレナは聖十字架の一部をエルサレムに残し、他の一部と聖釘をコンスタンティノポリスに持ち帰った。

エルサレムの聖十字架は聖墳墓教会に置かれていたが、ヘラクレイオス帝の時代の614年にサーサーン朝ペルシアに奪われた。 ヘラクレイオスの東ローマ帝国はニネヴェの戦い (627年)でサーサーン朝軍を破ると628年にこれを取り戻しコンスタンティノポリスに持ち帰ったが、後にエルサレムに戻された、1009年ごろからはエルサレムのキリスト教信者たちの手で隠されていた。1099年に第1回十字軍が発見したとき、黄金の十字架にその木片が埋め込まれていた。 戦のたびにこの聖十字架は戦陣に持ち込まれたが、1187年のハッティンの戦いで奪われ、失われた。

早い時期から聖十字架は分割され、あちこちに置かれたらしい。 また1204年に、フランスの諸侯とヴェネツィア共和国が主体の第4回十字軍が東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノポリスを占領した。 このとき十字軍は、他の財宝とともに、金や宝石で飾られた聖十字架の断片を奪い、持ち帰っている。 その他聖十字架の破片であると主張される木片は多いが、総計すると十字架数十本分に当たり、ゆえにほとんどがまがい物であり、そもそも“キリストが磔にされた十字架”の存在・再発見の真実性まで辿り考えることとなる。

サンタ・クローチェ・イン・ジェルザレンメ教会の十字架

サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂(イタリア語: Basilica di Santa Croce in Gerusalemme)は、イタリア ローマにあるカトリック教会(教区教会)。『ローマの7つの巡礼教会』のうちの一つである。教会伝によれば、325年に聖ヘレナ(皇帝コンスタンティヌス1世の母)が聖地よりもたらした聖遺物を祀るために造られた教会だという。聖堂の床はエルサレム(ラテン語: Hierosolyma,ヒエロソリマ)から運ばれてきた土が敷き詰められていたため、この教会は『ヒエルサレム(Hierusalem)』と呼ばれた。なお、現在のイタリア語表記でのジェルサレンメ(Gerusalemme)は、エルサレムのことである。

教会内の聖遺物礼拝堂には、次のような聖遺物が納められている。
  • イエスが架けられた聖十字架の木片
  • イエスが架けられた聖十字架に取り付けられていた札(十字架の札)
  • イバラの冠の2本の棘

神聖ローマ皇帝の十字架

神聖ローマ皇帝のレガリアである帝国宝物の一つ

聖釘

聖釘(せいてい)は、聖遺物のひとつで、イエス・キリストが磔にされた際に手足に打ちつけられた釘であるとキリスト教内で言い伝えられているもの。

伝えられるところによれば328年ごろ、コンスタンティヌス1世の母親ヘレナがゴルゴタの丘の跡地、現在の聖墳墓教会付近で聖十字架とともに発見したとされる。三本が見つかり、一本はローマのサンタ・クローチェ・イン・ジェルザレンメ (Basilica di Santa Croce in Gerusalemme) に、もう一本はミラノのドゥオモに、最後の一本は諸説があり一説ではモンツァに残されたロンバルディアの王冠 (Corona Ferrea) 製造の際に中に組み込まれたといわれている。

しかしながら信仰の対象として各地のカトリック教会で祭られている。 カトリック百科事典によれば、世界中で祭られている聖釘は30本を下らないだろうと言われる。中でも最も有名なのは、いわゆる聖槍の中央部に針金で固定されているものである。

ロンバルディアの鉄王冠

ヨーロッパで最も古い王冠のひとつで、聖十字架が発見された際に同時に見つかった聖釘を引き伸ばして制作された王冠だと言われている。

聖槍

聖槍(せいそう)は、磔刑に処せられた十字架上のイエス・キリストの死を確認するため、わき腹を刺したとされる槍である。イエスの血に触れたものとして尊重されている聖遺物のひとつ。新約聖書の「ヨハネによる福音書」に記述されている(19章34節)。ヨハネ伝の作者は、仮現説論者に対し、この箇所で、イエスが一度死んだことを強調しているとも考えられる。またキリスト受難の象徴でもある。槍を刺したローマ兵の名をとって、「ロンギヌスの槍」とも呼ばれる。
聖遺物崇敬が高まった時代にいくつかの「聖槍」が発見され、現在も複数が保存されている。

