受難曲

典礼劇の始まり

受難曲に至る源流の一つといわれるものである。典礼劇の源流は教会の典礼から発したもので、ミサの中でトロープスがその源というのが定説である。
最初にこのトロープスの説明から入る。

トロープス

トロープス (羅 tropus)とは、中世後期のカトリック教会においてグレゴリオ聖歌の整備と共に広まった、ミサ曲のキリエ等の歌詞に平行または挿入して付加された補足説明的な歌詞を持つ部分を言う。

ミサの形の基礎を整えたのはグレゴリウス1世(在位:590~604年)といわれており、現在のミサ通常文が典礼に用いられるようになったのが7世紀と言われている。

ミサで歌われるキリエの歌詞は非常に単純で短いため、特に"kyrie"と"eleison"の間で1つの音節に対して多数の音符を与え母音を長く引き延ばすメリスマを多用する歌い方がされる。カロリング朝フランク王国の下でグレゴリオ聖歌が整備されるにつれ、この長く引き延ばされた部分に平行あるいは挿入する形で、説明的な歌詞(多くは作詞されたもの)とその歌詞に合わせた細かな抑揚が付加されるようになった。この部分をトロープスと言う。例えば、『'Kyrie fons bonitatis eleison(主よ、善の泉よ、あわれみたまえ)'』などである。

この例は非常に短い挿入句だが、次第に長いものが表れ、この部分にグレゴリオ聖歌と違った新しい旋律をつけて朗誦することが盛んに行われた。このようにして、10~11世紀頃には修道院で盛んに新しいトロープスが生み出されたのである。

典礼劇への発展

その後メリスマの強い他の聖歌に対しても同様な付加が多く行われた。(また拡大した解釈では、歌詞ではなく既存のメリスマに新しいメリスマの曲を付加した音楽の部分を指すこともある。)後にキリエよりも元々ミサに対する紹介的な性格を持つイントロイトゥス(入祭唱)に於いてトロープスが非常に拡大し、寸劇を加えて典礼劇にまで発展した。

書き加えられる言葉は次第に具体性を帯びて視覚的要素も加え、その場面の行為そのものを克明に描くようになる。すると、動作をつけて芝居仕立てになって行った。さらに、受難から復活にかけての聖週間では、福音書を3人の聖職者が役割(キリスト、福音史家、その他)を決めて歌うやり方が10世紀頃からあり、これも典礼劇に発展していく原動力の一つだったといわれている。

トロープス起源の典礼劇の題材としては、キリスト降誕の物語、受難物語、復活物語、色々な預言者や聖人の物語などが取り上げられたようである。そして演じられる場も教会内部だけではなく、教会の前庭、さらには街の中心の広場にまで広がることになる。それでも最初の間は演じるのは聖職者だったようだが、次第に市民も出演者となり、近隣の人々も集まって楽しむ年中行事の大パーフォーマンスに発展していった。

こうなると、修道院や教会の内部での新たなトロープスの作曲は下火になり、宗教改革に対抗して開かれたトレントの公会議(1545~1563)では、「淫らなものや不純なものが混入した音楽はすべて教会から取り除かなければならない」と決定され、トロープスは全面禁止となり、教会での役割には終止符を打った。

一方で、「典礼劇」は、15~16世紀には神秘劇と言われるさらに大規模な演劇に発展する。このころは専門の俳優ではなく市民が演じる形だったが、16世紀以降は本職の俳優による世俗的な創作劇に関心が移って神秘劇も表舞台から消えていった。音楽の面で言えば、オラトリオやオペラにもつながる動きである。

なお、典礼劇、神秘劇の幾つかは今日にまで伝わっており、旧約聖書の預言者の一人ダニエルを主人公とした「ダニエル劇」が最も有名である。

受難曲の始まり

典礼の一つの山場は「信仰宣言」(カトリックのミサ通常文では 'Credo' )だが、その前に福音書朗読がある。これは、その日に因んだ聖書の部分を朗読するというものである。従って、イエスが十字架につけられた聖金曜日の礼拝では、聖書の受難の場面が読まれることになる。当初は司祭が多少の抑揚をつけるものの延々と聖書の受難の場面を読み上げましたが、やがてこの部分に音楽が付けられるようになり、受難曲へと発展していく。