ローマの聖槍

イエスの処刑から600年後、エルサレムはペルシャ軍に占領された。この時、原因は不明だが槍の先端部が欠けた。先端部は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブール)に運ばれ、宝石で飾られた十字架の中心部に埋め込まれた。そして、当時キリスト教の教会だったアヤソフィア大聖堂に収められ、80年後には本体も届いた。その後しばらくはここにあった。
さらに600年後、フランス国王ルイ9世が先端部のみを買い取った。槍の先端はパリに保管されるが、フランス革命により行方が分からなくなる。一方、本体は15世紀にイスラム勢力によってコンスタンティノープルが陥落した時もそこに留まった。
1492年、オスマン帝国のスルタンバヤズィト2世は、かつて聖墳墓教会にあったとされる聖槍を教皇インノケンティウス8世に贈った。スルタンの座を狙う弟をイタリアに幽閉してもらうための交換条件だったとされる。この聖槍はサン・ピエトロ大聖堂に保管されているが公開はされていない。

アンティオキアの聖槍

第一回十字軍がアンティオキア攻囲戦で苦戦しているとき、トゥールーズ伯レイモン麾下のペトルス・バルトロメオなるものが、聖アンデレのお告げにより聖槍を発見したと主張した。十字軍将兵の士気は高まり、勝利を得たが、槍の真贋を疑うものも多かったため、自ら神明裁判を買って出た。ペトルス・バルトロメオは槍をたずさえ火に飛び込んだが火傷が酷く、数日後に死亡し、槍はその後行方不明となった。

神聖ローマ皇帝の聖槍

ホーフブルク宮殿が所蔵する「聖槍」。神聖ローマ皇帝のレガリアである帝国宝物の一つ。
神聖ローマ皇帝のレガリアである帝国宝物のひとつである聖槍は、オットー1世の時代から伝わるとされている。長らくニュルンベルクで保管されていたが、ナポレオンの侵攻以降はウィーンで保管されている。アンシュルス後にはナチスによってニュルンベルクに戻されたが、戦後にはウィーンに戻っている。
Robert Featherによる詳しい研究の結果、槍の大部分は鉄製と判明した。外側を覆う金の鞘には「神の釘、神の槍」と書かれている。これは金の鞘の下に十字架が描かれた釘が埋め込まれている事とも一致する。 さらに、清掃時の分解写真によると、黄金の鞘の下にもう一層の銀の鞘がある事が見て取れた。そのうちの1枚にはラテン語で「聖モーリスの槍」と書かれていた。 銀の鞘の他の部位には「ローマ皇帝ハインリヒ3世が、聖なる釘と聖モーリスの槍を補強するためにこの銀の鞘を造らせた」と同じくラテン語で書かれていた。
記録でわかる限り、この槍はエジプトでローマ軍の隊長であるモーリスの物だったとされる。モーリスと彼の部隊はキリスト教徒だった。286年、皇帝マクシミアヌスの命により、彼は槍を携えてヨーロッパに遠征した。スイスのレマン湖周辺で起きた暴動を鎮圧するためだったが、彼らが到着した時には反乱は鎮圧されていた。反乱軍がキリスト教徒だったと知ったモーリスは、皇帝に願い出て処刑を拒否した。これに激怒した皇帝はモーリスとその部隊全員を処刑するように命じたとされ、死を前にしても揺らぐ事のないモーリスの信仰心は中世の騎士たちの模範となり、彼は騎士や戦士の守護聖人である聖モーリスとなった。
モーリスの処刑後、槍はコンスタンティヌス大帝のものとなった。当時ローマ帝国は政治的、宗教的に東西に分裂していた。 コンスタンティヌス大帝は帝国の覇権をかけた戦いの直前、輝く十字架と「この印の下、汝は勝利するであろう」という文字を夢に見た。これに心動かされたコンスタンティヌスは自分の兵士たちの盾に、キリストを意味する頭文字を描かせた。さらに、戦いには聖槍を持って臨み、勝利を収め、キリスト教に傾倒したとされる。 後年、帝国をまとめるには新たな宗教が必要と考えた彼はキリスト教を公認した。
476年、西ローマ帝国が滅亡。その200年後、槍はカール大帝の手に渡った。彼が教皇から皇帝に任命された後、聖槍の行方は分からなくなる。
その後、銀の鞘の上に黄金の鞘をつけたのはカール4世だと考えられる。彼は次期神聖ローマ皇帝を狙っていた。そして、カール4世の子孫が生活に困り、ニュルンベルクの町議会に売り渡してしまった。

アルメニアの聖槍

アルメニアのエチミアジン大聖堂に保存されている聖槍は、現在のゲガルド修道院がある場所で発見されたと言われている。
逸話によると、聖槍を持ち込んだのは12使徒の1人タダイである。この地に流れてきたタダイは聖槍を持っていたために、地元の異教徒に恐れられ首を刎ねられたとされる。タダイは死ぬ前に数人の異教徒をキリスト教に改宗させており、キリスト教徒たちはタダイの死後、聖槍を秘密の洞窟に隠した。現在のゲガルド修道院がある場所である。聖槍はそこに200年間眠り続けた。
次にこの聖槍を手にしたのはアルメニアで福音書の教えを広めようとしたグレゴリウスであるとされる。しかし、グレゴリウスは異教の権力者に捕らえられ、ホルヴィラップ修道院の地下牢に13年間閉じ込められてしまう。グレゴリウスは奇跡的に生き延び、聖槍を取り戻すと、王と民衆をキリスト教に改宗させ、301年にアルメニアは世界初のキリスト教国家となった。
アルメニア教会は槍がローマのものでは無い事は認めており、イエスの時代のユダヤ人兵士が使っていたものとしている。

聖骸布

自印聖像

シリアのエデッサを治めていた王・アウガリ(アブガル)は癩病を患った。当時、多くの病の癒しの奇蹟をイイススが行っている事を聞き知っていたアウガリはイイススのもとへ使者として画家アナニヤを送った。アナニヤはイイススの肖像画を描く事も命じられていたが、現地に着くと、イイススが遠く群衆の中にあったこと、そしてその顔が光り輝いているために描く事ができなかった。するとイイススはアナニヤの存在に気付き、自らの許に招いた。

アナニヤに持たせた手紙の中でアウガリは、多くの癒しはイイススが神の子であるからだと告白し、ユダヤ人がイイススに危害を加える計画を立てているそうであるが、自らの町ならば安全を保障出来るので、是非とも自分の町に来てもらいたい、そして病を癒して欲しいと、辞を低くして懇請していた。

イイススが顔を洗い、自らの顔を布に押し当てると、イイススの顔が布に写るという奇蹟が起きた。この時の布が自印聖像と呼ばれるイコンである。そしてイイススはアナニヤに手紙を持たせた。手紙にはアブガル王の信仰について「見ずして信じる者はさいわいである」事について書かれていた。また、アウガリの町に行くことについては、自らの受難を予言した上で断った。

イコンと手紙を見た王の喜びは大きなものであり、らい病はたちまち良くなった。イイスス・ハリストスの昇天の後に、アウガリはファディ(タダイ)から洗礼を受けた。アウガリはクリスチャンになった最初の王と伝えられる。
王は城壁の門の上にこの自印聖像を掲げた。その後、時代が下ると紛失・再発見を繰り返していたが、エデッサからコンスタンティノープルに一度移された。この事を記念するのが8月29日(修正ユリウス暦使用教会では8月16日)である。しかし第四回十字軍の時代に失われて以降、本物の自印聖像の行方については各種伝承が各地に伝えられているものの、本当の所在は分からなくなっている。

ヴェロニカの聖骸布

イエスが十字架への道に向かうなか、イエスの顔をぬぐったヴェロニカの布に、イエスの顔が転写されたというもの。
ヴァチカンがこの原本とされるものを入手しているが、真実性は疑わしい。なお、ヴァチカン所有のヴェロニカの聖骸布は以下のような奇跡を起こしたとされている。