受難の朗読記事

そもそも受難の場面を読み上げる習慣は4世紀にさかのぼる。4世紀のエルサレムの礼拝の記録の中に既に聖書の中の受難の部分を朗読することが行われていた。その後、4世紀から5世紀頃にはアウグスティヌス(354~430)の影響力が強くなる。アウグスティヌスによるとイエスの受難は単なる悲劇を描いたのでなく、神がそのような出来事とその摂理を望まれたと説き、受難の摂理を淡々と説くことを求めた。この頃から礼拝で聖書を読むことが定着し、毎年の受難週になると聖書のうちの受難の記事が読まれることになった。
福音書にはマタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの4書があるが、5世紀のレオ教皇によって、どの祝日にどの福音書を読むかが定められた。即ち、復活祭の1週間前の主日(棕櫚の主日)にはマタイ福音書、イエスが十字架上に死んだ聖金曜日にはヨハネ福音書と決まった。この習慣は20世紀半ばの第2バチカン公会議まで続く。ヨハネ福音書が聖金曜日に読まれるようになったのは、弟子のうちでヨハネが最後まで十字架の下に留まったからだといわれている。
さらに7世紀になると、聖週間のうち水曜日にルカ福音書を、火曜日にマルコ福音書と決まった。(ただ、受難週といえども平日に福音書を読む習慣はカトリックとプロテスタントのうちルター派だけである。)

受難劇の始まり

具体的に「受難曲」につながっていくトロープスの例は以下である。
それは10世紀頃に作られた『Quem quaeritis in sepulchro(墓場で誰を探しているのか)』という天使と3人のマリアたちの対話形式のものである。
「墓地で誰を探しているのか」
「ナザレのイエスです」
「その方はここにいない。予言されたように復活したのだ。さあ、行ってこのことを皆に告げよ」
「アレルヤ、今日、主は復活されたのだ―――」
というような歌詞で、最初は復活祭のミサの入祭唱の前に歌われていたものが、次第に歌われる場面が変り、最終的には朝課(深夜から未明にかけての礼拝)の終わりに、聖職者達によって祭壇の横で音楽を伴った“寸劇”として演じられるようになり、これが受難曲につながる典礼劇の始まりの一つと言われている。

朗誦される受難記事

中世の礼拝では、助祭が受難記事の朗誦を担当した。朗誦というのは、朗誦定式と呼ばれるパターンに従い、一定の音を繰り返す形で、旋律的な動きがあるのは初めや終わりのわずかな部分である。こうした朗誦は口伝で伝わってきたが、11世紀頃から少しずつ文字で伝わるようになる。役割毎に「S」(高く)、「C」(エヴァンゲリスト)、「G」(イエスの言葉、低くあるいは厳かに)とか言った文字が記されている。さらに12世紀頃になると音程を明確に定めた写本が現われてくる。
この12世紀というのは神学的な観点での転換点に当たると言われている。それは11世紀から13世紀にかけて十字軍が派遣されますが結果的にはすべて失敗に終り、エルサレムを回教徒から奪回することが出来なかった。このことから、それまであった「勝利の教会」という自信が崩れ「苦しみの教会」という認識に変ったといわれている。さらに、「十字架とイエス・キリストが意味するのは、痛みと苦しみにまみれたイエス」という認識につながり、さらに血に染まったイエスとともに苦しむという考え方が生まれ、その背景には、「イエス・キリストが苦難を受けたのは私達の罪のためである。私達の罪はそれほど深いのだ。」という思いがあるといわれている。

多声化の始まり

話を15世紀に進めると、この時代には、信仰の流れとしては、「共に感ずる、共に苦しむ」がさらに募って、「イエス・キリストを真似る、あるいはその後に従っていく」という変化が生じたといわれている。また、ある歴史家によると、この時代は歴史上、イエス・キリストの苦難と死の問題を最も切実に追い詰めた時代であるという。
音楽面では、音楽史上のルネサンス到来(15世紀)とともに、多声化が現われてくる。今の感覚で考えると、複数人物の発言だけが多声化されるのかと思われるが、当時の作例を見ると、必ずしもそうではなく、個人(ペトロ、ユダ、女中など)の発言や、イエスの言葉まで多声化するもの、さらに、福音記者の語りの一部(とくに最後の部分)をも多声化するものなどがある。つまり、テキストのすべてを多声化した受難曲もあらわれる。最後のようなタイプを「通作thorough-composed」受難曲と呼んでいる。