1849年シスター・マリー・ド・サン・ピエールの死後まもなく、時の教皇ピウス9世は、ローマのすべての教会で、その時代に起こっていた革命のために教皇国家への神の慈悲を懇願するために公の祈りを提供するよう命じました。これらの公の祈りの一つとして、ヴェロニカのベールの遺物の3日間の展示が、サン・ピエトロ大聖堂にて公への崇拝のために行われた。その展示の3日目にあたる1849年1月6日、ある奇跡が起こった。この奇跡を通じて、ベールの上のイエスの顔がとても明瞭になり、かつ柔らかい光に覆われ輝いたのである。大聖堂のCanonsはこの奇跡を見るなり鐘を鳴らすよう指示し、人々の群衆を集めることとなった。この奇跡は3時間続き、この事件の間に使徒公証人により証明され、バチカン公会議の日記の中で文書化されることとなった。

トリノの聖骸布


聖杯

共観福音書によれば、最後の晩餐でイエスはパンを裂き「私の体である」と言って弟子たちに与え、杯を取って「私の血である」と、弟子たちにその杯から(ワインを)飲ませる。『ヨハネによる福音書』にはこの場面はない。

イエスと弟子たちの最後の晩餐に使われたものと信じられている聖杯はいくつか存在する。

エルサレム近くの教会にあったとされるもの

7世紀、ガリアの僧(Arculf)が聖地巡礼のさいに、エルサレム近くの教会でそれを見て、触れたと証言している。銀でできており、把っ手が2つ対向して付いていたという。現在の所在は不明。

ジェノヴァ大聖堂にあるもの (sacro catino)

1101年にカイサリアで発見されたと伝えられる。対角37cmの6角形で、杯よりも鉢に近い。エメラルドでできていると信じられていたが、ナポレオン・ボナパルトがイタリアを占領したときパリに運ばれ、後に返還されたときには割れており、緑色のガラスであることが分かった。ウォラギネの『黄金伝説』(13世紀)で触れられていたものと思われている。

バレンシア大聖堂にあるもの (santo cáliz)

イエスの弟子ペトロがローマに持込むが、弾圧の危険に聖杯はいったんピレネーに難を逃れる。その後スペイン内を転々とした後バレンシアに持ち込まれたと伝えられる。直径9cmの半球状、高さ17cm。暗赤色のメノウでできている。1960年にスペインの考古学者(Antonio Beltrán) は、紀元前4世紀から1世紀にエジプトかパレスチナで作られたもので、時代的に合うと主張した。

メトロポリタン美術館にあるもの (Antioch Chalice)

1910年にアンティオキアで発見された。外側は鋳物で装飾が施され、内は銀の2重構造になっている。聖杯ではないかとの触れ込みで、1933年のシカゴ万国博覧会(第2回)で展示された。その後の研究によれば、6世紀にアンティオケイアで作られたものとされる。杯ではなく教会で照明用に使われたものと思われる。

その他

イエスのゆりかご

サンタ・マリア・マッジョーレ教会が保管している「聖なるゆりかご ( Sacra Culla ) 」。誕生したイエスが寝かされたゆりかごの一片らしい。

むち打ちに合った際に縛り付けられた柱

そのサンタ・マリア・マッジョーレ教会のご近所にあるサンタ・プラッセーデ教会 ( Basilica di Santa Prassede )には、1223年にジョヴァンニ・コロンナ枢機卿 ( Giovanni Colonna ) がエルサレムから持ち帰った「イエスが鞭打ちにあった際に縛り付けられた柱 ( Colonna della Flagellazione ) 」の一部が残っている。

茨の冠

いばらの冠は長い間コンスタンティのポリスに保存されていたらしいが、コンスタンティのポリスにたどり着いた経緯は不明。その後、13世紀のフランスの王ルイ九世 ( 聖王ルイの名で知られています ) が購入し、現在はパリのノートルダム大聖堂が所有。しかし冠についていた棘のひとつひとつはイタリアをはじめ世界中に散逸し、数多くの教会が所有を主張している。

イエスの血

伝説によれば、イエスの脇腹を突いたローマ兵ロンギヌスは、イエスを突いた際にその血を病んでいた目に浴びて、目の病が治ったという。そのため、イエスの血を小さな瓶に入れてマントヴァの地に運んだのだらしい。そのイエスの血を保有している教会がマントヴァのサンタンドレア教会 ( Basilica di Sant'Andrea ) ということだが、イエスの血を所有を主張する教会はイタリアをはじめとするヨーロッパ各地の教会に存在している。


最終更新:2017年08月03日 11:44