ルネサンスの応唱風受難曲

朗誦定式の語りを合唱が中断する形の受難曲を「応唱様式」と呼び、15世紀のイギリスで作曲されたそのような形の受難曲が残っている。しかし、その後、宗教改革の影響もあってか、イギリスでの受難曲の作曲例が減ってしまう。
15世紀後半から16世紀へかけて受難曲の発展を担ったのは、イタリアで、その多くが、応唱風受難曲だった。それらに共通した特徴は、多声合唱が和声的な様式で書かれていることである。つまり、全部のパートが歌詞シラブルの進行に合わせて、同じリズムにより協和音を重ねて進み、バスは主として、四度と五度の音程で歩んでいく。その結果、言葉はとらえやすいが、音楽的には素朴で単調な音楽となりました。
ルネサンスの巨匠オルランド・ディ・ラッソ(1532~94)が、バイエルン選帝侯の礼拝のために書き、1575年にミュンヘンで出版した《マタイ受難曲》も、シンプルな応唱風受難曲だった。このような応唱風受難曲では、楽譜に書かれているのはやはり多声部分のみだが、群衆は五声、単独発話者はニ声と、多声内でめりはりがつけられている。

ルネサンスの通作受難曲

福音書記者(語り手)の言葉を含めて、すべてのテキストを頭から多声で作曲してしまうというのは奇妙にみえるが、当時の音楽家にとっては、聖典としてのテキストを尊重する態度の一つだったとみえて、「通作受難曲」は、アルプスの北を中心に、かなりの数作曲された。
このタイプの受難曲の有名な、おそらくもっとも古い例は、アントワーヌ・ロングヴァルの《マタイ受難曲》(1538年出版)で、この曲は、「マタイによるわれらの主イエス・キリストの受難」という題句で開始されるが、テキスト中には、他の三つの福音書からの引用が随時見られ、正しくは《マタイ受難曲》というより、後述の「調和受難曲」の系列に属するものといえる。ロングヴァルの受難曲は、カトリックの作品であるにもかかわらず、むしろルター派の作曲家たちに大きな影響を与え、一連のドイツ語による通作受難曲の先駆となった。
なお、通作受難曲は、以前は「モテット風受難曲」と呼ばれていましたが、多声楽節の多くが今で言うホモヴォニーの様式をとっており、モテットの複雑な対位法的スタイルとは異なるため、近年では、「通作受難曲」という呼び方が一般化している。

宗教改革初期のルター派受難曲

16世紀前半にカトリックと袂を分かっかルター派では、さまざまなタイプの受難曲の創作が試みられた。中でも重要で、長期にわたって権威を維持したのが、ルターの友人ヨーハン・ヴァルター(1496~1570)の受難曲である。これは、ルター訳聖書のドイツ語に合わせて作り直された朗誦(グレゴリオ聖歌の朗誦定式の面影を残しており、朗誦音上でさかんにシラブルを反復する)に、ホモフォニー様武の素朴な合唱を添えたもので、ヴァルターの受難曲はバッハ時代のライプツィヒにおいてもなお用いられていた。
ヴァルターの朗誦パートは、その後、グレゴリオ聖歌の朗誦定式にあたる役割をルター派圈において果たし、作曲家たちはこれを受け継ぎながら、新しい多声部分を加えていった。16世紀の半ばからは、「われらの主イエス・キリストの受難」という題句と「われらの主に感謝しよう」という結句(いずれもドイツ語)を、多声で作曲する習慣が生まれました。続いて、キリストの言葉を多声で作曲する方法が、イタリアの作曲家アントーニオ・スカンデッロ(1517~80)を通じて、ドイツに入ってきた。
イタリアには見られないドイツの受難曲の特色は、四つの福音書の記述を混合して一つのストーリーにまとめた「調和受難曲」(総合受難曲summa passionisとも呼ばれる)の存在である。これは、福音書の受難記事が互いに補い合い、それによって一つの真理を指し示すという、「福音書の調和 Evangelien harmonie」の考えを前提としている。

オラトリオ受難曲の成立と発展

17世紀の半ばに、北ドイツのハンザ同盟都市で、声楽のみによらず楽器を用い、聖句に含まれない自由詩讃美歌を挿入するタイプの受難曲が書かれ始められた。このタイプを「オラトリオ受難曲oratorio passion」と言う。ヴォルフェンビュッテルのマルティン・コレールスという作曲家が作曲した《マタイ受難曲》(1664年)が、その最初だといわれている。


最終更新:2017年05月28日 11:49